朝拝(ガラテヤ書講解22) 2007/07/08
『御霊の実を結ぶ』

ガラテヤ5:22-26

この朝は、主イエス・キリストを信じる私たちのうちに、今、住んでいてくださる聖霊の神によって、私たちが日ごとの生活の中で結んでいく「御霊の実」について、その祝福とその実を結びながら生きる私たちの生について御言葉から教えられたいと思います。

(1)御霊の実(v.22-23)
前回私たちは、「御霊によって歩みなさい」というパウロの命令の言葉を聞き、さらににもかかわらず御霊に逆らっている肉の現実と、それがもたらす肉の行いについて御言葉が率直に語るところに聞きました。今日開かれている御言葉は、本来ならこの肉の行いと対になっているひと続きの箇所で、肉の行いに縛られるのではなく、聖霊によって今や神の子ども、自由の子どもとされている私たちに、御霊によって生きる生き方を教える大切なところです。それは一言で言うならば「御霊の実を結んで生きよ」という新しい生への促しの言葉でありました。22節、23節。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」。この御言葉、ご一緒に暗唱して口ずさんでいきたい、そんな御言葉です。聖霊によって私たちのうちに形作られる生き方をパウロは「御霊の実」という言葉で言い表しているのです。
ここでいくつかの点に目を留めておきたいと思うのですが、その一つ目はその実の中身ということです。前回私たちは肉の行いのリストを神に対する罪、自分に対する罪、隣人に対する罪の三つに分けました。これに対してここでの御霊の実のリストについても、いろいろな分け方ができるのですが、この三つに当てはめることもできるだろうと思います。最初の三つは神と私との関係として、神が私を愛し、喜びで満たし、まことの平安を与えてくださる、そのような意味で受け取ることができるでしょう。次の三つ、すなわち寛容、親切、善意は私と私の隣人との関係として、私が隣人に示す姿勢として受け取ることのできる勧めです。そして最後の三つ、誠実、柔和、自制は自分自身に対するとるべき態度ということができるのではないでしょうか。さらにこれらはそれぞれ別々の実ということではありません。「御霊の実」は原文では単数形が使われています。つまり愛はあっても寛容はないとか、親切はあっても自制がない、というようなものでなく、一つのトータルな在り方として示されているもの、それが御霊の実ということなのです。
 次に考えたいのは御霊の実の性質ということです。ここで数え上げられている一つ一つを見る時に気づかされるのは、いずれのものも私たちの外から来て、私たちにつけ加えられ、習得されるような特殊な能力、技術、賜物というようなものでなく、それらは私たちの内側にあって形作られていく私たちの人間性、品性というようなものだということです。私たちは聖霊に支配される生き方というと、何か今までにはない劇的な変化を体験するとか、特殊な霊的な経験をするとか、これまでと違った能力や著しい賜物を身に着けることなどを考えがちですが、ここで聖書が語っていることを注意深く見る時に、むしろ聖書はそのようなあからさまなあり方というよりも、むしろじっくりと時間をかけて清められ、整えられていく私たちの人としてのあり方の深まり、品性の成熟と言うことを教えているということです。私はきよめられた信仰者というのは本当に深い人間への洞察や他者に対する豊かな共感、寛容の心とへりくだり、そして穏やかさをたたえた深い人間性を指すことと思います。つまり私たちがキリストの者とされていくことは、何か私たちが人間の姿から離れて別の存在になっていくということでなく、むしろ本来あるべき人間の姿に近づいていく、そのような真の人間性の回復ということであろうと思うのです。私たちが生きているこの時代は、まさに人間の心が失われつつある時代です。他者の痛みへの無関心や、自分の欲望へのあくなき追求、人の心を思いはかることのできない浅薄さ、表面的で空虚な言葉。しかしそんな時代のただ中にあって、御言葉は私たちに御霊によって歩めと命じ、御霊の実を結ぶ生へと私たちを押し出すのです。

(2)キリストにつく者(v.24)
 次に考えたいのは御霊の実の起源ということです。私たちは何故に御霊の実を結んで生きることができるようされるのか。パウロは言います。24節。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」。ここで私たちは2章20節の御言葉を思い起こしたいと思います。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。これらの御言葉を合わせて考えながら、あらためて24節を見るならば、このように言うことができるでしょう。「キリスト・イエスにつく者、すなわちキリストが私のうちに生きておられるという現実に生かされている者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのであり、私はすでにキリストとともに十字架につけられたのであって、もはや私が生きているのではないのだ」。ここでパウロの心の中には私たちが罪に対して死に、キリストにあって生きるために受けた洗礼の恵みが思い描かれています。ですからパウロがここで言わんとしていることは、洗礼を受け、自分の罪を十字架につけて一度決定的に罪に死んだ私たちは、今や聖霊によって新しく生まれて、キリストに結ばれて生きる者とされたのであって、そこではもはや肉の欲望や罪の問題は根本的に解決済みであり、むしろ御霊の支配の中で、礼拝の歩みの中で、日ごとに御霊の実を結びながら生きる生へと今まさに生き始め、生き続けているのです。
 パウロが2章20節と同じような言葉をここでも繰り返していることにも意味があるでしょう。つまり先には信仰義認の教えの中で、いわば理屈の上で語ったことを、今まさに私たちが生きているこの現実においてあらためて捉えているということになるのです。ですから、私たちは「御霊によって歩みなさい」とか「御霊の実を結ぶ」ということを決して新しい律法の言葉、私たちに新しい重荷を負わせる言葉として聞いてはなりません。パウロが御霊の「実を結ぶ」という植物の生育を例に引いていることの意味をとらえたいのです。つまり確かに御霊の実を結ぶ歩みは、私たちに新しい決意を促すのですが、しかしそれは私が私の意志の力や努力によって獲得していくようなものではありません。むしろ私たちは実を結ぶことが全く受け身の事柄であるように、私たちのうちに働いてその実を結ばせてくださる聖霊の神に全面的に自らを委ね、明け渡し、その導きに従順に従うようにと促されているのであって、その聖霊の働きかけに対して頑なになったり、体をこわばらせるのではなく、むしろ素直に聖霊の大いなるお働きに信頼して自らを委ねていくことが大切です。実は自らの力で実を実らせるのではなく、育て上げてくださる神のいつくしみと恵みの御手の中で確かに育まれ、養われ、やがては豊かに実りを結んでいくことができるのです。

(3)御霊に導かれて進もう(v.25-26)
 これまでご一緒に見てきた御霊の実を結ぶ生き方について、パウロはあらためて次のように語っています。25節、26節。「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」。これもおさらいになりますが、前回私たちは5章16節の「御霊によって歩みなさい」と言う御言葉から学んだ際に、パウロが「歩む」と言う言葉を用いる時は、それが生きることそのもの、私たちの日々の具体的な生きる営みを指していると申し上げました。まさにこの25節がそのことを証ししています。ここで目を留めておきたいのは、「もし私たちが御霊によって生きるのなら」という一節です。この「もし」は、本当にそうであるか分からない、はっきりしない、そのような仮定の意味での「もし」ではありません。むしろ主イエス・キリストにある者が今まさに聖霊によって生かされている現実を指す言葉であって、その意味を汲み取って言い直すならこう言うことができるでしょう。「私たちは今まさに御霊によって生きているのだから、御霊に導かれて進もうではありませんか」。これはパウロが繰り返し用いる大変重要な命令の言葉です。パウロが私たちにキリスト者としてのあり方、生き様についての命令を与える時には、いつも「このように生きなければ救われない。そんな生き方をしていてはキリストのものとなれない」という私たちを絶えず不安の中で緊張を強いて、律法の中を歩ませるような言葉ではなく、「すでに救われているのだから、神の子とされているのだから、自由の子とされているのだから」、その恵みによって生きようではないか、という励ましの言葉なのです。エペソ書4章1節の「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」もしかり、5章8節、9節の「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」もしかり、コロサイ書2章6節。「あながたがは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」もしかりです。
 このように、私たちは主イエス・キリストを信じる時に罪赦され、神の子とされ、罪と死の奴隷の状態から解き放たれて自由な者とされると聖書は教え、さらにそこで終わりではなく、そこから今度は真の人間として生きるために、御霊の実を結んで生きる人生へと導かれていくと聖書は教えます。どんな人でも、今あるところから悔い改めて立ち返り、主イエス・キリストを私の救い主と信じ受け入れるならば、主は私たちを新しくし、本当に自由な者として生きることのできる日々、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結びながら生きる日々へと生かしてくださるというのです。もちろんそれは一足飛びにできあがるものではないでしょう。パウロが「御霊の実」というたとえを用いる最後の意図はそこにあります。様々な風雪や日照りの時、嵐の時を耐えて、時間をかけて、手間暇をかけられて、そうして豊かな実りを結ぶ時が迎えられるのであり、それには多くの忍耐の時が必要でしょう。しかしそのような時を通して私たちは磨き上げられ、味わい深く、練られた品性を身に着けた御霊の実を結ぶ人として育て上げられていくことができるのです。
 御霊の実を結び、御霊によって歩み、御霊に導かれて進む。それはちょうど生まれたばかりの赤ちゃんがはいはいをし、つかまり立ちをし、やがて自分の足で立ち、伝い歩きをし、そしてついには自分の足で歩き始める様に似ています。そこではたくさんの失敗もあり、忍耐もあり、困難もあるでしょう。でもそうやって歩き始める力が赤ん坊の命と体には豊かにみなぎるほどに与えられています。また一人で歩き始めるまでの日々を、赤ちゃんは苦痛の時として過ごしているのでもありません。その都度その都度、得意げに笑顔を見せながら進んでいく姿を私たちはよく知っています。そしてついに自分の足で歩み始める時、それはその存在が自由を得る時でもあるのです。私たちも主イエス・キリストによって生まれた神の子どもとして、御言葉に養われ、主の命に生かされつつ、御霊の実を結びながら、一人のまことの人間としての自由なる歩みを、ここから新しく歩み出してまいりたいと願います。

 



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