朝拝(ガラテヤ書講解21) 2007/07/01
『御霊によって歩もう』

ガラテヤ5:16-21

この朝は、主イエス・キリストによって真の自由を与えられている私たちが、毎日の生活を生きていく中で聖霊のご支配のもとに生きる、そのような生き方について御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)自由な者としての生(v.13)
教会でしばしば耳にする言葉に「信仰生活」という言い方があります。それは主を信じた者の祈りや御言葉、教会に連なる生活のことを指している言葉でもあり、「信仰生活入門」といったタイトルの書物も多く出されています。しかしこの言葉を私たちはどのような意味で受け取り、また用いているでしょうか。職場での生活、学校生活、家庭生活、社会生活などと並ぶようにして「信仰生活」があるということなのでしょうか。もし私たちがそのように、なにか私たちの生活の中のある特定の領域のこととして信仰生活をとらえるならば、そうではないということを申し上げておかなければなりません。むしろ真の意味での信仰生活とは、私たちの生活のあらゆる事柄が、それが会社にあっても学校にあっても、家庭にあっても地域にあっても、親しい友人関係や夫婦、親子の関係にあっても、あるいはこの社会の事柄についてでも、それらすべての事柄が主イエス・キリストの御手のご支配の中にあることを認め、聖霊のご支配の中で営まれる生活として受け通り、すべてを神の御前にある事柄と信じて生きていくという生活のことです。その時に、私たちの日ごとの働きにおける労苦も、ささいな生活の心配事も、あるいは社会の深刻な問題や世界大の課題についてすら、すべてが神の御手の中にあることとして信じ、希望と慰めの中を神に委ねて生きていくことができるのです。
 パウロはそのような主イエス・キリストにある生き方を「御霊によって歩む」と語りました。16節。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」。私たちは前の13節から15節で、主イエス・キリストが与えてくださった真の自由ということを学びました。私たちは普通、自分のしたいことをしたいようにするのが自由だと考えるのですが、聖書はキリストによって与えられた自由は「愛をもって互いに仕えあう」自由だと言いました。自分のしたいことのために生きることは、実は自由ではなく罪と欲望の中に捕らわれた不自由な生き方だというのであり、神と隣人を愛し、仕える生き方こそが真の自由の道だと教えられたのです。それらのことをまとめてパウロはここで「御霊によって歩みなさい」と命じています。パウロが「歩む」と言う言葉を使う時、それは「生きること」そのものを意味しています。御霊によって歩むとは、聖霊の神の全面的な支配のもとにあって生きる。私たちの日々の具体的な営みのすべてを聖霊の御手のもとにあって生きる。そういうことがここで命じられているのです。「聖霊の全面的な支配」などと聞くと、私たちは何かしら自由を束縛された窮屈な生き方を想像するかもしれませんが、そこでぜひガラテヤ書をここまで読み進めてきたことをよく振り返っていただきたいと思うのです。聖霊に導かれて生きることと、私たちの内側に巣くう罪、そこから出てくる肉の欲望に支配され、律法に縛られて生きることとどちらが本当に自由な生き方であり、また満ち足りる生き方であるのか。そのことを今朝あらためて考えておきたいと思うのです。

(2)肉の支配か、御霊の支配か(v.17-18)
 パウロは16節で御霊によって歩むなら、肉の欲望を満足させるようなことはないと言いました。その理由をさらに続けてこう語ります。17節、18節。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」。本当の自由を与えられ、聖霊の支配のもとに生き始めているならば、もはや肉の欲望を満足させることを求めて生きるような虚しい生き方に逆戻りすることはあり得ないと言います。なぜそう言えるのか。パウロの答えは明確です。それは肉と霊とは互いに対立していて、相容れない存在だからだというのです。もはや生き方の土台が違うのだ、原理が違うのだ、ということです。ことのことをパウロがよりはっきりと詳しく語っているローマ書8章を見ておきましょう。1節、2節。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」。5節、6節。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」。
 このように主イエスを信じる者はもはやいのちの御霊の原理の中に生かされているのであって、肉の欲望によっては満足を得ることはできない。そういう生き方から解放されているのだから、かつての欲望によって満足させられるなどと言うことはあり得ないことではないかと語られているのです。これは決して難しい議論ではありません。むしろ皆さん一人一人が自分自身の今まさに生かされている日々の現実を考えてくださればよく分かることではないでしょうか。自分自身の肉の欲望を満たすところに本当の満足はあるのか。私たちはむしろ欲望は行き着くところがない。あれがあれば、これがあれば幸せになると思っていても、それを手にするともっともっととさらに欲望は増えていく、まさに底なしのような飽くなき欲望の闇を前にして、私たちは愕然とさせられたのではなかったでしょうか。周りの人々に対しては、自分は慎ましい生活で満足しており、そんなに欲深い者ではないという顔で振る舞いつつも、心の中では暮らし向きへの不満やその裏返しでの自慢、他人の生活の事が気になったり、自分の生活とを比べてみては一喜一憂したり、お金のことばかりが気になってしまったり、ついつい人と自分を比べて優越感に浸ったり、劣等感にさいなまれたり。そうやって生きてきた中で、それらは真の満足や自由のない窮屈な生き方であることを思い知らされ、主イエス・キリストにこそ真の自由と解放、満足と感謝の生き方があることを知らされて、この歩みを始めたのではないでしょうか。もはや私たちはそのような欲望にとらわれた生き方はしない。むしろ御霊によって満ち足りる本当の満足の道を今歩ませていただいているのです。

(3)御霊によって歩もう(v.15)
けれどもその一方の現実として、この自由と満足の人生を与えられて、聖霊のご支配の中で生かされている日々の中にあっても、なお古い肉の性質との戦いは続いていることに注意を向けることが必要です。罪赦され新しく御霊によって歩み始めて私たちの中に、なお罪の残り滓との戦いがあるのです。パウロはこのことに注意を向けてこう記します。19節から21節。「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言っておいたように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」。パウロはここで私たちに大切なことを教えています。すなわち御霊によって歩んでおりながら、聖霊の御支配のもとにありながら、その聖霊の御支配が見えてこない、映し出されてこない私たちの生き方があることに警鐘を鳴らしているのです。ここでパウロは肉の行いを十五個並べていますが、もちろんこれですべてが網羅されているわけではありません。しかしおおまかに言ってここでは人間の自分自身に対する罪、神に対する罪、隣人に対する罪が示されていると言えるでしょう。自分自身に対する罪とは、自分の欲望を制御できない罪です。これは最初の三つの「不品行、汚れ、好色」、そして終わりの二つの「酩酊、遊興」です。性的な罪と酒におぼれることの罪が指摘されています。神に対する罪とは「偶像礼拝、魔術」です。そして隣人への罪が「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み」ということです。
 とりわけこの朝、心して聞いておきたいのが自分自身の欲望に関わる罪の問題です。不品行、汚れ、好色。こういたった性的な罪の問題は、今本当にこの世の中に蔓延しています。毎日あらゆるところで社会的な責任ある立場の人間たちが性的な欲望におぼれて罪を犯しています。これは教会においても無関係とはいっていられません。教職者たちの中にも性的な罪の問題は時に起こってまいりますし、教会の中に不倫の問題や若者たちの性的な罪の問題は入り込んできているのです。この朝、特に申し上げておきたい。性的な清さを保つこと、不品行や汚れ、好色の罪から逃れ、離れなさいということを既婚者、未婚者を問わずに、私には関わりがないとは言えないこととして心に刻んでいただきたい。特に若い兄弟姉妹たち、この世の悪しき風潮に惑わされず、性的な純血を保つことを心していただきたい。それはやがての結婚の祝福につながることでもあるのです。また酩酊、遊興と言うことについても同様です。酩酊、遊興を酒酔い、バカ騒ぎと訳す聖書もあるぐらいです。韓国のクリスチャンもそうですが、明治時代にプロテスタント宣教が始まって以来、クリスチャンとなった人々の周囲に与えた大きな影響の一つはその生活の清さということでした。酒を飲まない、博打をしない、女遊びをしない、そういうことが明治の時代のクリスチャンの社会に与えたインパクトだったのです。私は今の日本の教会にそういった生活における清さを大切にする信仰の姿勢が薄れてきているのではないかと感じます。聖書は酒そのものを罪とはしませんが、しかし酒に溺れること、あるいはそれによって引き起こされる人間の弱さ、不品行や様々な罪に陥る危険性を見抜いています。ですから「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」と語るのです。私はこの教会としての飲酒に対する立場を申し上げて来てはいませんが、私個人としては酒を飲むことが引き起こす様々な罪の可能性を考えるならばクリスチャンは飲酒を控えるべきであると考えています。それをもって皆さんに強制はしませんが、しかしそれが御霊に満たされる生き方と対極にあること、隣人の躓きと自分自身の罪の誘惑の種となることをしっかりと自覚していただきたいと思います。
 今日はこういうわけで少々踏み込んだことを申し上げました。ある方は反発を感じられるかもしれませんし、ある方は心に痛みを感じられるかもしれません。けれども私たちはこの朝、パウロがガラテヤ書においてこのことを書いたということの意味をあらためて考えておきたいのです。パウロはここで何かしら当たり障りのない原理原則を書いているのではないのです。パウロがここでこれらの具体的な問題を十五も並べて書いているということは、それがこの手紙を読むガラテヤの兄弟姉妹たちの直面していた問題でもあったことの表れなのです。よく注意していただきたいのです。これまで私たちはこの手紙を読みながら、ガラテヤの諸教会の問題を行いか恵みか、律法か信仰か、ということで考えてきました。しかし教会の問題が純粋な教理問題、教えの問題だけに留まるということはあり得ないのです。それは必ずその教えを信じる信仰者たちの生き方の中に何かしらの影響を与え、何かしらの陰を落とすのです。もしそうでないなら、それは最初に申し上げたように生き方に映し出されない信仰そのものが本物かどうかが問われることになるでしょう。つまり良きにつけ、悪しきにつけ、信じていることが生き方の中に表れてくるのであって、そこではどんなごまかしもきかないのです。いくら深く聖書を読み、教理を身に着けていても、生活の中に聖霊の御支配が見えてこなければ、御霊によって歩んでいるかが問い返されなければならない。これは私たちへの大きなチャレンジであります。
 ですからパウロがここでこのようなことを書くというが、教会の現実に向けたパウロの姿勢の現れであり、この手紙が当たり障りのない原則、読んだとたんに「原則はそうでも、現実はこうだ」と例外が生まれてくるような人畜無害な読み物でなく、聞く者たちに差し障りのある、身につまされる、耳の痛いことを言われる。そういう現実の問題に向けられたまさに「手紙」なのだということを覚えておきたいと思います。これは単にパウロとガラテヤ教会の関わりのみならず、あらゆる教会における説教者と会衆に関わるものです。御霊によって歩むと言うことは、単なるスローガンではありません。それは私たちが日ごとに生きていく生々しい現実なのです。そのまさに日常生活のど真ん中において神の御言葉が鳴り響き、私たちの生活を新しくしていく。聖霊の御支配は、私たちが御言葉を語り、聞くというこの真剣な営みにおいて現実のこととなっていくのです。「御霊によって歩みなさい」。この言葉の持つ命令形の響きを私たちもこの朝しっかりと真正面から受け取りながら、御霊によって導かれて新しく始まる今日からの日々を歩んでいきたいと願います。

 

 



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