朝拝(ガラテヤ書講解20) 2007/06/17
『自由を愛のために』

ガラテヤ5:13-15

この朝は、今年の教会の主題聖句でもあるこの御言葉を通して、主イエス・キリストによって与えられた本当の自由を何のために用いて生きるのか、私たちの自由の目的とその用い方について御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)自由の目的(v.13)
 13節。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」。この年の私たちの教会の主題として掲げたこの御言葉を、私たちはこれまで幾度となく口ずさみ、また歌い続けて来ました。年の初めの新年聖会でも深く味わった御言葉ですが、こうして6月も半ばを迎え、一年を折り返して後半へと歩み出していくこの朝、もう一度この御言葉の前に引き出されていることの意味深さを覚えます。1月の時にはまだ1章を読み始めたばかりでこの御言葉を取り上げたのですが、その時に比べて、その後ずっと5章まで読み続けてきて改めてこの御言葉と出会う時、また違った響きをもってこれらの言葉が聞こえてくるのではないでしょうか。まず13節を読むに当たって私たちが覚えておきたいのは、先週開いた5章1節の御言葉です。「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」。これが13節の「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです」と響き合ってくるのです。パウロはここで「解放」と「召し」ということを語りますが、それらが意味しているのはいずれの場合にも主イエス・キリストによる救いということです。「召し」というのは「呼び出し」ということですから、キリストは私たちを自由へと呼び出し、そして自由へと解放してくださった」ということになるでしょう。まさに救いとは自由をもたらすものなのです。
 しかしこの自由とは、前回学んだように身勝手でわがままな無軌道や放縦を意味するものではありません。ここで大切なのはその自由を何のために用いるのかという自由の目的です。13節後半。「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」。ここでパウロは与えられた自由を何のために用いるのか、それは「愛」のためだと言っています。普通私たちは自由を何のために使うかと言えば、それは自分自身のためでしょう。自分が好きなことをし、好きなところに行き、好きなものを買ったり食べたりして、自由を謳歌する。人のことはともかく自分が楽しく気ままに快適に、誰にも束縛されず、誰にも命じられず、誰にも強いられず。これが現代人の考える自由ということでしょう。けれどもパウロはそのような自分中心で自己満足的な自由は「肉の働く機会」だと言います。肉の働く機会とは何かと言えば、次回に学ぶことになる16節の「肉の欲望」、もっと具体的に言えば19節から21節に出てくる「肉の行い」すなわち「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」の類いということです。
 けれどもキリストにある真の自由を与えられた人は、その自由を「愛をもって互いに仕える」ために用いるのだというのです。これもすでに学んだことですが、ここでの「仕える」という言葉は「奴隷」という言葉と同じ言葉が使われています。5章1節後半では「あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と命じられていたのに、ここではそのような律法の奴隷として、罪の奴隷として生きるのではなく、隣人に仕える愛の奴隷として生きよと命じられているのです。隣人に仕える愛の奴隷の生き方、これもまた肉の行いとの対比で言えば22節、23節の「御霊の実」すなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ということになるでしょう。
 こうしてみると、ここには自由と言うことについてのとても大切な教えが語られていることに気がつかされます。聖書はここで自由と言うことを二つの語り方で示していると思うのです。一つは「何々からの自由」、いま一つは「何々への自由」ということです。前者は罪とサタンの支配からの自由、律法の呪いからの自由、死と滅びからの自由であり、後者は神を愛することへの自由、キリストに仕えることへの自由、聖霊に従うことへの自由、そしてそれらの具体的な表れである隣人に仕えることへの自由ということです。私たちはキリストにある自由ということを考える際に、前者のことを深く覚えることですが、しかしそれと同じくらいに、あるいはそれ以上に、この神と隣人を愛し仕える自由の大切さを深く心に刻んでおきたいと思うのです。

(2)律法の目的(v.14)
 そこで14節。「律法の要求は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです」。この御言葉は旧約聖書のレビ記19章18節から引かれたものですが、これを読んで私たちがすぐに思い起こすのは主イエス・キリストがお語りになったあの御言葉です。マタイ福音書22章37節から40節。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」。またこれとの関連でローマ書13章8節から10節も見ておきましょう。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」。さらに先取りしてガラテヤ6章2節にはこう記されています。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」。
 ここでパウロは神を愛する愛の中で隣人を愛することが律法を満たすことであり、律法を満たす者こそが真の自由の子どもなのだとして、新しい律法の理解を差し出しています。これまでは律法に縛られる人間は奴隷の状態であり、己れの力で義を打ち立て、救いを勝ち取ろうとする者であり、ただ主イエスを信じる者が自由の子、恵みを受け、ただ信じるだけで救いを得る者だとして、律法はもはや過ぎ去ったもの、無価値なものだと語ってきたのに、ここに来て、むしろキリストにあって自由とされた者が隣人への愛に生きることをもって律法を全うするのだというのです。ここで私たちは以前に十戒を学んだ時にも教えられた律法の用法を思い起こしておきたいと思います。宗教改革者たちは聖書における律法の役割を聖書から学びつつ三つに分類しました。第一はいわゆる人間一般の倫理的な教えとしての役割であり、第二がガラテヤ3章24節で学んだ、私たちをキリストに導くための養育係としての役割、そして第三が今まさに見ている、救われた者の新しい生き方の基準としての役割ということです。このように私たちは律法を自分の力で全うして救われることはできず、キリストにすがるほかないのですが、このキリストを信じて救われ、神の子ども、自由の子どもとされた今は、この自由をもって隣人を愛し、隣人に仕えることによって律法を全うする者とされているというのです。ここに新しい律法の目的が示されることになります。まさに自由の使い道は愛のためなのであり、それこそが聖書が私たちに求めている新しい律法なのです。

(3)自由を愛のために(v.15)
 最後に15節。「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい」。パウロはここで改めてガラテヤの人々に注意を促します。まさに彼らはすでに主イエス・キリストによって救われているにもかかわらず、互いへの愛のために自由を用いることをせず、むしろ今なお律法によって自分の義を打ち立てることに必死になっているのであり、そうやって律法によって義を得ようとするならば、自分の達した基準によって他人を裁き始めることになるでしょう。ユダヤ人のようになりたいと思って割礼まで受けようとした彼らのことですから、パウロを裁き、他の指導者たちを裁き、恐らく他の異邦人キリスト者たちをさえ、「ああ、彼らは律法を守っていない。ただ信じます、信じます、というだけで安易な救いに甘んじている人々だ」といって裁いていたことでしょう。しかしそんなことをしていたらお互いの間で滅びてしまう。愛に基づかない互いの関係は裁き合い、奪い合い、傷つけ合うほかないまことに悲惨な関係だと言わなければならないでしょう。
 ここでもう一度、今日の御言葉を5章1節とともに見つめ直しておきたいと思います。1節で「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と語り、13節で「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と語る時、パウロはここで何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。それはキリストによって与えられた自由を捨て去るな、ということと、キリストによって与えられた自由の使い方を誤るな、ということと言ってよいのではないかと思います。それくらい私たちが与えられた自由とは尊く価値あるものなのであり、しかもその使い道もまたまったく尊く価値あるもののためなのだということです。与えられたものの価値を知らなければ、私たちは知らずに「こんなもの」といって簡単に捨て去ってしまうかもしれません。また与えられたものの使い道を知らなければ、それを全く見当はずれのことのために用いて、結局そのものをだめにしてしまうということになるでしょう。それほどに私たちは、今キリストによって与えられている自由の価値を深くわきまえ知り、感謝と喜びをもってこれを受け取り、そしてその自由をもっともその価値に相応しい使い道のため、すなわち「互いに仕えあう」隣人への愛のために十分に用いるものでありたいと思います。
 ナチス・ドイツの時代にこれと戦ったドイツ告白教会の指導者にマルチン・ニーメラーという牧師がおられました。ニーメラー牧師は当初、ナチ政権を指示する立場に立っていたのですが、次第にその問題性に気づき、やがてドイツ告白教会を組織して教会闘争を指導していった人物であり、そのために逮捕され合計8年間強制収容所での過酷な生活を強いられました。特に悪名高きダッハウ収容所での日々は熾烈を極めましたが、やがてドイツの全面降伏の直前に奇跡的に解放されたのです。当時、強制収容所から生還することは考えられないことでしたし、降伏が決まった後も囚人たちの処刑は続いていました。しばしばご紹介しますディートリヒ・ボンヘッファーもニーメラーが釈放されるほんの一ヶ月前に処刑されて殉教しています。そういう狂気の時代を生き残り、生還したニーメラーがその直後にしたことは何であったか。それは自らの罪を神の御前に告白するということでした。ドイツ降伏からわずか5ヶ月後に出されたシュトゥットガルト罪責告白にはこう記されています。「我々は大いなる痛みをもって言う。我々によって多くの民族や国家は限りない苦悩を味わって来た。我々は、我々の教会でしばしば証しして来たことを、全教会の名前において語らねばならない。なるほど我々は長い間、ナチスの暴力支配に示されて来た悪しき霊に対して、イエス・キリストの名によって戦って来た。けれども我々は、もっと大胆に告白しなかったこと、もっと真実に祈らなかったこと、もっと喜びをもって信じなかったこと、もっと燃えるような愛をもって行動しなかったことを恥じるものである。ただ我々の教会に、新しい出発が始められなければならない」。こうしてニーメラーは戦後、世界各地を驚異的なスケジュールで飛び回り、教会の内側に留まらず、広く社会に対して平和の運動を導いていきました。彼は獄中で命を落とした多くの同労者、牧師や信徒たち、いやそれ以上に600万以上のユダヤ人たちへの償いの思いをもって世界の平和のためにその後の生涯を捧げ尽くしました。自分が生き残った。自由を得させられた。その自由をもはや彼は自分のために用いることはしなかった。いやできなかった。彼は与えられた自由を困窮の中にある隣人のために用い尽くすと決断したのです。
 私たちに真の自由を得させるためにキリストが支払ってくださった代価の大きさを私たちが本当に深く知るならば、そして、そうやって与えられた自由の価値を知るならば、私たちはもはやその自由をただ自分自身のために、独りよがりで身勝手な欲望を満たすために、快楽のために、はかないこの世の人生のために用いることはできない。自由は私たちをして神を愛し、隣人を愛するその愛へと促し、押し出す力です。「自由を愛のために」。この言葉を、この朝、私たち一人一人の新しい決断の言葉とさせていただきたいと切に願います。

 



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