朝拝(ガラテヤ書講解19) 2007/06/10
『愛によって働く信仰』

ガラテヤ5:1-12

この朝は、私たちに与えられている神の子ども、自由の子どもの身分の尊さと、その自由に基づいて生きる愛の生き方について御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)自由と解放の宣言
 1節。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」。主イエス・キリストを信じた者は今や神の子ども、自由の子どもたちだと語ったパウロは、ここで改めて私たちに向かって自由への解放を高らかに宣言し、これからの生き方についての勧めの言葉を語りかけます。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださった」という言葉、直訳すると「キリストは私たちを自由へと解き放ってくださった」となります。それまで罪の奴隷として鎖に縛られていた私たちを、その鎖を外し、奴隷としての負債をすべて肩代わりして支払いを完済し、もう今日からあなたは自由だよ、奴隷ではないよ、と言ってくださり、そればかりか、あなたはこれから私の子どもだよ、だから私の財産を相続してよいのだよ、と言って、これからの人生の保障までも与えて、私たちを自由の子どもとして解き放ってくださったというのです。
 一度でも自由を奪われた経験を持つ人であればあるほど、自由というものの価値がどれほど大きくまた尊いものかを深く実感しているのではないでしょうか。1942年6月26日はホーリネス教団弾圧の記念日です。その日、全国で96名の牧師たちが治安維持法違反の容疑で一斉に検挙され、多くの牧師たちが過酷な獄中生活を強いられ、そのうちの数名の牧師たちは特高警察の拷問によって獄死されました。私の祖父も当時ホーリネス教団の牧師でしたのでその日の早朝に逮捕された一人です。この礼拝に集っている叔母は、その時の様子をよく覚えているそうです。祖父はしかし獄中で発疹チフスにかかり、約11ヶ月の留置場生活の後に起訴猶予となって釈放されたのでした。その時の様子を後にこう記しています。「病室で気がついたことは、自分だけは手錠もなく警官と同室であること、枕元のベッドの金具に小さな木札が結んであり、神田区小川町三丁目八番地、安藤仲市と記してあったことであった。それを見ているうちに、『そうだ。私はもう番号扱いされていない。自由になっているんだ』と悟った。とたんに前年6月26日監禁された夜、耳元でささやかれた『私たちは仕掛けられた罠から鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある』の御言葉の約束が心に燃えてきた」。この手紙を記しているパウロ自身も度々の獄中生活を味わっていった人ですが、その度ごとに、解放の喜び、自由の尊さを味わいしったはずですし、何よりも神の民そのものが、エジプトの奴隷状態からの解放の出来事を救いの原体験として持っているのです。そういう罪からの自由と解放を与えられた私たち。だからこそ、あなたがたはしっかり立って、二度と再び奴隷のくびきを負わせられないように、奴隷の状態に逆戻りすることのないように、とパウロは心を込めて語りかけているのです。
 パウロがこのように語らなければならなかった理由、それは、ガラテヤの教会の人々がまさにこの与えられた自由と神の子どもの恵みを忘れて、再び奴隷の状態に逆戻りしようとしているからでした。2節から4節。「よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」。律法に縛られる奴隷のくびきのもとに逆戻りしていく姿を一番に表していたのは、彼らガラテヤの信徒たちが割礼を受けようとしていたことでした。割礼はユダヤ人が旧約時代から守り続けてきた慣習で、男性は皆、自分の男性器の皮を切り取ることで自分が神の民であることの印としていたのです。そしてガラテヤ教会を惑わしていた偽教師たちは、この割礼の儀式をガラテヤの信徒たちにも求め、彼らもそれに応じて今まさに割礼を受けようとしていたというのです。しかしパウロは彼らのそのような振る舞いに対して、あなたがたが割礼を受けるということが単なる儀式に留まらず、それが何を意味しているのかをよく分かっているのかと問いかけます。そして割礼を受けると言うことは律法の全体を背負い込むことであり、行いによって自分の義を打ち立てようとすることであり、それによってキリストから離れ、恵みから落ちることなのだ、そのことを本当に分かって割礼を受けるつもりなのか、と叱責するのでした。2章21節。「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」と語ったことを今ここで再び繰り返しているのです。

(2)奴隷のくびきを負う生き方 
 私たちもこの御言葉を読めば、ガラテヤの人々はどうしてせっかく与えられた自由の立場を放り出して再び奴隷の状態の戻っていこうとするのか、なんと愚かな人々かと思うかも知れません。けれどもよくよく考えてみると、私たちの中にもそういう古い自分に返っていこうとする力は絶えず働いていることに気がつかされるのです。逆説的な言い方ですが、律法のもとに生きていた時のほうが私たちにとって楽な生き方であることがあり得る。自分で主体的に決断して生きるよりも、掟に縛られて、みんなと同じように波風立てずにしきたりや伝統、慣習の中で生きる方が安泰だということがあるわけです。そこでは衝突も起こらないし、迫害も起こらない。社会の中で異分子にならず、はみ出し者にならずに生きていけてしまう。けれどもそれによって失う代償がどれほど大きなものであるかを私たちはよくよくわきまえ知る必要があるのではないでしょうか。少しテキストの順序を入れ替えますが、パウロはガラテヤの人々を目覚めさせるために再び激しい言葉をもって彼らをそそのかす偽教師たちに矛先を向けてこう語ります。7節から12節。「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまづきは取り除かれているはずです。あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです」。ここでパウロは大変重要なことを言っています。すなわち、神にあって真の自由に生きる道は、十字架のつまづきに生きる道であると心得よ、神の子どもとして生きる道は、この地上にあっては迫害を生きる道であると心得よ、というのです。そのつまづきを恐れ、周囲との衝突を避けて、ユダヤ人のように、周囲の人と同じように、波風立たないように、迫害に会わないように、そうやって形だけの割礼、皮だけ切り取るような割礼、そういうものによって生きるような姑息な生き方をするぐらいなら、いっそのこと全部切り取ってしまえ、と言い放つのです。いささか暴論めいた言葉遣いですが、しかしパウロの心を私たちはこの言葉の中からも十分聞き取ることができるのではないでしょうか。そもそもユダヤ人の偽教師たちが律法の行いを勧めるのにもそれなりの理由があったことはすでに学んだとおりです。すなわちパウロが教えるように律法の行いによらず、ただ恵みだけだ、信仰だけだといったら人間は無軌道、無規律な放縦の生き方に走るだろうから、やはり律法や行いも必要なのだという理由です。秩序を教えなければならない、道徳を教えなければならない、国を愛する心を教えなければならないというのと相通じる議論です。けれども本当に律法によって正しい生き方を教えることができるのか。命令や強制によって人の心を動かすことができるのか。過去の人間の生き方や伝統に縛られる中でそれらを教えることができるのか。そういう問いがパウロの中にもあるのです。
 
(3)愛によって働く信仰
 そこでパウロは、律法の力による生き方ではなく、新しく神の子、自由の子どもとされた私たちの新しい生き方の基準を示します。5節、6節に戻りましょう。「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」。ここで言われていることをまとめれば「信仰・希望・愛」と言うことができるでしょう。自由の子とされた私たちの新しい生き方の基準は過去に求められるのではなく、未来の希望、信仰による、御霊によって与えられる救いの完成への希望に基づく生き方であり、何よりも大切なことは「愛によって働く信仰」だというのです。つまりパウロはここで行いか、信仰かというこれまで2章以降ずっと続けて来た議論にいよいよ終止符を打つべく、ここに「愛」を持ち込んでくるのです。信仰だけではダメだ、行いも必要だという偽教師たちの議論に対して、信仰をも行いさえも包み込む「愛」の重要性を指し示すのです。「愛によって働く信仰」とはいったいどういうことでしょうか。なぜパウロはここで単に「行いでなく信仰だ」と言わず、「愛によって働く信仰」というのでしょうか。そこには「愛のともなわない」信仰があり得ることがほのめかされているように思います。愛のともなわない自分のための行いが成り立つのと同じように、愛のともなわない信仰すら時に成り立ち得る。愛なしにも信仰のポーズはできるし、行いもできてしまうのです。「信じる」という行いによって自らを義としようとする、信仰という名の行為義認ということがありうるのであって、これらの消息は例えば第一コリント13章の議論を丁寧に読んでいく時に教えられることです。
 しかしパウロはそのような私たちのうちに潜む信仰と行いの問題を見つめながら、そこに新しい光を当てるのです。それが「愛によって働く信仰」ということでした。行いは強制できても、愛は強制することはできない。信仰のポーズを偽ることができても、愛は偽ることができない。その真実か偽りかを明らかにするのがキリストの愛に動かされる私たちの生き方ということでしょう。私たちの信仰にしても行いにしても、それがどこから生み出され、何によって動かされ、どこに向かってあり続けているのか。主イエス・キリストの十字架の愛はその根拠と動機と目的とを私たちに繰り返し繰り返し問いかけておられるのです。キリストの愛に動かされていく生き方は、抽象的な生き方ではなく、日々の具体的な日常生活の中に姿形をとるものです。神への愛と隣人への愛は、日々の私たちの生活において、その時間の用い方、お金の用い方、言葉や振る舞い、心遣いといった小さな事柄においてその真実さを表すのでしょう。愛によって働く信仰とは、まさにそのような具体的で現実的な私たちの日毎の生活において生きて働く信仰、心の中だけの、自分のためだけの秘め事でなく、私たちが主なる神に愛された者として、その愛によって動かされていく一つ一つの営みをこそ指し示す言葉であるといえるのです。パウロは6節と同じ事柄を第一コリント7章19節ではこう言っています。「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです」。ここでパウロは「愛によって働く信仰」を「神の命令を守ること」と言い換えています。では神の命令とは何でしょうか。第一ヨハネ3章23節、24節をご覧ください。「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです」。互いに愛し合うこと、それが神の命令だ。この愛の命令に生きること、それが愛によって働く信仰の現実の姿だということです。
 私たちは先に、命令によっては人の心を動かすことができないと言いました。しかしここにただ一つだけ、人を動かす具体的な力があることを聖書ははっきりと語っています。それは人間の命令、律法の命令ではない。それは神の命令であり、愛の命令です。愛なるお方であり、その愛を具体的に、御子イエス・キリストを通して示してくださったお方だけが下すことのできる命令。それが愛の命令であり、この愛によってのみ、私たちは愛を知り、愛を受け、その愛によって動かされ、愛する者へと変えられ、遣わされていくことができるのです。第一ヨハネ5章3節から5節。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」。イエスを神の御子と信じる者として、このイエス・キリストによって示された愛によって愛された者として、愛によって働く信仰を具体的に働かせながら、自由の子どもとして神を愛し、隣人を愛し、仕えていく私たちでありたいと願います。

 

 



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