朝拝(ガラテヤ書講解18) 2007/06/03
『自由の子どもたち』

ガラテヤ4:21-31

 今朝はパウロが語る旧約聖書の説き明かしの言葉を通して、キリストにある真の自由を与えられた私たちの「自由の子どもたち」としての幸いについてともに教えられていきたいと思います。

(1)奴隷の子と自由の子
 21節。「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか」。今日読まれた御言葉の箇所は、ガラテヤ書の中でも恐らく一番の難所であろうと思います。前の20節で「こんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです」と困惑の言葉を述べたパウロは、何とか語り方を変えてガラテヤの人々を誤った教えから引き戻そうと考えるのですが、考え抜いた挙げ句に辿り着いたのは、偽りの教師たちが教え、ガラテヤの人々が憧れる旧約聖書の教え、しかもすでに3章で取り上げたアブラハムを巡る旧約の物語を用いて語るということでした。しかもそれを単なる昔の出来事の物語として語るということではなく、そこにあらわされた神の約束の子どもの姿の中に自分たちの姿が重なり、映し出されてくるようなそのような語り口調で語っていこうとするのです。彼が取り上げるのは次のようなストーリーでした。22節。「そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の子から生まれた、と書かれています」。ここでパウロが取り上げているのは、旧約聖書の創世記16章から18章、21章に記されるアブラハムの家族を巡る出来事です。すでに3章を読んだ折に見たようにアブラハムは主なる神の祝福の約束を受け、信仰によって義とされた人物でした。彼への約束は彼の子々孫々に受け継がれると約束されていたのですが、実際にはその約束の実現の前には大きな障害がありました。それはアブラハムとその妻サラの間には子どもが与えられなかったということです。そこでアブラハムはハガルという女奴隷との間に子どもをもうけます。その子がイシュマエルと呼ばれる人物です。ところがその後、主は不思議な方法で年老いた妻サラの胎に子どもを与えられました。こうして与えられたのがイサクです。そしてこのイサクがその後、神の祝福の約束を受け継ぐ者となっていったのでした。
 パウロはこのアブラハムと妻サラ、女奴隷ハガル、そして奴隷の子であるイシュマエルと約束を受け継ぐ子イサクという五人の登場人物を通して、そこに一つの信仰の比喩を見出そうとしているのです。23節から27節。「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムにあたります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。すなわち、こう書いてあります。『喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の子どもよりも多い』」。
(2)肉によってか御霊によってか、血によってか約束によってか
 最初に申し上げたように今日の箇所は大変複雑なところなのですが、少し慎重にいくつかの御言葉に注目しながら、いったいパウロはここでこれらの御言葉を用いて何を語ろうとしているのかを注意深く読み取って行きたいと思います。まず第一に注目したいのは23節です。「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」。ここではまずハガルとサラが「女奴隷」と「自由の女」と対比され、ハガルの子イシュマエルは「肉によって生まれ」、サラの子イサクは「約束によって生まれた」と言われます。「肉によって」というのはアブラハムとハガルの通常の生殖行為によって、ということであり、「約束によって」というのは、もはや自然には子供を産むことなど考えられなかったサラに、主なる神の特別の働きかけがあってイサクを生んだという祝福の約束の成就を意味している言葉です。ここに「奴隷と自由」、「肉と約束」という二つの対比が出てきます。第二に24節では「この女たちは二つの契約です」と言って、ハガルはシナイで与えられた、あの十戒に代表される契約、すなわち人は行いによって義とされる古い契約をあらわし、サラはアブラハムに恵みによって与えられた契約、すなわちただ主なる神を信じる信仰によって義とされる新しい契約をあらわしているといっています。そして第三に25節、26節では「今のエルサレム」と「上にあるエルサレム」という対比が出てきます。ここでパウロは、ハガルは「今のエルサレム」すなわち今も律法による救いを信じて行いに縛られているユダヤ教の信仰を指しているとし、サラは「上にあるエルサレム」すなわち救い主イエス・キリストによる救いを信じて自由な神の子とされたキリスト教信仰を指していると言っているのです。つまりパウロはイスラエルという血のつながり、民族的なつながりを誇りとし、律法を拠り所とする偽教師たちと、彼らに惑わされてそのような生き方に憧れを抱くガラテヤの人々に、肉によるつながり以上に、今や私たちに与えられているのはキリストによる真の自由、約束による神の子の身分なのだということを改めて訴えかけているのでした。
 パウロは続いてこうも言います。28節から30節。「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない』」。パウロはここでかつてイシュマエルがイサクをからかっていじめたという創世記の記述を思い起こしながら、自由の子イサクが奴隷の子イシュマエルによって迫害を受けたと語って、ユダヤ人たちからの迫害の中にあるキリスト教徒たちの姿をそこに重ね合わせるのですが、しかし最終的に主なる神の祝福を受け継ぐのはやはり自由の子の子孫たちであると語ります。それはパウロが旧約聖書を用いながら、この時代の迫害に苦しむ兄弟姉妹たちを励ます精一杯の言葉であったといえるのです。しかしそれ以上にこの箇所で重要なのは29節の「肉によって生まれた者」と「御霊によって生まれた者」という対比です。これらを先のポイントとあわせて考えると、パウロはここで「肉による奴隷の子ども」と「御霊による約束の子ども、自由の子ども」という対比をしながら、今、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われている私たちは、自由の子どもたちなのだと言っているのです。

(3)自由の子どもたち
 こうしてパウロが行き着く結論は31節です。「こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです」。あわせて28節ももう一度読みましょう。「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです」。パウロはここで私たち主イエス・キリストを信じる者を指して「自由の女の子ども」、「約束の子ども」と言っているのです。しかしここで改めて立ち止まって考えてみたいのはアブラハムとイサクの関係です。確かにイサクはアブラハムにとって正妻であるサラとの間に生まれた子であり、また年老いてからの主なる神の不思議な御介入によって与えられた子であるとはいえ、マリヤが主イエスを聖霊によって身ごもった時とは違いますから、彼ら夫婦に与えられた子どもであることに違いはありません。となると、イシュマエルは肉による子ども、イサクは約束による子とはいっても、実際にはイサクも肉による子どもということになるではないか、どちらにしても結局は血のつながりということではないかという反論が起こるかもしれません。
 しかしここで決定的な意味を持つのは創世記22章のアブラハムがモリヤの山で経験した生涯最大の試練、すなわち息子イサクをいけにえとして主に捧げよという主の命令に従っていった姿です。そこではアブラハムがイサクを祭壇に横たわらせ、剣をとってまさにその命をとろうとしたそのすんでの所で主の御介入があったのですが、そこで主はこう言われたのです。創世記22章16節から18節。「わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、すべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」。つまりここで主なる神はアブラハムがイサクを「ささげた」と認めておられるのです。ここでイサクは主にささげられた。血のつながりはここで一度切れて、これ以降、アブラハムにとってのイサクはまさに約束の子、御霊による自由の子となったと言えるのです。それゆえに、それ以降、信仰の父アブラハムに連なる者たちは、この私たちも含めて今やまさに肉によらず、血によらず、行いによらず、ただ聖霊による約束によって新しく生まれさせられた神の自由な子どもたちなのです。
 私たちはこの朝、主イエス・キリストにある者たちに与えられている自由が、この神の約束に基礎付けられているということをしっかりと心に留めておきたいと思います。なぜなら4章8節、9節で「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか」と言われたように、私たちを古い状態に引き戻そうとする力、古い自分を縛っていた束縛のもとに逆戻りさせようとする力が今も働いているからなのです。そういう中にあって、私たちは今や、何ものにも隷属させられない、ただキリストのみに従う真の自由を与えられている自由の子どもたちであるという現実をしっかりと受けとめておきたいと思うのです。今日私たちを取り巻くこの国の状況は、まさに私たちを再び肉による奴隷の子ども、天皇を中心とした「国体」、「国柄」に忠誠を尽くす人間をつくり出すことに躍起になっています。教育の現場では日本という国がどんなに素晴らしいか、他の国々に比べてどれほど優れているかを強調し、かつて日本が犯した過ちを知ることは自虐的に過ぎるからといってこれに目をつむり、それらをなかったことにしようという力が強まっています。また日本人であればみな神社にお参りするのは当たり前。天皇を敬い、日の丸や君が代を大切にし、日本という国柄を愛するのは当然。日本人は天皇を父として持つ天皇の家の子どもたちであって、それを否定する者は非国民だという声が次第に大きくなってきています。国の力が一人一人の心の内側にまで力を及ぼし、その心を支配しようとしています。そういう中でキリスト者の良心の自由が本当に問われているのです。この一番の戦いは偶像礼拝との関わりでしょう。神社は宗教にあらず、日本人なら誰でもすること、と言う論理はかつての教会を偶像礼拝に引き込む道具となりましたが、それは単に過去のことでなく今の私たちの問題でもあるのです。
 そういう中で、天に国籍を持つ私たちキリスト者は、この地上のいかなる者によっても縛られることのない真の自由を与えられた神の子どもたち、自由の子どもたちであることをしっかりと私たちの生き方の中心に据えておきたいと思うのです。この神の子としての自由を奪うことができる者はこの地上には何ひとつない。ただ主イエス・キリストにのみ従う自由を奪える者は何ひとつない。どんな力も権力も支配も、私たちからこの神の子の自由を奪うことはできない。この確信が私たちの日々の生活を貫き、それを支えるまさに私たちの人生の土台、柱となっていくように、私たちは与えられている自由の意味を日毎に御言葉に教えられながら深く悟る者でありたいと思います。そして聖霊によって導かれながら、この世の何ものにも束縛されない、ただ主イエス・キリストにのみ従う自由を持つ自由の子どもたちとして、その信仰の歩みを続けさせていただきたいと願います。

 



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