朝拝(ガラテヤ書講解17)  2007/05/20
『キリストが形造られるまで』

ガラテヤ4:8-20

 今朝は「キリストが形造られるまで、産みの苦しみをしている」という使徒パウロの言葉を通して、主イエス・キリストの教会に対する愛の言葉を受け取りたいと思います。

(1)どうして、再び(v.8-11)
 今日の開かれている御言葉について、多くの注解者が「パウロの困惑」という表題を付けています。これまで福音から外れていくガラテヤの人々に大変厳しい口調で語りかけ、また救いは律法の行いによるのでなく、キリストを福音を信じる信仰によるときっぱりとした口調で理路整然と語ってきたパウロが、ここに来て「自分がしてきた労苦はむだだったのではないか」、「あなたがたのことをどうしたらよいか」と困り果てて途方に暮れているというのです。牧師たちはこういう箇所を読むと、本当にそうだと深く共感したり、またあのパウロ先生でもこういう思いをすることがあったのかと慰められたりするものです。開拓伝道で生み出した教会。最初の頃はいろいろ苦労もあったけれど、それでもがむしゃらに伝道し、一人二人と信仰に導かれるようになる。やがて十数名の群れになり、牧師も信徒もお互いに心を一つに、それこそ家族のような交わりを持ちながらいっしょに汗を流して伝道する、そういう日々がこの教会にもあったことと思います。やがてそういう人々が教会の柱となってだんだんと教会が成長してくる。人々も増えてくる。ふと気づくと何か教会の空気が以前とは違う。牧師もだんだん忙しくなる。信徒の側でも牧師との距離が前よりも広がったような気がする。最初の頃の救いの喜び、伝道の熱心が何となく薄らいできたような気がする。このままでいいとは思わないが、かといってあの頃のように戻れるかというとそういう自信もない。牧師の側も、信徒の人たちが以前ほど生き生きとしていないのではと気になり始める。中心的に励んでいた人が教会から遠のいていく。届ききれない自分の牧会の至らなさに責めを感じ始める。こういうことは多くの教会で経験されていることなのではないでしょうか。しかもそう言うときに、熱心な教えを語る新しい人々がやって来て、教会が混乱し始める。ガラテヤの教会が置かれていた状況とはまさにそのようなものでした。
 8節から11節。「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」。まこと唯一の神と出会い、御子イエス・キリストを信じて神の子とされたあなたがたが、それにもかかわらず再びユダヤ人たちのように律法の鎖に縛られた状態に戻っていこうとするのは、罪の奴隷の状態に逆戻りしていることではないのか。そうパウロは訴えかけているのです。「各種の日と月と季節と年とを守っている」というのは、一年を通して定められているユダヤ教の戒律に従ってがんじがらめに縛られている人々を指す言葉です。救われて真の自由を得たのに、そういう律法の教えに縛られてしまっている彼らを見て、パウロは自分のしてきた労苦はむだだったのではないかとその心の内を吐露しているのです。こういうことはこの国で信仰者として生きる私たちにとっても切実な問題でしょう。私たちの生きる世の中も様々な因習や異教的な習慣に縛られています。子供が生まれれば名前の画数が気になる。家を建てるとなれば方角が気になる。カレンダーを見て今日は大安だ、今日は仏滅だと何となく気になる。縁起がいいとか、験を担ぐとか。そういう事柄が私たちの生活を縛っているのです。あるいは今年から4月29日が昭和の日となりましたが、天皇神話に基づいて暦を数え、日を記念する。11月3日も明治の日としてはどうかなど、そういう伝統の縛りが再びじわじわと強まっている。そういう時代の危機感を覚えさせられるのです。

(2)あの喜びは、今どこに(v.12-18)
 このような問題に直面して、パウロはあらためてガラテヤの兄弟姉妹たちに語りかけます。12節から16節。「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか」。このパウロの語りかけの言葉を読むときに、私たちはこれまでのパウロの口調と違った印象を受けるのではないでしょうか。今までのパウロの厳しい口調、あるいは理路整然とした口調に比べて、ここでのパウロの語りかけは彼の心がそのままあらわれる言葉、そしてガラテヤの人々の愛に向けて訴えかける言葉だと思うのです。
 私たちはこの手紙を読み始めた時以来、これをパウロからガラテヤの教会に向けて差し出された「愛の手紙」として読むことを目指してきました。まさに今日の箇所において、パウロは愛をもってガラテヤの兄弟姉妹たちに語りかけるばかりでなく、彼らの中にあるパウロへの愛に向けて語りかけてもいるのです。パウロが「私のようになってください」と言うのは、かつて律法の中にいたパウロが今、そこから自由にされてあなたがた異邦人のようになっているのだから、そのようにあなたがたも自由な者となってほしいという言葉です。そしてパウロはかつて自分があなたがたに福音を初めて伝えた時、あなたは今のように私の言葉や私自身を拒むことなく、むしろ暖かく迎えてくれたではないかと、相手の愛を呼び覚ましているのです。詳しいことを私たちは知り得ませんが、パウロがガラテヤで初めて伝道した当時、彼は病気の身であったようです。それがどういう病気であったかも分かりませんが、IIコリント12章7節やガラテヤ4章15節、6章11節などから考え合わせると、パウロは目を患っていたと言われますので、恐らくここでも彼の目の病いのことが言われているのかもしれません。ともかく、そのような病いを負う伝道者パウロをガラテヤの人々は軽蔑したり、嫌ったりせず、むしろ神の御使い、さらにはキリストご自身のように迎え、自分の目を代わりに差し出したいと思うほどにパウロを思っていたというのです。それほどの思いをもって自分に愛を示してくれたあなた方が、なぜ今、あの誤った教えを語る偽教師たちに惑わされてしまうのか。ここにパウロの突き動かされるような心があります。17節、18節。「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません」。かつてパウロ先生に教えられた頃は自分たちも熱心に励んでいた。しかし最近では教会の雰囲気は以前と変わってしまい、パウロ先生も遠くにいってしまってもはや自分たちとは関わりもない。このままでは自分の救いの確信もぐらついてきた。そんな時に熱心な教えを語る新しい教師たちがやって来て、あなたがたのように信じているだけではだめだ。パウロの言うことを信じていてはだめだ。行いが必要。律法が必要と言われる。不安な心は一気にそちらに傾き、もはやパウロではなくこの教師たちこそが自分たちがついていくべき指導者だ。そういう空気がガラテヤ教会を覆っていったのでしょう。
 しかしパウロの言葉は単に過去の麗しい関係を思い起こさせ、彼らの情に訴えかけるということではありません。そういう人間的な結びつきを求めているのではない。肝心なことは主イエス・キリストを信じることで救われるという福音の「真理」であり、律法の行いによらず、「福音の恵み」によってこそ救われるという確信です。この確信をこそ思い出し、この確信にこそ踏みとどまってほしい。それがパウロがガラテヤの人々の愛に訴えかけて語りかける一番の思いなのでした。

(3)キリストが形造られるまで(v.19-20)
 このように語る牧会者パウロの心、それはいわば子どもを思う親の心と言ってよいでしょう。19節。「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」。「私の子どもたちよ」とは特別の親愛の情を示す言葉で、他の親しい間柄の教会に対してでさえパウロが滅多に使わない言葉です。しかし今、パウロは自分に対して堅く心を閉ざすガラテヤの教会の人々に向けてこの特別な言葉で語りかけるのです。それは本当に深いところから発せられたパウロの牧会者の心情、親心のような心持ちの吐露です。しかも「産みの苦しみをしている」と書くように、ここでパウロは母親のような気持ちで心痛め、腹を痛めつつ書いているのです。パウロの教会を思う気持ち。それは時に母親のようなわが子を思う気持ちなのです。おなかに子どもを宿してから出産の時までの苦しみもあり、そしていざ出産の時の苦しみもあり、それで終わりかと思えば、むしろそこからの子育ての苦しみもあり、いくつになっていつまでたっても親の子を思う気持ちは変わりません。そういう親心の中でパウロはガラテヤの人々を思い、愛を傾けて祈りつつ、苦しみうめいているのだというのです。それはいつまで続くものなのか。「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで」と御言葉は語ります。キリストがあなたがたのうちに形造られるとは、同時にあなたがたがキリストのうちに形造られることでもある。まさにガラテヤ2章20節で「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という深いキリストとの結びつきの姿です。主イエスを信じ、救われ、洗礼を受けてクリスチャンとして歩み出す。牧会者の働きもそこで終わりではありません。そうやって歩み出した一人一人が、キリストの愛の中に、恵みの中に、自由の中に生き、キリストと深く一つに結び合わされていくまで、祈り続け、御言葉を語り続け、愛を注ぎ続けていく者なのです。
そのように教えられていく時、「パウロの困惑」と名付けられた今日の御言葉が単なる困惑ではなく、伝道者、牧会者パウロの愛の心、愛の親心のゆえの困惑であることに気づかされるでしょう。20節。「それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです」。パウロは歯がゆい思いをしているのです。自分があなたがたと一緒にいられたら、あなたがたを迷わすことはないのに。こんな語調で話すこともなく、もっと親しく、相い睦まじい言葉で語り合えたはずなのに。それならパウロはずっとガラテヤに留まっていれば良かったではないか。そう考える人もあるでしょう。ガラテヤの人々の中にもそういう声はあったかもしれません。けれども思い起こしていただきたい。使徒16章9節、10節。これはパウロがガラテヤ伝道の最中にいた時の言葉です。「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見た時、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」。留まれるものなら留まり続けたい。しかし自分にはなお果たすべき使命がある。そうやってパウロは異邦人宣教の召命に生きてきたし、そうやって生きていくほかない。それが彼の生き様です。でもそう言うパウロは自分がいくつの教会を開拓したとか、何人の人を導いたとか、どれだけの回数の集会を開いたか、そんなことを数え上げて誇りとする者ではない。むしろそうやって生み出した教会の一つ一つの行く末を親心をもっていつも祈りに覚え、心痛めて、産みの苦しみを続けているというのです。そしてそういうパウロでさえ「あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです」と、そのように困り果て、困窮し、途方に暮れることがある。そういう愛のゆえの困惑、愛のゆえの途方に暮れる思いがあるのだという事実を、そのままこの朝、心に受け取っておきたいのです。
 私たちの教会もこれから後の歩みの中でこのような道を通らされることがあるかもしれない。でも私はそれらを何か小手先のことで、人の心を操るような方策で、経験に基づいた策を弄して扱いたいとは思いませんし、誰かを裁いて犯人捜しをし、責任を押しつけあうような教会にはしたくありません。むしろ福音の本筋のところで、その真理に立って、主なる神が道を開いてくださることを信じ期待して行きたいのです。それには、いつも私たちの福音の真理への確信が深められていかなければなりません。私たちは人間的な策に走らず、福音がその本来の恵みの力をもって主の教会を再び生き返らせ、立ち上がらせてくださると堅く信じるものでありたいと願います。そしてキリストが形造られていくまで、地上の教会には時に本当に困り果ててしまう愛のゆえの困惑すら許されていることを覚え、主の体の完成の時を待ち望みつつ歩んでまいりたいと願います。

 



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