朝拝(ガラテヤ書講解16) 2007/05/13
『今や神の子ども』

ガラテヤ4:1-7

 今日は母の日です。昨日の白ゆり会で関根先生から「いてくれてありがとう」と言葉にしてあらわすことの大切さを教えられました。ぜひ今日はそれぞれのお母さん方に心からの感謝を言葉をもって表していただきたいと思います。宗教改革者カルヴァンは、神を父として持つ者は教会を母として持つと言いました。神の子どもとされた私たちにとって、まさに教会の交わりは自分が自分としてありのままに迎え入れ、受け入れてくれる母のような場所であり、またそうありたいと思うのです。

(1)今や神の子ども(v.1-3)
 はじめに先週聞いた3章26節から28節の御言葉にもう一度耳を傾けておきたいと思います。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」。この御言葉をガラテヤの教会の人々は驚きながら、しかし深く納得しつつ聞いたのではないかと思います。当時の社会においてユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もない、みなキリストにあって一つだ、というような交わりは考えられないようなことでした。民族の違い、身分の違い、性別の違いは、互いの間を分け隔てる大きな壁であり、それは決して崩されたり越えられたりするものでないとされていたのです。しかし聖書はそのような隔ての壁が取り除かれた所、それがキリストの教会の現実だと語るのです。確かにこのことは今日の私たちにとっても驚くべき現実です。私はいつも思うのですが、本当に教会というのはおもしろい場所だなあ、こんなにバラエティに富んだ人々が、何かの利害で一致するという理由なしに一同に集まり、こんなに親しい交わりをする場所はこの社会において教会しかないだろうと思うのです。金子みすずの詩に「みんな違って、みんないい」というすばらしい詩がありますが、まさに教会は「みんな違って、みんないい」そんな場所だと思うのです。ではこんなに違う人々が一つとされているのはいったいなぜなのか。そのことを考えていく時に行き着くのは結局のところ私たちが「キリストのものとされている」というその一つの理由によるということです。私たちがキリストによって神の子とされている、キリストによる相続人とされている。この一点において教会の交わりは成り立っているのであり、それ以外では恐らく出会うこともなかったであろう私たちが、29節で「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」と言われているように、今や互いに兄弟姉妹と呼び合う神の子どもたちの交わりに入れられ、神の祝福を受け継ぐ相続人とされていることをまず心から喜ぶお互いでありたいと思うのです。
さてパウロは4章に入って、私たちが神の子どもとされたという祝福の姿を、今度は遺産の相続人のたとえを用いて説明して行きます。1節から3節。「ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました」。ここでパウロは律法のもとにあった
人間の姿を、父の遺産を相続しながらも、まだその財産を現実に受け取る年齢に達していないために後見人や管理者のもとにある相続人の姿にたとえています。彼は父親が残した遺言状によって父親の財産を受け取る権利をすでに約束されているのですが、まだ父親の定めた成人の年齢に達していないために、その財産を自分の手元に置いて使うことができず、父の定めた後見人、管理者に監督下に置かれているのでした。このたとえを使ってパウロは、神の子とされる祝福の約束を与えられながら、いまだその実行の時が来る前であるために律法のもとに置かれていた旧約時代の人間の姿を描き出したのです。

(2)定めの時の到来(v.4-5)
 しかし、ついにその約束が実行に移され、祝福の相続を受ける時がやって来ました。4節、5節。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」。パウロは前回の3章23節と25節で「信仰が現れる以前」と「信仰が現れた以上」と、旧約と新約を対比して見せたことを、今度は「父の定めた日までは」と「定めの時が来たので」と言い換えています。「信仰が来た」というのはそのまま救い主イエス・キリストの到来を指すと理解してよいということを私たちは前回学んだのですが、今日の箇所ではそれが「父の定めの日が来た」という言い方で、すなわち父なる神の救いのご計画の実現という意味合いで言い表されています。しかもこの「定めの時が来た」という言い方は、直訳すると「時が充満が来た」となり、神の計画された時の器が一杯になってその成就に至ったということになります。このことをパウロはエペソ書1章7節以下でこう語っています。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは御心によりご計画のままをなされる方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためでした」。
 こうしてエペソ書1章とあわせて今日の御言葉を読むとき、ここでの「定めの時」とはまさしく神の御子イエス・キリストが来られて、私たちを律法の奴隷の状態から解き放ち、私たちが神の子としての身分を受けるための神の救いの時を指していることを一層はっきりと知ることができるのです。こうしてパウロは私たちが今、神の子とされ、律法の重荷から解放され、罪の赦しをいただき、永遠のいのちの祝福に与ると言うすばらしい祝福の遺産を相続する者とさせていただいているのは、父なる神の永遠のご計画の中で定められたことであり、そのご計画の実現のために御子イエス・キリストが私たちのもとに来てくださり、私たちを神の子とするために、自ら神の独り子であられるイエス・キリストが律法の呪いをその身に引き受けて、律法の下にある者となってくださったと語るのでした。私たちがいかなる者であろうとも、父なる神が残してくださった遺産相続の遺言は変わることがなく、その時が来れば必ず実行される。こうして私たちは今や「神の子としての身分」を受ける者とされているのです。この「子としての身分を受ける」と言う言葉は新約聖書の中でも希なパウロの特徴的な言葉で、その意味するところは養子縁組をする、養子として迎えるというものです。父なる神は罪ある私たちを養子として迎え入れるために、実子である御子イエス・キリストを十字架につけてくださったというのです。エペソ1章5節に「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」とあるように、まさしくこれこそが父なる神の愛による決断でした。

(3)御子の御霊によって(v.6-7)
 しかもそれだけではありません。6節、7節。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなくて、子です。子ならば、神による相続人です」。この御言葉と関わりの深いローマ8章14節から17節も見ておきましょう。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」。本当はローマ書8章全体を読んでおきたいところです。この章は私たちがクリスチャンになって後、自分の救いを疑ってみたり、このままではだめなのではないか、落ちこぼれクリスチャンなのではないかと落ち込んだり、悩んだりした時に繰り返し読み味わっていただきたい大切な御言葉です。私たちが神の子であることは御霊が証ししてくださる。神の子とされたはいいが、今までの自分とのギャップがありすぎて、どう振る舞っていいか分からない。クリスチャンとしての作法も、立ち居振る舞いも、言葉遣いも、何から何まで分からないことだらけ。こんなことで自分は本当にクリスチャンでいいのだろうか、そんな風に悩むことがあります。けれども神は私たちに聖霊を送ってくださって、そういう私たちでいいのだ、聖霊があなたが神の子であることをいつも証ししてくださるといい、それだけでなく、最初は恐る恐る、遠慮がちでありながらも神様を「お父さん」と呼んでいいのだと言って「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊を私たちの心にお遣わしくださったのです。主の祈りについて学んだ時にも申し上げたことですが、ガラテヤ書も、ローマ書もここで「アバ、父」と敢えて「アバ」と言う言葉をそのまま使っていることを心に留めたいと思います。「アバ」という呼びかけは赤ちゃんや小さい幼子がお父さんを呼ぶ言葉、「おとうちゃん、パパ」と言う言葉です。小さい子どもとはいえ、養子として受け入れられた子が初めてこうやって呼ぶことにはいろいろな緊張がともなうことでしょう。それでもそうやって呼んでいいんだよ、と促してくださるというのです。本当に幸いなことだと思います。
あまり説教の場で個人のことを取り上げるのはどうかと思いますが、もうすぐ健太君がこの教会に来て一年になろうとしています。Kさんのお宅に迎えられ、家族の愛と祈りの中で健やかに育っている姿をうれしく思い、またこの経験が教会にとっても本当に幸いな経験であることを私自身深く実感しています。まだ不慣れなうちは「おじちゃん」、「おばちゃん」と呼んでいましたし、去年の修養会の頃は誰彼構わず「お父さん」、「お母さん」だったり、「おじちゃん」、「おばちゃん」だったり、私も何度か「お父さん」と呼ばれたことがありましたが、呼び間違えであってもとてもうれしい気持ちがしたことを覚えています。そして今ではKさん夫妻を自然に「おとうさん、おかあさん」と呼び、奈緒美ちゃんや寛君を「おねえちゃん、おねえちゃん」と呼ぶ。教会の中で本当によい存在でいてくれる。私は彼の姿に触れる度に「子とされることの恵み」を思い起こします。かつては見も知らない、遠く離れていた者が、今や神の子どもとされ、その家族の交わりに入れられ、主イエス・キリストの贖いによって神様を「お父さん」と呼ぶことのできる親しい関係に入れられている。もはやいつ捨てられるかと怯えることもなく、何ができるかどうかで計られて、できなくなったら奴隷のように売り飛ばされるというような恐怖に陥れられることなく、神様によって愛されている満足感と、その大いなる御手で守られている安心と、神の御顔の前にその存在を尊ばれているという喜びをいただき、永遠のいのちに至るすべての祝福を相続する者とされている。この神の子としての恵みを深く心に刻んで歩んでまいりたいと思います。

 

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.