朝拝(ガラテヤ書講解15) 2007/05/06
『キリストにつく者』

ガラテヤ3:23-29

 今朝でガラテヤ書3章を読み終えることになります。そこでこの朝は、主イエス・キリストを信じる信仰によって神の子とされていることの大いなる幸いと、その喜びと光栄を御言葉からご一緒に受け取っていきたいと思います。

(1)律法は養育係(v.23-25)
週報にも報告されていますように、先週、主にある家族に新しいいのちが誕生しました。ご家族にとって大きな喜びであることはもちろんのこと、いっしょに祈り続けてきた私たちにも本当にうれしいことです。教会に子どもたちが加えられること、このことをみんなでともに喜びたいと思います。教会は神の家族ですし、主にあってお互いは兄弟姉妹です。それは時に血のつながりを越えて深い愛の絆で結ばれる交わりです。先日、成人科が始まる時に居合わせました。その日の学びのテーマが「子育て」だったのですが、集われたお二人の方々はそれぞれお子さんのいない方々で、でも教会の子どもたちはみんな自分たちの子どもたちだと言って、子どもたちのために祈っていてくださいました。それは私にとっても本当にうれしい光景でした。たとえ血の繋がった親兄弟、子どもがいなかったとしても、教会の交わりはそれを越えて堅く主にある愛に深く結び合わされた家族の交わりであることを覚えさせられるのです。そのように考える時、あらためて幸いな御言葉が今日私たちに向かって語りかけられていることに気づかされます。「あなたがたはみな、神の子どもです」。そう。私たちはみな神の子どもたちである。ここに集う誰もがみな、父なる神によってかけがえのない存在として愛され、主イエス・キリストの十字架によって滅びの中から取り戻された大切な神の子どもたちである。いつ主人に捨てられるか分からないと言って絶えず不安と恐れに怯えながら、主人の顔色をうかがって生きる奴隷ではなく、たとえどのような者であっても、どのような姿であっても、決して見捨てられたり、置き去りにされることのない、むしろその存在を喜ばれている神の子どもである。この朝、この言葉を心から安心して、うれしい言葉として聞いておきたいと思うのです。
 さて、使徒パウロはこのようにして今、私たちが神の子としての身分を与えられるに至った消息を引き続き律法との関わりで語っていきます。23節、24節。「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへと導くための養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」。ここでこれまで繰り返し学んできた律法の役割のまとめの言葉が語られています。すなわち「律法は私たちをキリストへ導くための養育係」であるということです。パウロはここで律法の役割を「養育係」と述べています。どちらかというとこれまでの議論では律法は私たちに罪を示し、主なる神が求めておられる基準を満たすことができず、そればかりかそれに違反している姿を認めさせるものという大変消極的な説明がなされてきたのですが、このまとめの段階に来て、パウロはそれらの律法の役割が、詰まるところそのようにして私たちに罪を教え、それだけでなく、その罪からのただ一人の救い主であられる主イエス・キリストの身許に導くためのものであることを明らかにしているのです。養育係というのは、当時のローマ社会において比較的裕福な市民層の家の子どもたちに勉強や身の回りの生活習慣全般のしつけを行う当時の奴隷たちを指す言葉で、今日で言うと家庭教師のような存在といってよいでしょう。そのように律法は人々を手取り足取り導きながら主イエス・キリストのもとへ連れてくる働きを担って来たというのです。しかしそのような養育係としての律法もやがてその働きを終える時が訪れたとパウロは言います。25節。「しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません」。なぜキリストのもとへ導くための律法はもはやその役割を終えたのか。それはまさに主イエス・キリストご自身が来られて、主イエスを信じる者たちをみな神の子どもとして迎え入れてくださる時代が到来したからだとパウロは語るのでした。

(2)私たちは神の子ども(v.26)
 こうして今や私たちは律法の行いによらず、ただ主イエスを信じる信仰によって救いに入れられる新しい時代の中を生かされているのです。26節。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」。これは本当に幸いな言葉です。パウロはこのことを特に心を込めてガラテヤの人々に語ったのではないでしょうか。3章1節で「ああ愚かなガラテヤ人」と厳しい叱責の言葉を投げかけたパウロ。自分たち異邦人はこのままでは救われないのではないか。ユダヤ人たちのように律法を守らなければいけないのではないか。そんな不安に駆られて行いによる救いを求める誤った道へ進んでいこうとする彼らに、パウロは7節で「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」と、あなたがたも神の約束の民なのだと語りかけ、15節では「兄弟たち」と、事実あなたがたは私たちと同じ兄弟ではないかと語りかけ、そして今やあなたがたは神の子どもだと宣言するのです。ユダヤ人のようになること、行いを積み上げること、そうやって神のご機嫌を取り、気に入られなければ、いつ救いから落ちるか分からない。そんな不安の中にいるのではないのだ。あなたがたはすでに神の子どもなのだから、何の心配もいらないのだ、と語りかけているのです。
 ガラテヤの人々が抱いたような不安は、私たちにとっても決して他人事ではないように思います。今、祈祷会でウエストミンスター小教理問答の学びを始めていますが、先日その第一問、「人の主な目的は何ですか。神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」という有名な問答について学ぶ中で、神をどうやったらお喜ばせすることができるか、神様は本当に私を喜んでくれているのか、そうやって不安の中を生きるのではなく、私を私として愛し、喜んでいてくださる神を私たちも喜ぶのだということを学びました。私たちは救われてなお、神の前にいつふるい落とされるか分からない、いつ滅びに逆戻りするか分からない。神のお気に召さない者になったらたちまち救いが取り上げられてしまうのではないか、そんな不安や恐れにかられ、律法主義的で喜びのない信仰生活の中に陥ってしまいやすい者です。どうしてそういう心がすぐに浮かんでくるのか。なぜ神の御前で安心して神を喜ぶことができないのか。それはまだどこかに信仰というものが自分の手で築き上げるもの、成し遂げるもの、持ち続けるものというとらえ方があるからなのではないでしょうか。しかし今日の御言葉を読んでみるとそのようなとらえ方が大きな間違いであることに気づかされます。ここであらためて23節の冒頭を見ますと「信仰が現れる以前には」と記されており、続く25節には「信仰が現れた以上」という書き方がされています。どちらも信仰があたかも人格のように描かれているのですが、それ以上に重要なのは、ここで「現れる」と訳されている言葉は直訳すると「来る」という言葉であるということです。信仰が来る以前、信仰が来た今。こうパウロが言っている。私の信心深さ、私の熱心さ、私の知識の多さ、賢さ、犠牲の多さ、そういう私の信仰の構えの如何ということでなく、私が持ち、抱き、しがみつき続けるのではなく、信仰は来るのだ、と聖書は語っているのです。しかもこれらの後に26節が続くという流れを見てみると、要するにここで「信仰」と呼ばれているものが実は「キリストそのもの」であると言ってよいということにもなります。つまり私の救いはキリストが私のもとに来てくださることだということになるのです。こうしてキリストが私に訪れてくださり、私のもとに来てくださり、聖霊によって私のうちに住んでくださるその時に、私たちは確かに神の子どもとされる。私たちはこの朝、しっかりとこのお約束の御言葉を心に刻んでおきましょう。私たちはキリスト・イエスに対する信仰によってすでに神の子どもなのだと。その立場は決して変わることなく、取り上げられたり、無効にされたりすることはないのだということなのです。

(3)キリストにつく者(v.27-29)
 パウロは今やキリストを信じる信仰によって神の子とされたという大きな喜びの事実を、今度は別の表現を用いて表します。27節「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」。この箇所は続く4章でさらに詳しく展開される箇所ですので、次週以降あらためて考えていこうと思いますが、今日は一つのことだけを申し上げておきたいと思います。それはパウロが私たちが神の子どもとされることを洗礼の恵みを用いて「キリストにつく者」、「キリストを着た」者と言い表しているということです。キリストにつく者。これはちょうど植物の「接ぎ木」をイメージした言葉です。親と子のイメージをパウロはここではキリストという台木とそこに接がれた接ぎ木のイメージで言い表していますが、そこで共通しているのはどちらも生命的な結びつきがあると言うことです。私たちはキリストという台木に深く根ざして生きるようにと接がれた者である。キリストご自身から命の養いをいただき、愛を注がれ、日毎に命を与えられ続けて成長していくのであって、そこから離れては生きていくことはできないのです。洗礼はそういう意味でキリストに接がれるいのちの始まりであり、またキリストにある神の子どもとしての誕生だということができるでしょう。
 しかも、そうやってキリストのいのちに深く結びつけられ、接ぎ木された私たちは、「キリストをその身に着た」と言われます。一度は神の子とされたけれど、親の気に入らないことをしたから捨てられる。親が思ったように成長しなかったら子どもの身分を取り消される。台木に挿しては見たものの、期待したような成長をしないからと引き抜かれる。伸びてみたら枝振りが気に入らないからとへし折られる。私たちは自分がいつそういう憂き目に会いはしないかと恐れおののくものです。しかし父なる神は罪に染まった私たちの体、とてもそのままでは父の御前に進み出ることのできないような様々な罪と咎で汚れきった私たちにキリストという上着を着せてくださり、もうその罪を認めない、キリストによってあなたはきよい者だと宣言してくださるのです。だからこそパウロは28節、29節でこう語るのでした。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」。主イエス・キリストを信じる信仰によって神の子とされ、キリストにつく者とされた私たち。キリストと出会う以前は本当に神の愛から遠く離れて顔を背け、罪と咎の中に死んでいた、いや死んでいたばかりかそんな自分にも気づかずにいた私たち。生まれも育ちも様々、生きてきた環境も様々、犯した罪も様々、神に背き続けてきた年月も様々、罪の多さや重さも様々。しかし誰一人自分で自分を救うことのできない者であったことだけはみな同じである私たちを、しかし主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、キリストという上着を着せていただいたことによって、神はその違いに目を留めることをなさらず、ただキリストにあって、というその一点において私たちを神の子どもという一つの交わりの中に迎え入れてくださるのです。人は民族の違い、性別の違い、生きる環境の違い、様々な違いをことさらに強調してみたり、あの人よりは自分がすぐ優れているとか劣っているとか、自分も悪いけれどあの人の方がもっとひどいとか、あの人よりはまし、この人ほどは悪くないとか、そういって他人と自分を比較しては優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたり、いつその立場を取り上げられるかと不安や恐れにとらわれるものです。しかしこの朝、私たちは「私たちは神の子」、「私たちはキリストにつく者」。このことをはっきりと心に刻み、このような幸いな光栄ある存在とされていることを心から感謝し、その確かな事実にこそ信頼し、この地上のあらゆる違いを乗り越えて結ばれる神の家族の交わりの豊かさを心から安心して受け取っておきたいと思います。

 



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