朝拝(ガラテヤ書講解14) 2007/04/22
『恵みの約束』

ガラテヤ3:15-22

今朝は引き続きガラテヤ書3章に記された御言葉を通して、神の律法に先立つ恵みの約束の確かさと、ただその恵みを受けた者として生きることのできる幸いについて、ご一緒に教えられたいと思います。

(1)約束と律法(v.15-18)
 つい先日、私の大変尊敬する渡辺信夫先生の「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」という本が出版されました。これは今から十年前に私が神戸の神学校におりました時、先生がなさった特別講義がもとになり、その二年後に川越にある別の神学校で話された講義がまとめられたものですが、この本の最初に、先生が神戸でなさった講義の時のエピソードが紹介されています。神戸改革派神学校での三日間の講義の後、先生は神戸ルーテル神学校でアジア伝道の歴史についての講義をなさり、私は友人と二人でその講義も聞きに行ったのですが、その時のことに触れられていました。私にとってもこの二つの講義は一つの理由で大変心に残っているのですが、それはそれぞれの講義の時の渡辺先生に対する紹介の仕方の違いがとても印象的だったからです。改革派神学校では「一番ふさわしい言葉で先生のご紹介をしたいと思います。東京告白教会牧師の渡辺信夫先生です」。たったこれだけの実にあっさりとした紹介でした。しかし私はこれが本当に相応しい紹介の仕方だと納得したのです。次にルーテル神学校での講義の冒頭、講師のお一人の先生だったと思いますが、「世界的に有名なカルヴァン学者、神学者であり、数々の書物を記し、翻訳をなさり、アジア伝道にまで造詣の深い渡辺先生」と紹介されたのです。私はこの紹介の仕方に強い違和感を感じ、もしかしたらこの先生は渡辺先生の本を一冊も読んだことがないのではないかと思ったりもしました。今になって思えばたった一言の紹介で決めつけるのはどうかと思いますが、それでもその時はそんな印象を受けたのです。それで講義の後、渡辺先生にそんな感想を正直に申し上げたところ、そういう所に気づいてくださったことはうれしいことだったというお返事をいただいたことがありました。一人の伝道者、一人の牧師、一人の会社員、一人の主婦、一人の学生、一人の教師、一人の私、そういうことに本当に満足して、神からいただいたこの身分で満足し、それに加えて自分を誇るもの、自分を飾るもの、自分を誇示するものを手に入れたいと願う、そんな密かな思いから解放されていく歩み、そんな歩みを始めて行きたいと思わされるのです。
 神の恵みをいただいて、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって救われたにも関わらず、なお律法の行いにすがり、己れの義を打ち立てようとする過ちに陥るガラテヤの人々に、何とかその誤りに気づかせ、神の恵みの大きさ、豊かさ、確かさを伝えたいと願うパウロの筆は、旧約聖書を用いた説明に移っていきました。先の6節から14節ではユダヤ人にとっての信仰の父アブラハムがいったいなぜ神から義なる者と認められたのか、その理由は彼の行いではなく、主を信じた彼の信仰であったことを明らかにし、自分たちこそアブラハムの子孫だといって誇るユダヤ人たちに対して、異邦人だろうが何であろうが「信仰による人々こそアブラハムの子孫」と言い切ったパウロは、では律法とは何であるのか、という人々が抱くであろう疑問について説明をはじめ、それを旧約における歴史の進み方に即して語り始めるのです。15節、16節。「兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはできません。ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数を指すことをせず、ひとりをさして『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです」。ここでのパウロの論の進め方はなかなかややこしいのですが、まとめて言うと次のようなことを言っているのです。彼はここで主がアブラハムに与えられた祝福の約束、それは創世記12章から繰り返し語られるところであり、しばしばアブラハム契約と呼ばれます。それと後の出エジプトの時代にモーセに与えられた律法、これは出エジプト記20章に記される十戒を中心としたもので、しばしばシナイ契約と呼ばれます。パウロはここでアブラハムに与えられた恵みの約束とモーセに与えられた律法、すなわちアブラハム契約とシナイ契約とを比べて、先に結ばれたアブラハムへの約束が律法にまさるものなのだと言っているのです。ですから15節で「兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはできません」という時、「契約」という言葉は「遺言」という意味も持ち、ここではそのように読むのが相応しいと思いますが、ともかく先に書き残された遺言を、後の人が勝手に無効にしたり内容を変えたりすることができないように、信仰による人々はみなアブラハムの子孫であって、彼の信仰のゆえに祝福を受けると言われた約束を、後の律法の時代になって、やはり行いが必要だ、割礼も必要だ、あれも守らなければだめだ、これも守らなければだめだ、そしてユダヤ人以外はだめだ、と言うことはできないであろうということです。そして事実、その後のユダヤ人の歴史の中で彼らが「神の民」として幾多の困難はあったにせよ神の守りと祝福を相続しながらこうして今まで保たれてきたのも、そして何よりも異邦人であるあなたがたが神の子どもとされているのも、律法を行ったからではなく、ただキリストを信じたからではなかったかというのです。17節、18節でこう語られている通りです。「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その契約が無効とされたりすることがないということです。なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです」。つまり結論的に言えば、これまでは私たちが救われたのは律法の行いによらず、ただキリストを信じる信仰によって、その救いの御言葉を聞いたことによってと語ってきたパウロが、さらにさかのぼって、私たちが救われたのは神の恵みの約束によることだと言っているのです。

(2)律法の役割(v.19-20)
パウロがここまで踏み込んで語ってくると、当然のことながらそれを聞いていたガラテヤ人の中にも、そして私たちの中にも重ねて次のような問いが浮かんでくるのではないでしょうか。19節、20節。「では律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜る神は唯一です」。ここでパウロはあらためて「律法とは何か」という問いを立てて自分で答えてみせるのですが、その答えは「それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手でさだめられた」というのです。「約束を受けた子孫」というのは、パウロの理解では前の16節にあるようにキリストご自身を意味しており、「仲介者」というのはモーセを指しています。十戒は救い主イエス・キリストが来られるまでの間のものとしてモーセによって定められたと言うことになるわけですが、ポイントはその目的がキリストが来られる時まで「違反を示すため」だというのです。
 私たちはすでに律法が持つ役割の一つとして、私たちに罪を教えて救い主キリストへと導くためということを繰り返し学んでいるのですが、改めてパウロの語る言葉に沿って聞いていきますと、これは大変驚くべき事を言っている、一見すると非常識な暴言とも思えることを言っているということに気づきます。律法の役割は私たちが罪の道を歩むことなく、神の御心に生きるため、正しい者として主の道を歩むため、これが旧約聖書が繰り返し教えていることです。私たちがよく親しんでいる詩篇119篇などはまさしくそのように「主のおきて」に従うことの大切さを教えていました。もちろパウロもそのような旧約の教えを知らないわけはありません。いやむしろ人一倍それらの教え、律法の教えに生きてきたのがかつては律法学者ガマリエルの弟子であったパウロ自身です。しかしそれでもパウロはこのように言うことをためらいません。彼はなおも言います。

(3)恵みの約束の成就者(v.21-22)
 21節、22節。「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです」。これもなかなか難しい理屈を展開するのですが、律法が人に神への違反を示すためであるなら、それはそもそもの神の約束に反するのではないかという問いを立てたパウロはすぐさま、パウロ独特の強い打ち消しの言葉で「絶対にそんなことはありません」と言い切ります。旧約時代から一貫して人は律法を守ったから救われるのか。もうしそうなら確かにユダヤ人やガラテヤの偽教師たちが言うように律法によって人は義とされるであろう。しかしそんな人は誰一人としていないではないか。むしろ私たちが旧約聖書を読んだとき、律法を聞いたとき、そこで知ったのは自分の罪深さではなかったのか。律法がなかったら私たちは罪を知らなかっただろうが、一度律法を知った今、私たちは誰一人自分の義を主張することなどできないではないか。そのように私たちに本当に深い罪の実感、律法を知らなければ、神の基準を知らなければ、決して思い知ることのなかった罪の姿を私たちは律法を通して知ったのであり、それをもって救い主キリストを求めるようになったのであって、それこそが律法の目的なのだというのです。
 確かに神の基準を知る前の私たちは、人の迷惑にならなければ、法に触れるようなことがなければ、誰も見ていなければ、誰もがしていることであれば、そんな曖昧で自己中心な、いつでも善と悪とが入れ替わるような不確かな基準でしか罪を知らなかった。しかし聖書の御言葉を通して本当の罪が神への背信であり、自分の力ではそこからの救いがないことを思い知らされ、救い主イエス・キリストのもとに来たのではなかったのでしょうか。だからこそキリストの救いの恵みが本当に分かる。その約束の確かさが分かる。主なる神が私をただイエス・キリストのゆえに救ってくださる恵みの約束の確かさに拠り頼んで今ここにあるのです。これほどの愛と恵みを受けて、それ以上何が必要なのか、何をさらに求めようというのでしょうか。私は罪赦された罪人の一人、主イエス・キリストの十字架によって罪赦していただいた罪人の一人。ただそれだけ、しかしそれほど人です。自分のうちにある何をも誇ることはできない。パウロはこの心をガラテヤ書の終わり、5章13節、14節でこう言っています。「彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」。
 宮田光雄先生の『メルヘンの知恵−ただの人として生きる−』という書物の中にこういう一節があります。「私たちは、人々から拒否されること、低評価されることを恐れがちです。確かに自分をあるがままのものとして示すことには恥の意識と罪責感がともないます。しかし、それはつまるところ自分が《ただの人》=普通の人間であることを認めるのを恐れていることからくるのではないでしょうか。私たちの間には、お互いのもっていないも賢さやすばらしさを振り回してみせる《知ったかぶり》や《独りよがり》が多く見られます。そうした思い上がった態度があるからこそ、また他人を見下すような非寛容な振る舞いをしてみせるからこそ、そこに多くの不必要な軋轢が生まれ、また苦悩が生まれてくるのではないでしょうか。・・・私たちが《ただの人》であること、普通の人間の一人であることを認めるとき、私たちは肩の荷を下ろして大きく息をつくことができるでしょう。・・・私たちは、自分たち一人一人に与えられたこの人生をかけがけのない贈り物として、敢えて言えば神からの賜物として受け取り、その責任を引き受けることを決意するでしょう。この限られた人生の中に、生きることの意味をいっそう深めるためにつとめるでしょう。そのとき、私たちはこれまでさまざまなステイタスシンボルを求めて外部の世界に投影してきた富とか財宝とが、むしろ自分自身の内部に豊かにあることに気づかされるのではないでしょうか。・・・自分自身に即して生きる充足感、自分が本当に自由であるという解放感、自分がこうして生きるのを許されていることの静かな喜びなどを、心に深くかみしめながら生きていけるのではないでしょうか」。
 主イエス・キリストによって赦されたただの人として生きる。それこそが神の恵みの約束の中に生かされる私たちの最も自由で真実で誇らしい姿ではないでしょうか。救いを必要とする弱い人として、だからこそキリストを求める人として、そしてその恵みを確かに受けた人として、そういう自分を認め、受け入れ、そこから恵みの約束に裏付けられて、確かに足取りでこの人生を歩んでまいりましょう。

 

 



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