朝拝(ガラテヤ書講解13) 2007/04/15
『信仰による人々こそ』

ガラテヤ3:6-14

今朝は引き続きガラテヤ書3章に記された御言葉を通して、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる救いの恵みについて、ご一緒に教えられたいと思います。

(1)アブラハムの子孫とは(v.6-9)
私たちが救われたのは律法を行ったからなのか、それともただ主イエスを信じたからなのか、私たちが聖霊を受けたのは律法の行いのゆえか、それとも信仰の言葉を聞いたからなのか。2章の終わりから繰り返し問いかけてきたパウロ。彼はその結論を導き出すにあたって旧約聖書をひもとき、創世記に記される信仰の父アブラハムの姿を指し示します。
6節から9節。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される』と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」。
6節の言葉は創世記15章6節から引かれたものです。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあるとおりです。創世記12章から始まるアブラハムの物語は、主なる神のアブラハムに対する語りかけから始まりました。1節から3節。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。この約束の言葉を受け取ったとき、それに従って彼は生まれ故郷のカランを旅立ち、年老いて神の祝福を受け継ぐべき跡取りが与えられない時にも、神の約束を信じてひたすらに待ち望んだのでした。このようなアブラハムの姿を証ししたのが創世記15章6節の御言葉なのです。
 アブラハムを信仰の人として見つめるまなざしはそのまま新約聖書にも引き継がれます。今日のガラテヤ書もそうですが、さらにはヘブル人への手紙にそのことが記されます。11章8節。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従いどこにいくのかを知らないで、出て行きました」。また17節以下でも「信仰によって」と息子イサクを捧げるアブラハムの姿を賞賛しています。ここに見るアブラハムの信仰。それはただ主なる神の約束の言葉だけを信頼し、その言葉によってのみ生きようとする姿と言えるでしょう。自分の力、自分の知恵、自分の経験、自分の確信、そういったものを足がかりにし、自分の目で確かめられるもの、自分の手で手応えを感じられるものを担保にして信じるのではなく、ひたすら神を待ち望み、その約束に自分を結びつけて生きる姿です。ヘブル書11章1節でこう言われているとおりです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」。このように聖書はアブラハムの信仰を、ただ彼がひたすらに神の約束の言葉に信頼し、目に見えない者を待ち望んで生きた姿に見出しているのでした。
このようなアブラハムの姿を示したパウロは「信仰による人々こそアブラハムの子孫」であり、「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受ける」と言いました。律法の行いを強調するユダヤ人たちにとって、彼らの誇りとするのは自分たちがアブラハムの子孫、神の選びの民だという確信です。ところがパウロはアブラハムをそのような律法の民の代表としてではなく、信仰の人の代表として示すのです。キリスト者になったとはいえ、律法を守り、割礼を受け、ユダヤ人のようになることが大切だとしてガラテヤの教会に律法を要求する人々、そしてそれに応じようとして別の福音に走るガラテヤの信徒たちに、あなたがたが主を信じたならば、主はあなたを義と認められる。それであなたはもうアブラハムの子なのだ、血も行いも関係ない、主の言葉を聞いて信じる人こそがアブラハムの子、神の民なのだ、信仰の人々が祝福を受けるのだ、と語りかけるのです。主なる神に何かを示せる人、正しさをアピールできる人でなく、何の功しもなく、何の取り柄もない、ただ主の御言葉にすがるほかない私たちを指して、いや、あなたがたこそ祝福を受ける人々だ、と言ってくださるのです。

(2)律法による救いはない(v.10-12)
 こうしてパウロはアブラハムを例に挙げて律法による信仰による義について語り、今度は返す刀で、ではなぜ律法によっては救われないのか、ということを明らかにします。10節から12節。「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです。しかし律法は、『信仰による。』のではありません。『律法を行う者はこの律法によって生きる。』のです」。以前にもお話ししたことですが、律法の大切な役割の一つは、私たちが自分の力によっては律法の基準を満たすことができないことを知って罪を認めるようにさせるということがありました。律法に照らして自分の姿を見るときに、そこで私たちは正しい者とはなりえない自分自身と向き合わざるを得ません。これは大変つらいことですが、しかしそこで自分の罪を知るからこそ、罪を自分の力で解決できないことを認めさせられるからこそ、私たちは贖い主イエス・キリストのもとに行くのであり、律法によって私たちは罪を知り、それを通してキリストの恵みへと導かれていくようになるのです。
 私たち自身のことを振り返ってみましょう。聖書と出会う前は罪とも思わず、知らずにしていたことが、聖書を読み、御言葉を通して主なる神の基準を教えられた時に、それが罪であったことに気づくという経験があるのではないでしょうか。救われてからの歩みの中でむしろ罪の自覚が深まるということがあるのです。それでももはや罪の呵責に押しつぶされたり、自分の救いを疑って不安に陥らないでいられるのは、罪の自覚の深まりが、そのまま主イエス・キリストの十字架の恵みの高みへと私たちの思いを導くからであり、まさに「罪汚れはいやますとも、主の恵みもまたいやますなり」と聖歌にあるとおりです。ですから御言葉が語るように、神の御前での義人は律法によって生きる人ではなく、信仰によって生きる人なのです。私たちはしばしば救いの中に入れられてなお、自分の力によって律法を守ることのできない自らをふがいなく感じたり、こんな自分ではだめだと自分で自分を責め続けることがあります。そしてこんなままではイエス様に申し訳ない、顔向けできないといって主の前から退いてしまうことがあるのです。これどもそういって主のもとから遠ざかるならば、ますます主の恵みから離れることになってしまうのであり、主のもとにそういう自分のまま進み出ることがないならば、そこでは自分の心の奥底で、まだ自分の力でどうにかなると思っている自分を捨て切れていないということがあるのではないでしょうか。主イエスによりすがることを遠慮できるうちは、まだ切羽詰まってはいない。そういう隠されたプライドをも捨て去ってこの方のもとに来るほかないのです。

(3)祝福のため、のろいを(v.13-14)
 そこでいつでも私たちが立ち返っていくべきところは、主イエス・キリストの十字架のみもとです。信仰によって義とされ、アブラハムの子孫としての祝福を受けた私たち、またその祝福に今まさに招かれている私たちは、そのために御子イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架を忘れないために、なにか自分の力で救いを得ようなどという考えときっぱりと訣別するために、そして主イエスの十字架の死と復活の恵みに日々新しく生き続けるために、絶えず主の十字架の立ち続けるのです。13節、14節。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」。ここでパウロは主イエス・キリストの十字架の死を、申命記21章22節、23節の御言葉と結びつけます。「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる地を汚してはならない」。この死刑に処せられる犯罪人の姿が、罪なきお方であるにもかかわらず、私たちの罪の身代わりとなってのろいの木である十字架にかけられてくださった御子イエス・キリストに重ね合わされているのです。
 この驚くべき出来事を知るとき、私たちが神の民の祝福をいただくことができるために、神の御子が呪いを引き受けてくださったという、深い神の愛の御業を目の当たりにさせられます。私たちが信じるだけで救われるという恵みの中に今置かれているのは、実はそのために御子イエス・キリストがのろいの木にかけられるという事実があった。このことを私たちはこの朝、深く心に刻み込んでおきたいのです。神に背き、律法に違反した私たちの身代わりに呪いの木である十字架にかかって罰を受けてくださったキリスト、律法の要求である神への全き服従をただ一人完全に成し遂げてくださったキリスト。このお方によって私たちは罪を完全に許され、永遠の刑罰から解放され、永遠の命の祝福をいただくことができる。信じるだけで救われるという「だけ」が、実は決して簡単な「だけ」ではなく、そこにこれだけのことが込められている、祝福を与えるために呪いを引き受けてくださったお方がおられる。その方のおかげゆえの「信じるだけ」なのです。ここに大きな福音の慰めと安心があります。日々、自分の罪と向き合いながら、神の怒りと裁きを恐れおののきながら戦々恐々として生きるのでなく、自分の罪を見つめつつも、そこで十字架の主イエスを仰ぎ、その十字架による罪の赦しを信じ、そこに全ての重荷を委ねて、また明日へと進んで行くことができる。気休めでなく、一時の慰めでなく、実に確かな赦しの恵みの中を安心して生きていくことができる。そしてついには主なる神がアブラハムに与えてくださった祝福を受け継ぐ者となることができる。そのお約束の確かさに私たちは安心し、主にお委ねして、今日からまた信仰の歩みを歩み出したく願います。

 



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