朝拝(ガラテヤ書講解12) 2007/04/01
『信仰をもって聞く』

ガラテヤ3:1-5

 4月を迎え、私たちは新しい思いでこの月の歩みを始めようとしています。また今朝は教会暦では「棕櫚の主日」と呼ばれ、主イエス・キリストの地上の御生涯における最後の一週間の始まり、受難の一週間でもあります。主イエスの十字架への道行きを覚えつつ受難週を過ごし、主イエスの復活を喜び祝うイースターへと進んで行きたいと願います。そこでこの朝は、十字架の主イエス・キリストを信じるとはいかなることであるかという大切な事柄について御言葉の語りかけに聞いていきたいと思います。

(1)聞くこと、信じること
 私たち人間に与えられている感覚の中で一番最後まで残るのは、聞くという感覚、聴覚であると言われます。話すことができなくなり、目を開けることも体を動かすことも、そしてついには眠りについたままのような状況に置かれても、聞くことは最後まで残されているというのです。確かに地上の生涯の終わりに立ち会う経験を重ねてくる中で、このことは本当だと思うことがあります。もはや二度と目覚めることがない、言葉を交わすともできないような中で、それでも耳元で語り続ける言葉は確かにその人の心に届いていると思うのです。病床で手を握ってこちらの語りかける言葉に手を握り返すという仕方で応答をしていただくということがありますが、そういうかたちで信仰告白に導かれて天へと召されていった方々もあるのです。聞くと言うこと、それは私たち人間に与えられている大切な主からの賜物です。しかもこれは単に聴覚という感覚に限定されることでもありません。聴覚に障害を持つ方々にとっても、手話や筆談など様々な方法を用いてもそこでは確かに「聞く」ということが起こっているのです。
 聖書は私たちの信仰の歩みにおいても「聞く」と言うことに特別の意味を置いていると言えるのではないでしょうか。主イエスの足下に座って主が語られる言葉をじっと聞いていたマリヤについて、主は「どうしても必要なことは一つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです」と言われました。また聖書は私たちが信仰を持つということを聞くこととの結びつきの中で捕らえています。求道の生活を進んでいくと、やがて一つの問いと向き合うことになります。「信じるためにはどうしたらよいのか」という問いです。どうしたら信じることができるのか、どうやって信仰の世界に入っていくことができるのか。この朝、そのような問いを抱きながらこの礼拝に集っておられる方々もあるのです。この問いについてしかし聖書は実にはっきりと答えを与えてくれています。それはローマ書10章17節の御言葉です。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです」。信仰とは聞くことである。では何を聞くのか。キリストについての言葉、もっと言えばキリストご自身の言葉を聞くのだというのです。宗教改革者ルターはあのヴァルトブルク城で聖書のドイツ語訳に取り組んだ時、この御言葉を「信仰は説教による」と訳したという有名なエピソードがありますが、私たちは信じるためのキリストの言葉をまず何よりもこの礼拝における御言葉の説教を通して聞くのだというのです。ですから礼拝に通い続け、説教を聞き続けることはもっとも確かな求道の歩みであり、やがて一番相応しいときに聖霊がはっきりと主イエスを救い主と信じる信仰へと招き入れてくださるのです。

(2)信仰と聖霊
 このことを踏まえて今朝開かれているガラテヤ書3章1節から5節の御言葉を聞く時、そこで私たちの耳に繰り返し響いてくるのは次の御言葉ではないでしょうか。2節。「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか」。また5節。「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇跡を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか」。パウロは2章16節で次のように語りました。「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」。このように私たちが神の御前に義と認められ、救われるのは律法の行いによるのでなく、キリスト・イエスを信じる信仰によってと語ってきたパウロが、今日の3章では律法の行いでなく信仰をもって聞くことによって、と語り直している。つまり信仰を聞くということに置き換えて語っているのです。「信仰をもって聞く」というとすでに信じる心があり、その心をもって聞く、というように理解しがちですが、この言葉は「信仰の聴聞」あるいは「聞いたことを信じること」とも訳せる表現で、そこでは聞くことそのものがすでに一つの信じる営みとなっているのです。
さらに先の2節、5節では私たちの救いのことを「御霊を受ける」と言い表していますし、3節、4節でも「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが」とやはり御霊という言葉を繰り返しています。つまり私たちが信仰をもって聞くことも、聞いて信じることも、救われることも、すべては聖霊の神の導きの中で与えられることであり、「聞く」という言葉がすでに表しているように、それは基本的に受け身の事柄、神が語りかけてくださる救いの言葉、キリストの言葉を聞くということにおいて成し遂げられるものだというのです。この消息についてパウロはIコリント12章3節でこう語っています。「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」。このように私たちが主イエスへの信仰を言い表すことができるのは、私たちに御言葉を聞かせ、それを信じる心を与えてくださる聖霊の神のお働きによることなのです。だから、いつも申し上げるように毎週の礼拝で御言葉の朗読と説教に先立って聖霊を求める祈りがささげられるのはこのような理由によるのです。

(3)十字架のキリスト
 こうして教えられてまいりますと、いったいパウロがここで何を問いかけようとしているかが次第にはっきりとしてくるのではないでしょうか。もう一度1節から5節を読みます。「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にあんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇跡を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか」。
 パウロはここでまたしてもガラテヤの人々に向かって「ああ愚かなガラテヤ人」と厳しい言葉、罵倒の言葉を投げかけます。ふつうこういう言葉を口にすることは許されないことですし、まして説教壇から聴衆に向かってこんな言葉を吐こう者なら大変な問題になるでしょう。しかしパウロはここで本気で怒っているのです。そういう常識など消し飛んでしまうほどの聖なる怒りを燃やしているのです。本気で怒ってくれる人は本気で思ってくれている人ということでもあるでしょう。通り一遍の上辺だけの関わりではない。パウロが本気でガラテヤの人々を思い、彼らを何とかキリストの福音のもとに立ち戻らせたいという愛の熱心がこの激しい言葉となってほとばしり出ていると思うのです。そのパウロの怒りの理由を改めて辿っていくと二つのことに行き着きます。一つはすでに繰り返し私たちが学び取っているように、自分の行い、律法の業によって自分の救いを成し遂げようと考える愚かさに対してです。特に3節で「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」と言っているように、聖霊によって聞くことから私の救いが始まったにもかかわらず、自分の行い、律法の業によってその信仰を完成させようとする過ちに対してパウロは激しく怒りを燃やしているのです。救いは恵みだ、行いではない。信仰は聞くことだ、律法の業ではない。このパウロの叫びをしっかりとこの朝心に刻みたいと思うのです。
 そしてもう一つの理由、それは1節で「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」と語られていることに示されています。ガラテヤの人々がはじめに聞いた福音の言葉、それはパウロが語った言葉です。ではパウロが彼らに語ってきた福音の言葉とは何か。それは「十字架につけられたイエス・キリスト」だというのです。これはパウロの福音宣教の核心でした。Iコリント1章23節。「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」。2章2節。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」。このように記されている通りです。パウロの宣教を言葉を通して示されたこと、はっきりとそれこそ目で見るようにして示されたこと、それが私たちを罪から救うために、私たちの身代わりとなって十字架につけられたイエス・キリストのお姿であったのです。それなのに、そのキリストの死を無意味とするような、その恵みを無駄にするような振る舞いに落ちていく人々に対してパウロの怒りは燃え上がったのでした。
 受難週を迎えるこの朝、私たちは今一度、この十字架の主イエス・キリストのお姿をこの目で見るようにして、キリストの福音の言葉を信仰をもって聞きたいと思うのです。信仰とは神の語りかける愛の言葉、キリストの十字架を通して示された愛の語りかけの言葉を全身全霊をもって聞くことです。「十字架につけられたイエス・キリスト」とは直訳すれば「十字架につけられたままのイエス・キリスト」ということです。キリストの十字架はあの二千年前の人々のためであっただけでなく、今日の私たちのためでもある。この事実を深く心に留めながら、この朝、十字架のイエス・キリストを信じる信仰をもって御言葉を聞く、福音の説教を聞く。ひたすらに心を傾け、聖霊を求めつつ聞きたいと願います。

 

 



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