朝拝(ガラテヤ書講解11) 2007/03/25
『神の恵みを無にしない』

ガラテヤ2:17-21

 この朝は、「キリストが私のうちに生きている」というパウロの語った言葉を通して、神の恵みに生きることの許されている幸いを御言葉から受け取って行きたいと思います。

(1)三つの「もし」
今日もこうして皆さんとともに主を礼拝するために教会に集まってくる。いつもの道を通って、いつものようにこうしてこの場に集うことができる。当たり前のようなことのようでありながら、しかしこれは決して当たり前のことではないなあと思います。今日も命を与えられ、礼拝に来る健康が与えられ、全く何の妨げがないとは言えないにしても、こうして礼拝の自由が与えられて今日の日を迎えられていることの幸いを思います。今この時も戦火の中にある人々、病いの床にある人、臨終を迎えようとしている人々、様々な迫害や困難と闘っておられる人々があることを思うとき、なぜ私はこうして今日も生かされているのだろうかと問わずにはおれません。今、私が生かされている意味を問う。これは私たち人間の最も深い問いの一つであると言えるのではないでしょうか。そこで今日の御言葉を開く時、私たちの心に迫ってくるのは使徒パウロの言葉です。20節。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」。いま私が生きているのは、御子を信じる信仰によって、とパウロは語るのです。これはなかなか口にすることの難しい言葉ではないかと思います。とりわけ人生を長く生きれば生きるほど、私が今こうして生きてきたのは、私の努力、私の忍耐、私の決断、そのように言いたい気持ちが起こってくるのではないか。人の前に見せられるようなものではないと思っていても、自分で自分の人生を振り返る時、自分の為してきた業績、積み上げてきた財産、広めてきた名声、そういったものを見て密かに満足を覚えるということがあるのではないかと思うのです。信仰の世界ですら「私の信仰」を誇るという思いが出てこないとは限らない。
 しかしそういう自分自身を誇る気持ち、自分自身を正しい者、義なる者としようとする思いについて、パウロはここで三つの「もし」という言葉をもってそれらをきっぱりと退けるのでした。17節。「しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にあり得ないことです」。18節。「けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです」。そして21節。「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」。ここでパウロが言わんとしていることをまとめて言えば、第一に、ユダヤ人が律法の外にいるという理由で罪人呼ばわりする異邦人が、律法の行いによらず、ただ主イエス・キリストを信じる信仰だけで義とされ、救われるとするならば、律法の外にいる罪人を赦すキリストは罪人を作り出す助けをしているのではないかということ。第二に、そういうわけでもはや律法は救いに必要がないといっておきながら、その律法をなお要求するならば、それは一度自分で壊した建物をまた建て直すようなものではないかということ、そして第三に、これが結論ですが、義が律法によってもたらされるなら、つまり救いが私自身の行いによって成し遂げられるなら、イエス・キリストの身代わりの死は無意味になるではないかというのです。先週のあの裁判官のたとえを思い出してみてください。自分で自分の負債を返せるなら、裁判官の一人息子の身代わりの死は無駄死にとなるのです。けれどもこれらはすべて「もし」という仮定の話だとパウロは言うのです。では現実はどうなのか。果たして私たち人間は自分で自分を救うことができるのでしょうか。パウロの答えはその点についても明確です。

(2)キリストにある「今」
 19節。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました」。20節。「私はキリストとともに十字架につけられました」。自分の力では自分を救えない。律法の要求を私は満たすことができない。私はキリストとともに死んだ、とパウロは言うのでした。そういう決定的な時を経た今、パウロは自分が今こうして生きていることの現実を見出すに至ったのでした。それが冒頭でも読んだ次の御言葉です。20節後半。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」。私は今、キリストとともに生きている。キリストが私のうちに生きておられる。ある人はこの御言葉を何かしらパウロが神秘的な体験を通して受け取った特別な知識だと理解します。確かにこういったキリストと自分自身が一体となるような深い信仰の経験というのは神秘的で特別な事柄のように思えます。事実、中世の時代、カトリックの修道の生活においてはこの神との一体化ということは修道生活の最高の境地でしたし、東方教会の伝統においては、「神人合一」というのが救われた者の最高の到達点だとされたのです。仏教的な悟りの境地とも繋がるような思想家も知れません。我も彼もない、神秘的な一体化ということです。けれどもよくよく自分自身の歩みを振り返りながらこのパウロの御言葉を味わってみると、このことは決してパウロの神秘的な特別の経験ということでなく、主を信じた者にとっては実は誰もが経験し、納得している言葉ではないでしょうか。今、こうして私が生かされている。かつて主イエス・キリストと出会う前は自分の力で生きてきたと思っていた私の人生が、ひとたび主と出会った時に神を無視して生きてきた生き方そのものが罪であったことを知らされ、自分で自分を救うことができない人間の限界を悟り、主の御前に全面降伏して救いを受け取り、罪赦されて神の子どもとしていただいた。そのことを振り返るならば「いま私が生きているのは、もはや自分の力によるのではない。キリストが私のうちに生きていてくださるからだ」というほかない、そういう圧倒的な恵みの事実に気づかされるのです。そういう意味で、「あの人生の、あの地点で私が私のために生きる人生は終わった。あの時から、私の人生はキリストとともに生きる人生、キリストのために生きる人生に変わった。そうして今もキリストとともに生かされている。キリストが私のうちに生きていてくださる」と言うことのできる人生はどれほど幸いかと思うのです。
 つい先日のこと、お昼を食べておりましたら電話が鳴りました。家内から変わって電話口に出ると一人の男性の方が公衆電話からだといって話し始められました。どうやら公園で寝泊まりを続け、どうにもならなくなって電話帳で教会を調べて来られたのですが、以前に教会に行ったことがあるらしく、私の知っている牧師の名を出して、この先生にもお世話になったと言い、とにかく教会に行ってもいいかというので、とにかく来なさいと言って迎えました。こういうことはよくあることで、牧師の中では絶対にお金を渡してはいけないという考えもあるのですが、ともかく教会に断られたら次はないだろうと思って、騙されたふりでもいいので、いつも少しだけ食べ物や食事代を渡すことにしています。今回もそんなことだろうと思ったのですが、とにかくタクシー代もないというので代金を支払い、一時間ばかりひとしきり話を聞いて寿町まで行くというので電車賃と食事代を持たせて送り出したのですが、会堂でその方の話すこれまでの過去の話を聞きながら、最後に「こんな自分でもキリスト教の神さまは救ってくださるのですか」と問われたので、はっきりと「イエス様を信じるなら、どんな罪でも赦されて、新しくされますよ」と申し上げました。ぜひ教会に繋がってほしいと思いながら送り出したのですが、もし主が「あなたの過去の償いをしたら救われます」、「きちんと定職について奉仕や献金をするようになったら救われます」。「毎日正しいことを一年間やり続けたら救われます」というお方であったなら、その人だけでない、この私も救われることはないであろうと思うのです。でも、こういう方々と向き合っていると、自分の中に「牧師をしている自分だから救われる」とか「キチンと毎日働いて生活をしている自分だから救われる」というような何とも嫌らしい思いが心の奥底にうごめいている自分に気づかされ、悔い改めさせられるのです。実はそういう自分こそ、己れを義とする律法主義者なのではないかと恥じ入らせられるのです。しかし、自分もまた同じ罪人の一人として、なんら自分自身の何ものによることなく、ただキリストによって罪赦されて生かされている。そのことをいつも心に刻んでおきたいと思うものです。

(3)神の恵みを無にしない
 最後にパウロの次の言葉に聞いておきたいと思います。21節。「私は神の恵みを無にはしません」。かつての自分、すなわち自分で自分を正しい者として生きていた私が、それが最大の罪であったことを知らされ、その罪の中に死んでいた自分に気づかされ、そして今の自分、すなわちキリストの十字架による身代わりの死によって罪赦され、今、このキリストとともに生かされている、いやキリストが私のうちに生きていてくださるという圧倒的な恵みの現実に気づかされた時、自ずからそこで自分自身の「かつて」と「今」がもたらす「これから」への道筋、未来への道筋が開かれてきます。それは与えられた神の恵みを無駄にしない生き方、今こうして生かされていることを感謝して日々を主にささげて生きていく生き方です。主によって救われた私たちはもはや自分自身の人生を決してちっぽけな人生、つまらない人生と言ってはなりません。どんなに人から見て出遅れた人生、遠回りの人生、貧乏くじばかりの人生、日の当たらないような人生、でこぼこだらけの人生、損な役回りの人生と思えても、また現実にそうであったとしても、それでも私たちは私たちそれぞれ主によって与えられた人生を決して捨て去りはしないし、無駄にもしない。それは主の身代わりの命によって買い取られたかけがえのない価値ある人生だからです。 この点でパウロの生き様に大いに学んでおきたいと思うのです。彼はそうやって主の恵みを本当に深く味わい知った人物なのだと思います。本当に神の恵みを知り、その恵みによって生かされた人は、恵みを決して無駄にはしない。この恵みを一度知ってから再び主を離れて、かつての古い自分に戻ろうなどと言うことはあり得ないことです。ぜひ皆さんにもこの恵みの価値をますます知る者となっていただきたい。そして恵みを無駄にするこがないように。主が御自身の真実によって私たちを救いの恵みに入れてくださったのに、なお自分の行いで自分の義を打ち立てようとするようなことをせず、ましてこの救いから離れることなく、与えられた救いの恵みの価値をよく知って、この恵みに生きていっていただきたいと願います。次週から受難週を迎えるこの朝、この恵みのために支払われれた主イエス・キリストのいのちの代価の重みをしっかりとこの身に覚えつつ、恵みから恵みへとその価値にふさわしく歩んでまいりたいと願います。

 

 



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