朝拝(ガラテヤ書講解10) 2007/03/18
『キリストが私のうちに』

ガラテヤ2:15-16

 この朝は、ガラテヤ書の中心的なメッセージである、信仰によって私たちを義としてくださる救い主イエス・キリストの御真実について御言葉から教えられたいと思います。

(1)ユダヤ人か、異邦人か(v.15)
 この二年間、毎月一度火曜日の午後に親しい牧師たちが集まって宗教改革の歴史を学ぶ勉強会を続けてきました。先週でその学びが終わり、4月からはまた新しいテーマについて学び始めるのですが、ルターやカルヴァンをはじめとして何人かの改革者たちの歩みを辿って来る中で、あらためて教えられ、確認させられたのが「救いは神の恵みによる」という一つの事実でした。結局、宗教改革者たちが熱心に懸命に語り続けたことは、この一つのことであったと言ってもよいのではないかと思うのです。しかしそれは決して彼らが何か自分たちで編み出した理屈ではなく、むしろ彼らが地道な聖書との取り組みの中で聞き取ってきたまさしく福音の真理の言葉であったのです。宗教改革者マルチン・ルターはガラテヤ書の講解の中でこう語っています。「もしあなたが救われたいと願うならば、救いは行いによっては来ない。神がそのひとり子をこの世に送って、われわれが御子によって生きることができるようにしてくださったのである。御子はあなたのために十字架につけられ、死んで、ご自分のからだをもってあなたの罪を負ってくださった。・・・神は御言葉によって、ご自分が恵み深い父であることを啓示された。すなわち、われわれは何も勝ち取ることができないので、われわれの功績なしに、われわれに無代価で、キリストのゆえに罪の赦しと義と永遠の命を与えようとなさったのである。神はその賜物をすべての人に無代価で与えてくださる方であり、これこそ神が神であることへの賛美である」。まさに今日の御言葉が私たちに語りかけていることはこのことなのです。
 15節。「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」。14節終わりの欄外中にあるように、先週見たアンテオケでの衝突の際のペテロに対するパウロの厳しい叱責はそこまでとし、この15節からはパウロが今この手紙を読んでいるガラテヤの読者に改めて語りかけている言葉として読むことができます。ここでまず私たちはパウロが「私はユダヤ人であって異邦人のような罪人ではない」と語る言葉に戸惑いを感じるのではないでしょうか。これまで一貫して異邦人の立場から語ってきたパウロが急に自分をユダヤ人の側に置いて異邦人を罪人呼ばわりするとはどういうことかと思うのです。ここでの言葉は当時のユダヤ人たちが持っていた一般的な異邦人への理解を取り上げて、敢えてパウロがそのような人々の言い分に沿った言い方をしていると考えることが相応しいでしょう。ユダヤ人たちは自分たちの律法の外にある人々を罪人としていたのであり、その理解に立てばなるほど異邦人は罪人呼ばわりされる存在だというわけです。しかしパウロはそこから、そのようなユダヤ人たちの理解とそこに潜む自分たちこそ正しい者、義人だとする高慢な態度を逆手にとって、ではそのように律法の枠の中にあって律法を守っていれば救われるのか、という本質的な問いを投げかけるのでした。

(2)行いか、信仰か(v.16)
 16節。「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」。パウロの結論は明快です。「人は律法の行いによっては義と認められない。律法の行いによって義と認められる者はひとりもいない」。これはユダヤ人たちからすれば実に衝撃的な発言でしょう。まさに自分たちの拠り所としている律法について、しかも律法に関しては並の人以上の知識を持ち合わせているパウロが、律法では救いはないと断言しているのです。さらにパウロは続く19節でもこう言います。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました」。ここでパウロは公に律法に対する訣別を宣言しているのです。
 ここであらためて二つのことについて説明をしておきたいと思います。一つは律法をどう理解するかということについて、今一つは「義と認められる」ということの意味についてです。すでに私たちは昨年から今年にかけて出エジプト記20章の十戒について学んできました。そこで教えられたことを少し振り返っておきますと、十戒に代表される旧約聖書の戒めは神が私たちにこれを守るようにと与えられたものですが、人は実はそのどれ一つとして守り行うことができない者でした。ならば神はどうして人間が守ることもできないような難しい戒めを与えたのかということになるのですが、それがこの後ガラテヤ書3章で学ぶことになることで、結論を先取りすると3章23節、24節に「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへと導く養育係となりました。私たちが義と認められるためなのです。」とあるように、私たちが律法を守ることのできない己れの罪を認めて救い主キリストを求め、このお方のもとに行くための導き手、養育係だというのです。ですからこの自分の罪を認めず、自分では律法を守っており、それによって自らを正しい者、義なる者とするのがいわゆる律法主義なのです。
次に「義と認められる」ということの意味についてですが、パウロはこの16節で「義と認められる」という言葉を肯定、否定の両方で繰り返し語っています。この言葉は本来は法廷における無罪宣告を意味する言葉でした。つまり私たちは神を裁判長とする法廷に被告人として立たせられて、神の戒めを守ることができず神に背いて生きてきた罪についての償いを求められているのです。私はそこで一生懸命に自分の行いを示して自己弁護をするのですが、裁判官はそれをもっては償いにはならないと断じます。そうすると私たちは自分の罪を償うことのできないために神の裁きとしての永遠の死に服さなければなりません。ところが、そこにある人が現れて、私たちの代わりにその裁きを引き受けて、身代わりの死を遂げてくださり、私の負債をすべて肩代わりしてくださった。裁判官はそれを見て、私の罪がその一人の人の身代わりによって償われたことのゆえに、私に対して無罪を宣告してくださり、私を正しい者と認めてくださった。私はただただ呆気にとられ、驚くばかりであったのですが、実はその私の身代わりとなったのが、裁判官の一人息子だったというのです。裁判官は実は私を心から愛し、憐れんで何とか私をその罪から救い出したいと願ってくださった。しかし裁判官は正しい方ですから、法の裁きを曲げることはできない。そこで裁きを下すとともに、その身代わりとして自分の愛するひとり子を差し出して、その裁きに服させ、その命を捨てさせてくださったのです。こうしてこの裁判官の愛とその一人息子の身代わりによって、被告である私は何の行いにもよらず、ただただその愛と憐れみによって罪が赦され、正しい者と認められ、無罪宣告を受けることができたのでした。この裁判官こそが父なる神であられ、その一人子こそが私たちの罪のために十字架に架かられた御子イエス・キリストであられるのです。

(3)私の力か、キリストのおかげか
 このように一方では、律法によっては義と認められない、私たち自身の行いによっては救われないという罪の現実があり、その一方で、この罪人の私のために御子イエス・キリストの十字架という恵みの現実があることを知った今、では私たちはいったいどうすればよいのか。その信仰の決断が迫られてくることになります。そこで16節の御言葉にもう一度聞いておきたいのです。ここには同じような言葉が繰り返されているのですが、しかしその中で最も大切な言葉、最も中心となる言葉は「私たちはキリスト・イエスを信じた」というこの一つの言葉です。結局のところ、つきるところ、私の救いはキリスト・イエスだ、という確信に満ちた言葉です。私の行い、私の誇り、私の何々、などというものはもはやすべてが消え去ってしまうほどのキリスト・イエスの大いなる愛に対する全面的な降伏の言葉です。しかし肝心なことは、どうやってキリスト・イエスを信じたのか、ということでしょう。ここがはっきりしなければ、またしても「行いによって」という同じ問題に堂々巡りしてしまうことになります。そこで最後にこの点について考えておきたいと思いますが、そこで注目すべき言葉が16節で繰り返される「キリスト・イエスを信じる信仰」、「キリストを信じる信仰」という言葉です。この言葉、直訳すると「キリスト・イエスの信仰」というようになり、この「の」をどう理解するかが大きな鍵となってくるのです。さらに「信仰」という言葉は「真実」とも訳せる言葉で、通常はこの「の」を目的を意味すると理解して「キリスト・イエスを信じる私たちの信仰」と考えるのですが、もう一つこの「の」を所有あるいは主格と理解すると「キリスト・イエスご自身の真実」とも理解することができるのです。
 もし前者のように考えるならば、ここでパウロが鋭く比べているのは救いに必要なのは私たちが行う律法の「行い」か、私たちが信じるキリストへの「信仰」かという、人間の側の主体的な決断のあれかこれかというということになります。後者のように考えるならば、パウロがここで問うているのはあらゆる意味での人間の営みか、それとも全面的なキリストの真実かということになるでしょう。つまり神か人かという究極の選択となるでしょう。これはどちらかが正しくてどちらかが間違っているということではありません。律法の行いによらず、キリストを信じる信仰によって、という時にも、パウロがエペソ書2章8節で「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」と語るように信仰をも恵みとして賜ったということがあるのです。けれども同時に律法主義の縛りはそういうところにも時にずけずけと入り込んできて私たちの手足を縛ろうとするものであることも確かで、時には主を信じる信仰が、信じるという行いによる義にすり替わることさえ起こりうるのです。私が一生懸命信じているその信仰のゆえに、となってくると、祈れなくなったり、礼拝に集えなくなったり、信仰のスランプに陥るとたちまち自分の救いを疑ってみたり、救われてなお罪を犯す自分が情けなく思えてきたり、他人の信仰と自分の信仰を比べて一喜一憂したりということが起こってくるのです。けれども、ぜひこの朝皆さんに覚えていただきたいのは、私たちがキリスト・イエスを信じたのは、私の何らの行いによったのではないのはもちろんのこと、私がキリストを信じているその信仰の強さとか、熱心さとか、長さとか、思い入れの深さとか、奉仕の数とか、献金の額とか、そういうことによるのではない。ただただキリスト・イエスの御真実と御愛のゆえであり、それによって私たちの弱く、不確かでおぼつかない信仰の歩みを忍耐強く愛を持って支え、導き、ともに歩んでくださる主の慈しみによるのだということです。だから安心してよいのだということなのです。そうでなかったらどうして私たちはこの生涯を主とともに歩み続けることができるでしょうか。だから私たちは日ごとに祈るのであり、御言葉に聞くのであり、礼拝に集い続けるのです。それは私たちの信仰の行いではない。おつとめではない。それはまさに私たちが生きるにも、死ぬにもただ一つの慰め主なる主イエス・キリストの御真実によって支えられ、担われ、養われ、生かされて、愛されてあることの確かな証しであり、キリストが私のうちにあって私を生かし続けてくださるただ一つの道筋なのです。

 


 



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