朝拝(ガラテヤ書講解9) 2007/03/11
『福音の真理に向かって』

ガラテヤ2:11-14

 この朝は、パウロがかつてアンテオケで経験した一つの事件について語る言葉を通して、人を恐れず、神の御前にあって福音の真理に向かってまっすぐに歩む信仰者の姿について、ともに御言葉から教えられたいと思います。

(1)アンテオケでの衝突(v.11)
私が神戸で学んだ最後の一年半、六甲にある神港教会で教会生活を送っていましたが、その教会を戦中から戦後にかけて牧会された田中剛二という牧師がおられます。田中先生は日本でカルヴァンの伝統にたっていわゆる連続講解説教を続けられた方として大変知られた先生ですが、先日ある論文の中で田中先生が戦時中、在日朝鮮の方々の教会を兼牧しておられた時の一つのエピソードを目にしました。当時、日本の帝国主義政策によって植民地化された朝鮮半島の人々が多く日本でも生活していたのですが、名前も日本風に変えられ、言葉も日本語を強制され、教会でも母国語で祈ることや説教をすることが禁じられていたそうです。日本人は彼らに対して根深い差別意識を持っており、教会の多くも彼らに対して一概に冷ややかな態度に終始していたようですが、そんな中で田中牧師が神戸にある在日の方々の教会を兼務し、その群れのために大変心を砕いて奉仕しておられた姿がそこに記されていました。特に心に残ったのが、ある夜の祈祷会で、特高警察の目がどこに光っているか分からないような状況の中で「私が責任を持つから自分たちの言葉で祈りなさい」と言って、彼らに母国語で祈りをささげさせたというエピソードでした。それまでは親しく交わりをもっていた多くの日本の教会が次第に彼らから距離を置き始めていく中で、自分が責任を持つから、といって母国語での祈りを勧めた田中牧師の姿に、主にある本当に真実な教会の交わりの姿を見ることができるように思います。
 今日の御言葉は、引き続きパウロが自分の回心後の宣教活動について振り返りつつ語っている場面ですが、しばしば「アンテオケでの衝突」と言われる、パウロとペテロの間の難しい問題についての出来事が記されていきます。11節。「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました」。ここに大変驚くべきパウロの証言が飛び出してきます。先週私たちはあの使徒15章に記されたエルサレム会議の様子と、そこで異邦人キリスト者にはもはや割礼などの律法の行いは必要ないこと、ペテロとパウロの間に宣教の強力の取り決めがなされ、互いに手を握りあってユダヤ人宣教と異邦人宣教の使命を尊重しあうことになったという経緯を見てきたのですが、今日の箇所ではそんな彼らの協力関係に亀裂が生じるような重大な出来事が起こったと記されるのです。ことの発端は「ケパ」すなわちペテロがパウロが牧会する異邦人教会であるアンテオケ教会を訪問した時のことでした。これについては使徒の働きでは言及がされていませんが、恐らく使徒15章のエルサレム会議から第二次伝道旅行出発までの間に起こった出来事と考えられます。すでに11章の終わりで誕生したばかりのアンテオケ教会が当時大飢饉に見舞われていたエルサレム教会に救援物資を送った記録がありますので、そのお礼をかねた訪問ということであったかもしれませんが、ともかくそこでのペテロのある振る舞いに「非難すべきことがあった」ためにパウロが激しく怒り、「私は面と向かって抗議しました」というのです。これは人々の面前で真っ向から抗議をするという大変厳しい表現です。一体何がこれほどのパウロの怒りを引き起こしたのでしょうか。

(2)食卓の交わりを巡って(v.12-13 )
 12節、13節。「なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は、異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました」。ここにパウロの怒りと抗議の理由が明らかにされます。それはアンテオケ教会で行われていたユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の共同の食事がきっかけでした。神の家族の愛の交わり、終わりの日にともに主の食卓に着くことの希望、そして教会の一致の表れとして、教会は古くからともに食事をする愛餐の時を重んじて来ました。特にユダヤ人と異邦人が一つの群れに連なるアンテオケ教会では、皆がともに食事の交わりに加わることを通して、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もないという福音の持つ豊かさが鮮やかに示される場でもあり、ペテロもこの食卓の交わりに加わったのでした。
 ところがその麗しい食卓の交わりに問題が持ち上がったのです。エルサレム教会からユダヤ人キリスト者たちがアンテオケにやって来たのを機に、それまで親しく食事の交わりに連なっていたペテロが、途端にその交わりから離れ始めたというのです。つまり共同の食卓にある亀裂が生じたのでした。たかが食事のことでと簡単に片付けることはできません。そもそもユダヤ人にとって「食事」というのは割礼同様に律法の規定に深く結び付いており、旧約聖書の中にも食物に関する規定は数多く見られます。それらはいずれも神の民としての「聖さ」に関係しており、汚れた食物を食べる異邦人もまたそこでは汚れた者と見なされていたのであって、彼らと同じ食卓に着くこと事態が汚れた行為であったのです。従ってエルサレムから来た人々が、ペテロが異邦人と食卓をともにしていることを問題にしたか、あるいはペテロ自身がユダヤ人たちの視線を敏感に感じ取って自ら距離を置くようになっていったか、ともかくそれまでの親しい交わりから急に態度を変えて、自分は彼らとは関わりがないとでも言いたげな態度をとるようになったというのです。ここで「偽った行動」、「偽りの行動」と言われるのは、振る舞いと本心が離れていること、本心を隠してうわべだけ演じること、うわべだけは親しさを装っていながら、本心では周囲の顔色をうかがい、その風向き次第ではすぐに自分の態度を変えるという変わり身の早さ、首尾一貫しない生き方のことです。それにしてもここでのペテロの本心はいったいどのようなものだったのでしょうか。本当は異邦人とともに食事をしたいのに、ユダヤ人から異邦人と同じと思われることを恐れて離れていったのか、それとも、もともと異邦人とは食事をしたくなかったのに、ユダヤ人たちに異邦人と同じと思われることを恐れて離れていったのか。もし前者であれば福音によって新しい人にされているにもかかわらず、古い価値観によってなお人を恐れて生きているということになります、後者であれば、いまだ古い価値観の中にあって新しい人として乗り越えるべきハードルの手前にいるということになるでしょう。しかしペテロはすでに原理的には異邦人の救いに対する神学的確信は持っていますので、問題は頭で理解していることが実際の生きることに繋がっていないということなのです。ここには様々な意味でペテロの持つ弱さが表れていると言えるでしょう。人を恐れて態度を変えるペテロ、それはあの湖の上を歩く主イエスに招かれて同じようにガリラヤ子の水面を歩き始めたものの、風を見て怖くなり、主イエスから目を離しておぼれてしまった時の姿であり、また主イエスのためなら死ぬことさえ覚悟はできていると大見得を切ったものの、いざとなると「あなたはあいつの仲間だろう」と問われて「あんな人は知らない」とあっけなく三度も主イエスを否んだあの無残な姿です。さらにこの時のパウロの心を痛めたのはペテロの変わり身ぶりを見て、その他のユダヤ人キリスト者もこれに続き、ついにはバルナバさえも食卓の交わりから離れていったという事実です。もしかするとパウロにとってはペテロよりもバルナバの行動の方がよほど堪えたかも知れません。異邦人キリスト者のためにともに労し、彼らが律法からの自由を勝ち取るためにエルサレムまで出向いたバルナバまでもがと、パウロの怒りと失望、落胆ぶりが伝わってくるような表現です。その最も深いところにあったのは、キリストの福音がもたらす自由とは全く正反対の、人間に対する恐れにとらわれている人々に対する怒りでありました。しかしこの朝、私たちが立ち止まって考えておきたいのは、そんなペテロ、そんなバルナバを私たちは簡単に責めることができるだろうか、ということです。これは本当に私たちの心の深いところを探られる御言葉ではないかと思うのです。果たして人々の前で私たちは本当に首尾一貫した生き方を貫くことができるのでしょうか。またそのような生き方を貫くためには何が必要なのでしょうか。

(3)福音の真理に向かって(v.14)
 その答えを得る手がかりが次の14節の御言葉にあります。「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。『あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか」。ここでパウロはこのペテロやバルナバの姿勢を「福音の真理についてまっすぐに歩んでいない」と断じていますが、この言葉、新改訳の欄外注のように訳せば「福音の真理に向かってまっすぐに歩む」という表現になります。ガラテヤ書でパウロがペテロに対する非難の言葉をそのまま記すのには、この出来事をガラテヤの読者に伝えようとする強い意志の現れを感じさせます。パウロがペテロを公然と非難する。それは人を恐れて態度を変えた人々とは全く対照的な毅然とした姿です。それはこの一件が「福音の真理」に関わる問題であったからでした。パウロに言わせれば、ペテロの振る舞いは異邦人キリスト者に対して彼らが割礼を受け、律法の諸規定を守り、ユダヤ人のようになることを強要するものだ、ということです。それはパウロの言い過ぎでペテロは単に食卓から身を引いただけという反論があるかも知れません。けれども異邦人キリスト者の側に身を置いて考えてみれば、その言い分は通らないでしょう。彼らにしてみればペテロたちの行動からほとんど直感的にと言ってよいほどにユダヤ人キリスト者からの差別を感じ取ったでしょうし、言いようのない孤立感を味わったことでしょう。何でもないことと思える振る舞いの中に、実はどんなに隠そうとしても隠しきれないその人の本心が露わになることは信仰の営みにおいてもあり得るのであって、それによって知らず知らずのうちに、ある人々をそれによって教会の交わりから疎外していくことさえあるということを知らされるのです。
 ともかくパウロの目にはペテロの行動は福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないと映ったのでした。理屈の上で言葉の上でどれほど異邦人の救いを認めても、他方で彼らとともに食事をしないというのは、結局は福音の真理が本当に分かっていないのだというのです。これは大袈裟な論理でしょうか。決してそうではありません。そもそも福音の真理とは、私たちの日々の営み、その生き方においてこそ真の姿を現すのであって、主イエス・キリストの贖いによって罪赦され、神の子とされ、この福音によって新しくされたということは、私たちの日々の生活が変えられていくことと決して無関係ではないのです。いや、むしろキリストの福音によって新たにされたという事実が、日々の食卓という日常性の極みのような地点まで貫かれてこそ、私たちの間に福音の真理があることを何よりも力強く証しされるのです。地上を歩まれた主イエス・キリストは、進んで罪人や取税人とともに食卓に着かれました。そして「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。私たちが主イエス・キリストの食卓に招かれたのは、ユダヤ人になるためではなく、むしろ私たちが主イエス・キリストのものとされていくためです。それが「福音の真理に向かってまっすぐに歩む」ということでしょう。それは主イエス・キリストにあって信じる道を、人を恐れずに歩むことのできる自由な歩みです。主イエスによって賜った救いと、その救いへの信仰を誰をも恐れることなく、大胆に、確信をもって告白できる自由です。何にも縛られずに、何にも捕らわれずに、ただ主イエスだけに捕らえられた者として、主イエスから目を離さずにこの道を全うさせていただきたいと願います。


 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.