朝拝(ガラテヤ書講解8) 2007/03/04
『キリストにある自由』

ガラテヤ2:1-10

 この朝も引き続いてパウロ自身が自らの救われてからの歩みを振り返って語る言葉を通して、キリストにある自由に基礎を置いた教会の一致ということについて、ともに御言葉から教えられたいと思います。

(1)再びエルサレムへ(v.1-2)
 宗教改革の時代、教会の一つの合い言葉のようにして掲げられた言葉に、「教会は御言葉によって絶えず改革され続けなければならない」という言葉があります。そこでの改革とは、絶えず終末の完成を目指す新しさに向かって行くという方向とともに、絶えず本来あるべき姿に立ち返っていくという方向をも持っていました。中世の時代の、形骸化し、生きた信仰を失っていった教会を目の当たりにした宗教改革者たちが何とかして主の教会を改革しようと奮闘した時に願った教会の本来あるべき姿とは、とりもなおさず聖書が教える教会、使徒の時代の教会の姿だったのです。聖書的な教会、使徒の時代の教会、そこに教会の本来あるべき姿を見つめて、彼らは熱心に聖書を学び、それを紐解き、現実の教会形成に熱心に取り組んでいったのです。しかし彼らは決して聖書に描かれた教会の姿を理想化し、完全なものとして見たわけではありません。実際に聖書を開く時、そこで私たちが目の当たりにする教会の姿は実に様々な問題を抱え、分裂の危機に瀕し、異端の教えに揺さぶられる姿です。ですから改革者たちは地上の教会を「戦う教会」と呼んだりもしたのです。今日取り上げる御言葉も、そのような分裂の危機に瀕した教会が、どのように主にある一致を建て上げて言ったのかを語るところです。
 1節、2節。「それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私が宣べ伝えている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした」。ここでパウロが振り返っている出来事は、最初のエルサレム行きから十四年後の二度目のエルサレム訪問のことであり、使徒の働き15章に記されたいわゆる「エルサレム会議」のことを指していると考えられます。使徒の働きによると、11章でシリアのアンテオケに最初の異邦人教会が建設され、パウロ、バルナバの指導のもとに素晴らしい教会形成が行われていたのですが、そこにエルサレムからユダヤ人キリスト者たちがやって来て、異邦人キリスト者たちに律法が定める割礼の儀式を求めるという事件が起こりました。異邦人とはいえすでに救われた者になお律法は必要なのかという問題をきっかけにして、やがてはそれがユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの大論争となり、教会が民族的な対立によって二分されかねない危機が生じたのです。そこでこの問題の解決のために召集されたのがエルサレム会議でありました。この会議にパウロはバルナバとテトスを連れて異邦人教会の代表として出席しました。そこで取り上げられるのは異邦人キリスト者の割礼問題の処理、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の対立の解消という現実的かつ具体的な課題なのですが、パウロはそれらを単なる人間同士のトラブルとは捕らえず、一貫して信仰の問題、福音の本質に関わる重要な問題として捕らえています。そこでパウロは「異邦人の間で私の宣べ伝えている福音」、すなわち律法の行いによるのではなく、ただ神の恵みによりキリストへの信仰よって救われる恵みの福音、ユダヤ人だけでなく異邦人にも分け隔てなく与えられている福音、そしてその宣教のために自らが召されている福音について「人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました」と語るのです。それは「おもだった人たち」すなわち後の9節に「柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ」らに対して「私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした」と自分の宣べ伝える福音がそうであるように、彼らが語っている福音も異邦人に律法を要求するようなものではないことを確かめるためでした。もし自分が異邦人に必死に恵みの福音、行いによらず恵みによる救いの福音を語っても、肝心のエルサレム教会がそれと違っていまもなお律法が必要だと語っているならば、自分の宣べ伝える福音が無駄になってしまう。そんな思いから出たパウロの行動と言えるでしょう。それは決してパウロの自己満足のための行動ではなく、パウロを通して福音を聞いて信じた人々の救いの問題であるからこそのことであったのです。

(2)割礼問題を巡って(v.3-5 )
 3節。「しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシャ人であったのに、割礼を強いられませんでした」。こうしてパウロはユダヤ人キリスト者の中のいる律法主義的な人々に対して、自らの宣べ伝える福音の正しさを示すためにエルサレム会議に臨むのですが、ここでバルナバと共にテトスを連れて行った理由が明らかになります。パウロはこの会議のテーマが異邦人キリスト者の割礼問題であることから、敢えて異邦人キリスト者でありパウロの協力者であったテトスを連れて行くことで、このテトスになお割礼を要求するようなことが起こるのかによって今後の異邦人キリスト者に対するエルサレム教会の態度を見極めようというのでした。結論から言えばテトスに割礼が強制されることはなく、これをもって異邦人キリスト者たちの存在が認められ、ひいては異邦人に宣べ伝えられた福音の正しさが証しされることとなったのです。しかし実際には、その議論の過程で割礼を求める人々があったことを4節は物語っています。「実は忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです」。パウロはそのような人々を「にせ兄弟たち」と呼んでいますが。勿論彼らも異邦人の救いそのものを否定するのではなく、しかも会議にも出席していたことから、エルサレム教会のメンバーであるのですが、彼らに対して実に厳し言葉を浴びせています。そもそもここでパウロが問題とするのも単に割礼の要不要ということではなく、それを救いのために必要とする彼らの主張に対してでありました。実際、割礼問題をはじめとして律法に諸規定の扱いについてのパウロの態度は、時として実に柔軟です。使徒の働き16章にはパウロ自身が異邦人であった弟子テモテに割礼を施したという記事もあるぐらいで、律法の問題はパウロにとってはイエス・キリストの福音において乗り越えられる問題として捉えられていたことが分かります。つまりそこで一番問題とされているのは「福音による自由ということなのです。ですからこの「自由」を縛るもの、それを強制する者たちに対してパウロが断固とした姿勢で臨むのは、福音によって得られた自由こそが福音の持ついのちだからなのです。そしてパウロはこの自由を「福音の真理」と表現します。5節。「私たちは彼らに一歩も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです」。この時のパウロの心は、過去の回想ではなく、今この手紙を宛てているガラテヤの人々に向けられています。なぜならかつてエルサレム会議で扱われた問題こそが、今まさにガラテヤの教会で起こっている問題なのであり、その中で「ほかの福音に乗り換えようとしている」人々に対して、「福音の真理が常に保たれている」ことこそが必要であるからなのです。

(3)キリストにある自由(v.7-10)
 最後に6 節から10節。「そして、おもだった者と見られていた人たちからは、−彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。−そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けていない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです」。こうしてエルサレム会議が辿り着いた結論は「おもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした」とあるように異邦人キリスト者に割礼を求めることは必要なしということであり、パウロはこの会議を「神は人を分け隔てなさらない」という言葉でまとめています。さらにこの会議はその後の福音宣教におけるペテロとパウロ、エルサレムとアンテオケによる役割の分担という新しい局面を開くことになります。これは単に便宜上のことではありません。それは唯一の神の、一つの御意志に基づく使徒たちへの宣教の委託でありました。ペテロを主にユダヤ人への使徒として派遣される主が、同じようにパウロを主に異邦人への使徒として派遣されるのです。そしてそこにあるのはただ一つの福音、主イエス・キリストの十字架と復活の福音のみです。ここに私たちは教会の一致と多様性の見事な調和の姿を教えられ、またその一致を得るために教会がどのような道を辿ったかを学んでおきたいのです。生まれて間もない教会の対立は、それこそ対処の間違い一つで分裂から存亡の危機を招きかねない一大事だったことでしょう。しかし彼らはそれを強権的な手段によってでなく、妥協的な手段によってでもなく、あくまでも正面切って、信仰的に、誠実に、粘り強く論じあうことでついに信仰の一致に基づく一つの結論に至ったのでした。しかもこの出来事をより積極的に福音宣教の拡大の機会として展開させていくのです。ここに私たちは教会のあるべき一つの姿を見ることが出来るでしょう。互いに教会を思う熱心のゆえに、時に議論が渦巻き、その解決に苦慮することもしばしばです。しかしそれは単にその問題の解決に終わることなく、マイナスをゼロに戻すに留まらず、それをプラスに変えていく力を教会は与えられているのです。このようにして、エルサレム教会と異邦人教会は互いに認めあったことが「交わりの印として右手を差し伸べた」ことによって証しされたのでした。同じ主なる神からそれぞれの使命を託された両者が主にある交わりを結んだことで、一つの主の使命に応える福音宣教の広がり、豊かさ、そればかりか福音宣教という共同の戦いに向かう同志としての交わりが鮮やかに示されたのです。教会の宣教は孤立無援の戦いではなく、ともに戦う教会の交わりもまた、終わりの時に向かって絶えず開かれている生きた交わりであることを教えられます。この戦いの同志としての自覚は、とりわけパウロたちにおいては「貧しい人たちのことを忘れない」と言う点で具体的に覚えられることとなったのです。
 教会の一致は私たちの主義主張の一致、似通った人々の集まりとしての一致、社会的な立場の一致に基づくものではありません。それはただひたすらキリストによって与えられた恵みの福音、自由の福音のゆえに築き上げられていくものであり、それはまた三位一体の神の一致と多様性にならった仕方で互いの違いを認め合い、互いの弱さを補い合い、互いの存在を喜び合い、互いの欠けを担いあっていく交わりです。ですから私たちは教会の交わりが最初からすでにそこにあると考えたり、教会を単純に理想化したりもしないのです。むしろ地上の教会は分裂に至ることもやむを得ないと覚悟するような状況の中で、この福音による一致を互いに信じ、それを求めて忍耐強く粘り強く祈り続け、時には偽教師たちとの戦いすらいとわず、教会に見切りをつけずにこれを愛し続け、仕え続けていく中でこそ、キリストと私たちは次第に堅く結び会わされ、キリストにあって私たち互いもまた深く結び合わされていくことになるのです。このことを心から信じて、キリストにある自由の福音に生かされている恵みを感謝しながら、キリストの教会を建て上げて行きたいと願います。

 



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