朝拝(ガラテヤ書講解6) 2007/02/18
『選び、恵み、召命』

ガラテヤ1:13-17

 この朝は、「かつて」の自分自身の姿を語るパウロの言葉を通して、恵みによって新しく生かされる私たちの人生について、ともに御言葉から教えられたいと思います。

(1)かつてのパウロ(v.13-14)
 私たちはそれぞれ主イエス・キリストに出会う以前の様々な過去を背負って生きています。救われた今となっては感謝とともに振り返ることのできる過去もあれば、思い起こすと今も心が疼くような過去もあり、また今もなお私を縛り続けるような過去もあるのではないかと思います。しかし、主イエス・キリストにあって全き罪の赦しをいただいた私たちは、今、もはやそのような過去からは解き放たれて、新しい存在に造りかえられていると聖書は語ります。礼拝の度ごとに赦しの宣言の中で「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という約束の御言葉を聞く時、本当に私たちは主イエス・キリストの恵みを深く覚え、感謝することができるのです。しかし、その一方で時に私たちはかつての姿をなにかしら誇りとするようなことも起こってまいります。捨てたはずの古い自分を誇りたくなる思いがあるのです。どうやって過去を振り返るかが、どうやって新しい存在として生きるのか、その姿勢を決めるものと言えるのではないでしょうか。そのような問いをもってパウロの言葉に聞いていきたいと思うのです。
 13節、14節。「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした」。パウロが自らの「かつて」の姿を語るにあたって出発点としたのは「ユダヤ教徒」という姿でした。「ユダヤ教徒」という言い方は、律法を基礎とした生き方、考え方の全体を含む幅広い意味の言葉ですが、それでもパウロがかつての自分を「ユダヤ教徒」と呼ぶのは印象的です。なぜなら当時キリスト教は一般的にはユダヤ教の一分派と見られていたからであり、その中でパウロがかつての自分を「ユダヤ教徒」と呼ぶと言うことは、もはや自分がその輪の外にあってユダヤ教とはきっぱりと区別していること、そのような生き方から訣別していることの現れと言えるからなのです。さらにパウロはかつてのユダヤ教徒としての自らの振る舞いを二つにまとめます。それは神の教会への迫害と律法への熱心ということでした。「私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は自分の同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした」とある通りです。ここでこの論じ方の順序についてですが、事柄の順序から言えば、まず律法への熱心があり、それゆえに教会への迫害に走ったと言うべきですが、ここでパウロは自らを教会の迫害者だったと告白するのです。ガラテヤの論敵への言葉ならば、むしろかつての名門ガマリエル門下のエリート・ユダヤ教徒であったことを語る方が説得力があったと思われますが、パウロはそのような仕方で語ろうとはせず、むしろ福音の圧倒的な力が最も鮮やかに示されるために自らがかつてはキリスト教徒に対する迫害者であったとを語るのです。このような過去を持ち出すことは、自分自身の過去の傷、罪を露わにすることであり、決して痛みなしに語ることのできない言葉です。しかしそれでもパウロが語るのは、ひたすら行いによらず恵みによってという福音の恵みが鮮やかに証しされるためなのです。それにしても「神の教会を迫害した」とは大変重い言葉です。ある特定のどこそこ教会を迫害したとは言わないのです。むしろすべての教会、すべての神の教会を迫害したとパウロは語るのです。ダマスコ途上でパウロに現れてくださった復活の主は、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と語られました。すなわち「神の教会を迫害した」ことは、そのままキリスト御自身を迫害していたことなのでした。しかし神の教会を迫害した「かつて」を語ることで、かえってパウロの「今」が、すなわちかつての歩みと訣別され、主イエス・キリストの福音によって新たに生かしめられている「今」が一層鮮やかに映し出されるのです。

(2)選び、恵み、召命(v.15)
 こうやって自らの過去を正しく見据えた時に、そこに初めて映し出されるさらに過去へとさかのぼった神の恵みのみこころをパウロは見出すのでした。15節。「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が」。主イエス・キリストにあって自分のかつての姿を振り返るとき、そこに見出されるのは捨て去られるべき罪の過去を超えて、むしろ神の恵みの選びの中で見つめられる本来のあるべき自分自身の姿でありました。このような自分自身の受け止め方は、旧約の預言者たちの自覚に通じるものです。イザヤ49章1節。「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた」。エレミヤ1章5節。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」。しかし、注意したいのは、イザヤにしてもエレミヤにしても、この神の恵みの選びの事実を知らされたのは、彼らが「我こそは選ばれるにふさわしい預言者」という人間的な自負を抱かせるためではなく、むしろ自分は本当にそのような相応しくないと恐れおののく彼らを説得するためであったということです。イザヤが「ああ私はもうだめだ」と自分の罪に絶望し、またエレミヤが「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と自分の若さに恐れた時、そこで神の選びの恵みが示されたのです。
 このような預言者的な自覚はパウロの中にも息づいています。彼はIコリント15章9節、10節でこう語っています。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値ない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」。あんな私が、神の恵みによって今の私になった。それはただキリストの恵み、ただそれだけによる。これこそがキリスト者の「かつて」と「今」をとらえる唯一の視点でしょう。まさしく振り返ってこそわかる神の選び、恵み、召命の事実です。かつてあのような罪を犯した私が、どうして今このような恵みの立場に置かれているのだろうか。その理由を私自身の中に探しても見出すことはできません。もしそうであるならば、私たちはいつ捨てられるかわからない、いつ愛想を尽かされるかわからない、絶えずそのような不安の中にあるでしょう。それはいわば主人の顔色を見ながら生きる奴隷の姿です。しかし今私たちを今も後もとこしえに支えてくださるのは私の中に何かではなく、神の選びと恵みによる。私たちは今すでに神の子どもとされ、そのような私たちを主は「私はあなたを離れず、またあなたを捨てない」とお約束くださるのです。私たちは神の子である。これが今の私たちの幸いな姿なのです。
 
(3)召命に生きる(v.16-17)
 最後に16節から17節。「異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒に会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました」。ここでは回心後のパウロの行動が記されていますが、このいきさつについては次週以降にも引き続き学ぶことにして、今日は16節の御言葉に集中しておきたいと思います。ここでは15節のパウロに与えられた召し、召命の中身が「異邦人の間に御子を宣べ伝えさせる」ことであると言われています。ここで私たちはパウロの救いが、そのままパウロの召命と結び付いているということに注目したいのです。キリストによって救われた者は、キリストのために生きる者とされる。いやむしろ、キリストのために生きる者となるために、キリストによって救われる。これが召命の物語であります。パウロは、神が「御子を私のうちに啓示することをよしとされた」と言いました。これと通じる言葉がガラテヤ2章20節の「キリストが私のうちに生きておられる」という御言葉です。つまりパウロにとっては、あのダマスコ途上で召命を受けた時から「キリストが私のうちに生きておられる」という人生が始まっていたということなのです。しかも「よしとされた」という言葉は、神の私たちに対する恵みに溢れたよき御心を示す言葉です。私が救い出されたのもただただ神の恵みによったのであれば、その神によって生かされる私たちの人生もまた神の良き御心によって与えられたものです。
 神の恵みの選びによって救われた者は、この神の良き御心に沿って、それぞれの人生に召されて生きていく。それはパウロ一人に起こったことではない。ここにおられる一人一人にもそのようなすばらしい神の恵みのドラマ、召命の物語が起こっているのであり、また今も起こりつつあるのです。そうやって与えられた新しい人としての人生を主イエス・キリストに結ばれて歩み始めるとき、もはやどんな過去も私たちを縛り付けることはない。また捨てたはずの過去を懐かしく誇りとすることもない。誰からも後ろ指さされることもない。本当の意味で、「私が私である」と言い切ることのできる大いなる人生の肯定の中を私たちは歩んでいくことができるのです。生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった神。この神の御名をほめたたえながら、一人一人が召された人生を誠実に歩み続けてまりたいと願います。

 

 



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