朝拝(ガラテヤ書講解5) 2007/02/11
『イエス・キリストの啓示によって』

ガラテヤ1:11-12

 この朝は、私たちを行いによらず、ただ恵みによって救いの中に招き入れてくださる主イエス・キリストの福音の尊さと、この福音を宣べ伝えるために用いられる私たち一人一人の存在の尊さということについて、パウロの語る言葉に耳を傾けていきたいと思います。

(1)兄弟たちよ(v.11a)
 11節。「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう」。これはパウロが手紙を書き送る際に、あらたまって大切なことを語りかける時の言い回しです。同じような言い方は次の手紙の中にも見出すことができます。Iコリント15章1節。「兄弟たち、私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」。IIコリント8章1節。「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います」。パウロの手紙はそれを受け取った教会の礼拝において読み上げられる公的なものであり、今で言う礼拝説教のようなものでもありましたので、ガラテヤの人々もパウロの叱責の言葉に続いて次にはいったい何が語られるのかと、いっそう耳をそばだてて聞いたのではないでしょうか。
しかし、そこで語りかけられる一つの言葉が、聞き手の人々の心にパウロの思いを伝える役割を果たしたのだと思います。それが「兄弟たちよ」という一つの言葉でありました。「あなたがたはキリストの恵みを見捨てて、他の福音に移って行っている」、「もしキリストの福音に反することを宣べ伝える者があるなら、呪われるべきだ」。手紙の冒頭から大変厳しい口調で書かれ始めた手紙です。聞いているガラテヤの教会の人々も、ある程度覚悟はしていたとはいえ、これほどの非難と叱責の言葉の連続に打ちひしがれる思いで聞いていたかもしれません。しかし私たちはこれまで、パウロが単にガラテヤの兄弟姉妹たちを断罪し、切って捨てるためにこの手紙を記しているのではなく、むしろ彼らに本当の福音の恵み、豊かさ、自由さを伝えて、何とか彼らを誤った教えのもとから連れ戻したいという、パウロのガラテヤ諸教会に対する愛の手紙として読むのだということを繰り返し確かめてきました。そのパウロの心が今日の「兄弟たちよ」という言葉に表れて、私たちもそこに愛の手紙としての響きを聞き取ることができるように思うのです。
 「兄弟たちよ」。これは神の家族として結ばれている互いを呼び合う親密な呼びかけの言葉です。それでもあなたは私の兄弟なのだ。そうパウロは語りかけるのです。ガラテヤ書の中で「兄弟たちよ」という呼びかけは3章15節、4章12節、28節、31節、5章11節、13節、6章1節、18節と全部で8回登場しているのですが、パウロの手紙の中で一番多いのはコリント書、次がIテサロニケ、そしてガラテヤ書となっています。単純に数の問題だけではないのですが、コリント教会といえば分裂分派、偶像問題に不品行などあらゆる罪の問題を抱え込んでいた教会、テサロニケ教会は誤った再臨信仰で混乱を来していた教会、そして律法問題で苦しむガラテヤ教会と、パウロは様々な罪や痛みを抱え、問題の渦中にいる教会に宛てて書き送る手紙であればあるほど、「兄弟たちよ」、「兄弟たちよ」と繰り返し語りかけていることが分かるのです。確かに一方では3章1節で「ああ愚かなガラテヤ人」と嘆いているのも事実ですが、しかしパウロのガラテヤの人々に対する溢れてくるような心持ちを示す極めつけの言葉が4章19節の「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」という言葉でしょう。愛をもって真理を語る。彼の語る言葉の激しさ、厳しさの中に、しかし彼らを兄弟よ、私の子どもたちよと呼びかけるパウロの教会に対する愛の心を受け取っておきたいと思うのです。

(2)人間によるものでなく(v.11b-12a)
 11節後半から12節。「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした」。冒頭でパウロは自らが使徒であることの根拠が「人間から出たことでなく、人間の手を通したことでもなく、キリストと、キリストの父なる神によった」と語ったのですが、今度は使徒として宣べ伝えている福音そのものが人によるものでない、神ご自身からのものであることを明らかにします。ここでもパウロは人からか、神からかという二つの極を示すという仕方で、福音がこの世のあらゆる考え、価値観を超えたものであるかを強調しながら語るのです。
 それにしても、なぜパウロはこれほどきっぱりと、イエス・キリストの福音が人間によるものでないと言い切ることができるのでしょうか。その答えの鍵が「私が宣べ伝えた福音」という言葉に秘められています。この言葉、直訳しますと「私が福音として宣べ伝えた福音」、もっと言えば「私が福音した福音」という言葉です。福音を福音として宣べ伝える。このことが決して自明のことでないことを私たちは歴史の教訓から繰り返し学んできました。まことの神と天皇を並べてその前に膝をかがめ、神社参拝は偶像礼拝ではないと語り、教会の祝福を祈願して牧師が神社に詣るということがなされたかつての日本の姿を、特にこの「信教の自由を守る日」の朝に心に刻みたいと思うのです。福音が福音として告げ知らされなければ、宣べ伝えられなければ、それは人間の作り出した福音になってしまう。パウロはそんな思いでこの言葉を口にしているのでしょう。
 さらに「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした」と語るパウロの心には、あの使徒の働き9章に記されたダマスコ途上での回心の経験が思い起こされていたに違いありません。自分自身が福音の圧倒的な力によってその生き方をまったく変えられて、新しい者とされた。この福音の事実に生かされているという実感がパウロの言葉にはこもっています。福音の言葉によって生かされた者だけが、真に福音を福音として語ることができるのです。そもそもただ恵みによってだけ救われる、行いによらない、そんな話はとうてい人間が作り出せるものではありません。むしろ人間が考える宗教はいつも行い、善行、人間の功徳、そういったものを要求するのです。ですから教会の歴史の中でも絶えずこの恵みか行いか、というテーマは議論されてきたのです。しかしパウロが語るキリストの福音は、ただ恵みにより、ただイエス・キリストの十字架を私の罪のためと信じるだけ、それだけで救われるという、本当に驚くほかない恵み、人知を遙かに超えた驚くべきキリストの御愛なのであって、私たちの信仰の確信もまたこれに基づいた「恵みのみ」、「信仰のみ」なのです。
 
(3)イエス・キリストの啓示によって(v.12b)
 「恵みのみ」、「信仰のみ」という確信が行き着くところ、それはすなわち「キリストのみ」という究極の確信です。12節後半。「ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」。人によらず、ただイエス・キリストの啓示によって。これがパウロの一番語り伝えたいところなのでした。しかし、それにしても立ち止まって考えておきたいのは12節の「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした」というパウロの体験に基づく言葉と、前回見た8節、9節の「私たちが宣べ伝えた福音」、「あなたがたの受けた福音」という言葉との関係です。これが教会が受け取り、受け継いできた信仰のことを指していることはすでに見ましたし、パウロもそれを重んじていたことも学んだ通りです。しかしここでのパウロはそのようないわば人から人へと受け継がれてきた信仰の教えの伝統と相対するように「人から受けず、教えられもせず、ただキリストの啓示によって」と語っているのです。それはまさにあのダマスコ途上での光の体験に基づいていると言えるのですが、しかしパウロは自らの宣教する福音の根拠をそのような個人的な特別の体験に結びつけて、あらゆる人間的な関わりを排除して、自分は特別に主からの啓示を受けたのだ、あなたがたが味わったことのない経験をしたのだと主張して、光の中で聞いた復活の主の御声、直接的なイエス・キリストの啓示にすべてを結びつけているのでしょうか。恐らくそうではないでしょう。例えば2章2節にパウロが回心から14年たってエルサレムに上った時のことを「啓示によった」とする表現が出てきますが、これは使徒の働き15章のエルサレム会議のことを指していると考えられており、そこでは異邦人の救いの問題を巡って話し合うために教会がパウロとバルナバがエルサレムへと派遣されていったことが記されています。つまり教会の必要、人々の救いに関わる重大な問題の処理という大切な教会の必要に答えて出かけていくというある意味では人間たちが主の御心を求めて下した判断をパウロはガラテヤ書で「啓示によった」と言っているのです。
 そうすると確かに「啓示」という言葉には、隠されたことが明らかにされる特別な神の語りかけという意味があるのですが、しかしパウロがここでイエス・キリストの啓示による、と語る時、それは福音の伝えられ方の特別さということよりも、その福音の中身の特別さ、福音の本質を明らかにする言葉といえるのではないかと思うのです。それによって福音にあずかる者たちの福音の受け取り方、聴き方が変革されていくような語りかけ、それがイエス・キリストの啓示ということではないでしょうか。パウロは「人」の関わりを打ち消すような言い方をしますが、実際には福音は生身の人から人へ、生きた言葉と生き様の証しをもって伝えられていくのであり、ダマスコ途上のパウロにしても、アナニヤの導きなしには明確な回心に至ることはなかったでしょう。パウロは自らの特別の体験をテコにして自分の使徒であることの権威を主張しているのではないのです。なぜならパウロがダマスコで経験した「イエス・キリストの啓示」、すなわち光の中でパウロに語りかけられたお方は、十字架に死なれ、三日目によみがえられた十字架と復活の主イエス・キリストご自身であられました。それはパウロだけが知り得たキリストのお姿なのではありません。むしろ皆が教えられ、信じ、受け取ってきたキリスト、ガラテヤの人々も信じ受け入れたキリストにほかならない。何もパウロだけが特別のキリストを知ったと言うことでないのです。
 とするならば、 結局の所ここでパウロの言わんとすることは、今、自分が十字架と復活のイエス・キリストの福音を福音として宣べ伝えているその福音を、自分もまた福音として聞いたのだということになるでしょう。福音が純粋に福音として語られる時に、そこに関わる「人」の姿は隠されていくのです。パウロは自分の救いのために労してくれた人々のことを忘れたわけではないのです。しかしそのような「人」の姿が福音宣教の前面に出てこようとする時に、福音の本質に変化が起こりやすいことパウロは十分わきまえているのでしょう。もし私たちが本当に福音を福音として宣べ伝えるならば、私たちもまたパウロと共に「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」と告白することができ、もし私たちが福音を本当に福音として聞いたならば、私たちもまたパウロと共に「人間から受けたのでなく、教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によって」と告白することができるのであり、しかもそこには確かに一人の人の救いのために熱心に福音を宣べ伝え、生き様をもって証しをし、励まし、とりなし、そうやって一人の人を主の御前に連れて行くために寝床を担いで屋根にまで上ったあの中風の男の仲間たちのように無名の人々の証しが確かに刻まれていく。それが教会の歴史を実に厚みのあるものにしていく生きた教会の姿なのです。福音がまさに福音として語られ、福音として聞かれる時、そこに輝き出すのはただひたすらキリストのみ。それでよしとする。そのような信仰の潔さを私たちも身に着けていきたいと願います。


 



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