朝拝(ガラテヤ書講解4) 2007/02/04
『人にか、神にか』

ガラテヤ1:8-10

 この朝は、福音を宣べ伝える者の負うべき責任と、キリストのしもべとしてのあり方について、パウロの語る言葉に耳を傾けていきたいと思います。

(1)アナテマの重み(v.8)
 私たちはすでに前の6節、7節で大変厳しいパウロの言葉を耳にしました。「キリストの恵みをもって救ってくださった神を、いとも簡単に、あっけなく見切りをつけて、こんなにも早く見捨てて、本来あるはずもない教えをほかの福音などといっている教えに惑わされ、そちらに走っていくとは、驚きあきれるほかない」。しかし私たちはこのパウロの言葉を単にガラテヤの人々を切って捨てるための言葉としてでなく、むしろ、そのような誤った道から何とか連れ戻したい。彼らの目を呼び覚まさせて、キリストの福音に立ち返らせたい。そんなパウロのガラテヤの兄弟姉妹たちに対する熱い愛の言葉として聞いたのでした。しかしそれに続く今日のところでは、さらに厳しい、恐らくこの手紙の中でも最も厳粛な言葉が語られることになります。8節。「もし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」。時々聖書を読んでおりますと、本当にこれが聖書の中の言葉だろうかと考え込まざるを得ないような激しい言葉に出会うことがあります。旧約聖書の中には「神が妬む」というような表現が出て来ますし、新約聖書の福音書でも、たとえば主イエスのパリサイ人、律法学者たちに対する言葉には「あなたがたは白く塗った壁だ」などという非常に辛辣な言葉も残されています。信仰者として、こんな言葉を口にしてよいものだろうかと時に思わずにはおれません。そして今日のパウロです。彼は何と「のろわれよ」と語る。しかも、ことによっては御使いでさえのろわれてしまえ、と言うのです。大変な言葉を口にしていると言わなければなりません。この「のろわれよ」と訳された言葉は新約聖書の言葉で「アナテマ」という言葉です。この言葉、本来の意味を辿っていくと、「神の怒りに渡された者」という意味があって、そこから神に対して真っ向から反逆する罪人に対して宣告された呪いの言葉、「呪詛」とされていきました。この言葉が実際にこうした用例で用いられるのは新約聖書でも希なのですが、例えばパウロはIコリント16章22節でこう宣告しています。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」。
 このようにアナテマの宣告は大変厳しい言葉であるのですが、しかしそれもまた単にそのような者たちの上に神の怒りをもたらすことを願う言葉という以上に、主に対して背き、逆らってはならない、福音を曲げてはならないという信仰を守る言葉であり、またそれほどの覚悟をもってこの福音を信じるのだという自分自身に対する決断の言葉と言うことができるのです。ですからこの後の時代に教会が自らの信じ、告白する信仰を簡潔な言葉でまとめ上げた数々の信条には、自らが御言葉に教えられて信じる事柄を述べた後に、自分たちは御言葉に反する教えを認めず、そのような教えを語る者はのろわれよ、という呪詛の言葉を掲げるようになっていったのでした。信仰の言葉が、自分たちはこの線より後には退かないという決断の言葉となるために、アナテマは重い意味を担っていったのです。

(2)宣べ伝える者の責任(v.9)
 続く9節でも8節と同じ響きの言葉が繰り返されます。9節。「私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです」。パウロは8節では「私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」と言い、9節では「もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです」と言っているのですが、ここで二つのことに注目しておきたいと思います。一つは「私たちが宣べ伝えた福音」、「あなたがたの受けた福音」という表現です。これは教会の信仰が主イエス・キリストの福音が、弟子たちから多くの信仰者たちに受け継がれ、教会が歴史の中で受け取り、受け渡してきたものであることを表す言葉で、パウロも重んじてきたことでした。Iコリント11章2節では「私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います」と言い、有名な主の晩餐の制定の場面でも23節で「私は主から受けたことを、あなたがに伝えたのです」と語り、さらに同じく15章1節では「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、またそれによって立っている福音です」、3節では「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです」と語っている通りです。このように伝えられ、受け取られてきた教会の信仰の一つの結晶が、私たちが礼拝の度毎に告白する使徒信条やニカイア信条ということになるのです。教会は終わりの時に御国の完成を目指して、聖霊によって日々新しくされていく存在ですが、しかし同時にこのように宣べ伝え、受け継いできた福音の教えがあるのであり、なにか古い教えだからと言って簡単に捨て去ったり、時代遅れだからと言って中身を変えてしまったり、思いつきで自分の主義主張を混ぜ込んではならないものなのです。
 今一つのことは、パウロが「のろわれよ」という激しい言葉を口にしながら、しかしその言葉の矛先について慎重に言葉を選んでいるということです。8節では、のろわれるべきは「私たちであろうと、天の御使いであろうと」、9節では「もしだれかが」となっています。当然そこではガラテヤの誤った教えを説く者たちの存在が念頭に置かれているのですが、しかしパウロはこの言葉をそのような者たちへの当てこすりのようにして、あるいは彼らを断罪する言葉として語っているのではない。ましてガラテヤの兄弟姉妹たちに向かって、別の福音に走っていくようなあなたがたはのろわれてしまえ、とも語っていないのです。そうではなく、おそれおおくもキリストの福音の宣教に与る者たちが、本当に福音を福音として語っているのか。似てもって非なる別の福音を語っているのではないか。そうであるならば、それを聞いて惑わされる人々以上に、そのような教えを福音として語った者の上に呪いがあるということなのです。それほどに福音を与る者の責任は重い。パウロはそのことを自分にも言い聞かせるようにしてこれらの言葉を語っているのではないでしょうか。そのように考えるときに、次の10節の言葉が一層切実に迫ってくるのです。

(3)人にか、神にか(v.10)
 10節。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」。ガラテヤの人々に救いのためには律法の行いが必要だという誤った教えを説く教師たちは、律法によらずただ恵みによる救いを宣べ伝えるパウロを指して、「彼はあのように律法の行いは不要だと言って人々に取り入り、人々を説得して自分の側に引き込み、人の気に入られたいと人気取りをしているのだ」といって非難中傷の言葉をまきちらしていたようです。パウロにしてみればこれほど心外なことはないと思いますが、それでもパウロはそのような言葉に対して誠実に応答していきます。
 「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら」とは彼の潔い言葉でしょう。確かにかつてはあなたがたの言うとおり、人々の歓心を買おうとしてきた。それは認めるというのです。しかし、ここに大きな逆説があります。パウロがそのような思いに捕らわれていた時代、それはいまでなくもう過ぎ去り捨て去ってきた、あのかつての律法主義者として生きていた時代のことだというのです。その時のほうがむしろ人々を言葉で説き伏せて自分の側につけ、人々の中で自らを誇り、人々からの歓心を買おうと熱心に振る舞っていたのであって、今はもうそのような生き方とは訣別しているのです。だいたいが、そのような勘ぐりをするところに、すでに論敵たちの中に見え隠れしている自分たちの本心が透けて見えてきます。パウロは人気取りをしているのだと声高に叫ぶ彼らのほうが、実は人々の歓心を買い集め、人々に気に入られようとする密かな企みの持ち主でした。だからこそパウロの振る舞いに敏感に反応するのです。こういう姿に自分を本当に顧みさせられます。人を非難するとき、批判するときは、嫉妬の思いや、自分の中に潜んでいる願いを先取りされることへの焦りがそうさせると言うことがあるのではないでしょうか。ガラテヤの論敵たちの振る舞いに、そのような密やかな嫉妬心を感じ取るものです。
 しかしそれに対してのパウロの言葉にはっとさせられます。「決してそんなことはない、もうそのような生き方とは訣別しているのであるが、それでも万が一、私の中に人に気に入られたいというような思いがあるとするならば、私はもはやキリストのしもべなどとはいうことはできない」。手紙の冒頭の1節で、「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、人間の手を通したことでもなく」と威勢よく啖呵を切ったパウロが、もし自分の目に映る「人」の姿が、キリストのお姿以上に大きくなっているならば、あるいはまた、人々の自分を評価する声が、キリストのお呼びになる声以上に自分の心を動かす声になっているならば、そして自分の心がキリストのお心以上に、人々の期待や願いに答えることへと動かされているならば、そんな自分はもはやキリストの使徒でも奴隷でもなにものでもない、というのです。私たちは単純に神を取るか、人間を取るか、というような二者択一の図式にすべてをはめ込むことはしません。神を愛するように隣人を愛し、神にお仕えするように互いに仕えあい、神を尊ぶように人々を尊び、神にあって人々を受け入れて生きていくのです。しかし、しかしです。この神にあっての人との関わりが、いつしか神の冠が外れて一人歩きしはじめ、ついには神か人かという二者択一の形になるときには、私たちは、人にではなく、神に、という道を選び取らなければなりません。それがキリストのしもべの生き方だとパウロは語ります。ここに主のしもべの生き方がある。私たちもパウロの確信のもとに私たちの心を定めて、キリストのしもべとしての歩みを御霊によって続けさせていただきたいと願います。

 



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