朝拝(ガラテヤ書講解3) 2007/01/28
『ほかの福音』

ガラテヤ1:6-7

 この朝からいよいよガラテヤ書の本論の部分に入っていきます。そこで今日は1章6節から10節に記されたパウロの大変厳しい言葉を通して、主イエス・キリストの福音を信じることとキリストのしもべとして生きることの固い結びつきについて、ご一緒に教えられたいと思います。

(1)私は驚いている(v.6)
 6節。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。冒頭の挨拶をひとまず記し、しかしすでにそこで、私たちを罪の中から救い出すために御自身をお捨てになられた主イエス・キリストと、その主イエスをお遣わし下さった父なる神の栄光をほめたたえずにはおれなかったパウロでしたが、ここからいよいよ手紙の本論に進んでいきます。その書き出しは直訳するとこうなります。「私は驚いている」。先の賛美とは一転して、驚きあきれて相手を非難するような激しく強い口調です。手紙のはじめからこんな言葉が発せられるのは極めて異例なことですが、なぜパウロはそのようにしてこの手紙を記すのでしょうか。それは「キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行く」という事態がガラテヤの教会に起こっていたからです。愛する御子イエス・キリストを十字架につけると言う仕方で私たちに恵みによる救いを与えてくださった。もはや律法の要求を自分で満たすことでなく、ただイエス・キリストを信じるだけで救いに入れてくださるという、これほどの恵みを与えてくださった主なる神を見捨てて、ほかの福音に移って行こうとしているというのです。「そんなにも急に」とは、単に時間のことを行っているのではなく、いとも簡単に、あっけないほどにあっさりと、ということですが、それがパウロには信じられない、驚きあきれるほかないことなのです。今あるものから他のものに乗り換えるということは、今あるもの以上の価値をそれに見出すからでしょう。キリストの恵みとそれを賜った父なる神以上に価値あるものを人々は見出し、そちらの方へと乗り換えようとしているというのです。
 もしかすると当のガラテヤの人々は、パウロがこれほどの怒りと驚きを抱くようには自分たちのふるまいを問題とは感じてなかったのかもしれません。律法を守って何が悪いのか、なぜパウロ先生はこんなに大騒ぎしているのか。そんな反応であったかもしれません。しかし律法の世界の中から救い出され、キリストの恵みにしか救いがないこと、その福音の尊さを身に染みて実感しているパウロからすれば、救われてなお律法を救いの条件とすることは、キリストの恵みを踏みにじり、再び滅びの中へと逆戻りすることになりかねない、実に救いにとって本質的な問題であると気づいているのです。こういったことはテーマは異なるとはいえしばしば教会においても起こることではないでしょうか。教会において生じてくる一つの事柄について、それへの意見の対立や違いが問題になるということよりも、その一つの事柄を教会にとって、信仰にとっての大事な問題と捕らえているかどうかということの違いが問題となるのです。教会がそういう経験を繰り返す中で学び取ってきた一つの原則に「アディアフォラ」ということがあります。これは「どちらでもよいこと」という意味の言葉ですが、信仰生活においてどちらかに決めなくてもよい「アディアフォラ」の事柄があるということです。聖書が明白に禁じていないことは人間の判断に赦されている。そういう原則です。これはこのガラテヤ書の主題でもある「キリスト者の自由」と深く関わってくるテーマであって、あらためてこのことについては学ぶことがあると思いますが、ともかく今朝の御言葉の文脈で考える場合、このアディアフォラの原則が当てはまらない二つの場合があると言われることに注意したいと思います。一つはそれが他の人の躓きとなるような場合であり、今ひとつはそれが主イエスに対する信仰告白に関わる場合ということです。そうしてみると、パウロがこのことを取り上げるのは、まさにそれがキリストへの信仰に関わる問題、ひいてはそれが私たちの救いに関わる福音の問題であるからだったのです。

(2)ほかに福音が(v.7)
 パウロの驚きの内容は、しかしそのようなガラテヤの人々の心変わりの早さということだけではありません。むしろキリストの恵みの福音以外の、またそれ以上の、ほかの福音と呼び得るようなものが存在するなどとどうして言えるのか。それもまたパウロの大きな驚きです。もとより「ほかの福音」などというものがそもそも存在するのか。この点でパウロの答えは実に明瞭です。7節。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです」。そんなものは福音ではない、これがパウロの結論です。つまり本来ありえないはずもの人々が勝手に福音として仕立て上げ、それに多くの人々が惑わされているというのです。このことは、決して私たちと無関係な事柄ではないように思います。なぜならそれは私たちがどのようにして福音を聞き取るのかということと深く結び付き、私たちの御言葉の聴き手としての在り方に吟味を求めることになるからです。ガラテヤの人々が本来離れるはずのない福音から離れて、本来あるはずのないほかの福音に乗り換えようとしたという事実は、彼らがそもそも福音をまことに福音として聞いていたのか、と言うことへの吟味へと私たちを促すのです。これは同時に御言葉を語る説教者自身をも問う問いでもあります。パウロにしてみれば、自分が導いたガラテヤの人々が、ほかの福音に移っていく様を目の当たりにして、ただ単に彼らの信仰の未熟さを責めることでは終わらない、彼自身の中にも痛みがあるのです。自分自身が彼らに本当に福音を福音として語り、教えてきたのか、という説教者自身の責任を問う声が響いてくるのです。私たちには福音を聞き分ける耳が必要です。別の福音に惑わされない信仰の耳、本当の羊飼いの声を聞き分ける羊の耳、それが私たちには必要なのです。私たちが説教に先立って聖霊の照明を求めて祈る最大の理由はここにあるのです。
そこであらためて福音とは何かということが明らかにされていなくてはなりません。一体何が福音の確かさを決めるのでしょうか。その第一は福音が与えるものが何であるかということです。パウロはこれを「キリストの恵み」と言いました。これに対して異端の指導者は律法の行いと言ったのです。「恵みか行いか」、それは私たちの信仰の要のような事柄です。第二の点は、パウロが福音を8節で「私たちが宣べ伝えた福音」、9節では「あなたがたの受けた福音」と呼んでいることに示されていることです。このような言い回しは、キリスト教の教えが信仰者たちの間で口から口へと教え受け継がれていったことを示す聖書の中の特徴的な表現ですが、そのようにして教会において語られ、聞かれ、信じられ、告白され続けてきたという歴史の中に、真の福音の証しがあると言えるのです。そして第三に何よりの福音の要は、それが「キリストの福音」であるかと言うことです。パウロは続く3章1節でこう言います。「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」。そこにはもはや「教え」などという言葉で括ることの出来ない、ほかの福音などというものが存在することを許さない、圧倒的なまでの恵みのリアリティー、すなわち十字架のイエス・キリストが立っておられるのです。

(3)パウロの心
このように、パウロの抱く驚きの感情はガラテヤの人々の変わり身の早さ、別の福音に簡単に乗り移っていく節操のなさに怒り、そして人々が主イエス・キリストの十字架の恵みをあまりにも軽んじ、蔑ろにすることに心痛めています。それがこの手紙の私たち、読み手を冒頭から圧倒するような激しさとなり、怒りの言葉となって表れてくるのでしょう。しかしこれを単にパウロの怒りの感情ということだけで理解することだけではまだ不十分であるように思います。むしろそこに込められたパウロのガラテヤの人々を思うがゆえの必死さ、切実さ、この手紙に込められたパウロの教会への愛を聞き取っておくことが必要なのではないでしょうか。今日の箇所をあらためて注意して読んでまいりますと、次のような表現が目に留まります。6節の「あなたがたが、ほかの福音に移って行くのに驚いている」、7節の「あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしている」。ここでの時制に注目すると、いずれも今まさに起こっていること、起こり続けていること、というニュアンスであることが分かります。つまりこうしてパウロが手紙を書いているこの時も、人々はパウロの後から来て誤った教え、別の福音を語る者たち惑わされ、そちらのほうに移って行きつつある、それは現在進行形の出来事であるのです。ですから事態は極めて深刻であり、それゆえに彼は急いでこの手紙を書いているのでありますが、しかし同時にそれが「人々が移って行ってしまった」、「キリストの福音が変えられてしまった」という過去形で語られていないことにパウロは一つの希望を見出しているのではないか、そんな思いを抱くのです。
 事態は確かに深刻である。一刻の猶予も猶予も許されない。この問題はまた今度、日を改めて、落ち着いてから、というような余裕の構えをしている暇はありません。けれども、まだ過去形でないということは、しかし今ならまだまだ間に合う、まだ引き戻せる、一生懸命説得すればまだ彼らを呼び戻せる。まことの福音のもとに思いとどまらせることができる。そんな思いをパウロは抱いているのではないでしょうか。だからこそ、パウロは諦めずに必死になってこうしてこの手紙を書いているのです。まどろっこしいことは後回しでとにかくすぐに本題に入って人々の目を呼び覚ましたい、彼らの信仰の耳を開かせたい、既に与えられているキリストの福音のすばらしさを思い起こさせて、誤った道に進むことを思いとどまらせたい。そんな必死な思いが伝わってくるのです。キリストの福音のほかに福音はない。これは使徒ペテロたちも語ってきた教会の確信です。この主イエス・キリスト方以外に救いはない。この方以外に真の救いと喜び、自由と解放を与えるものはない。この愛のメッセージの確かさをこの朝しっかりと聞き取り、それに従っていきたいと願います。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.