朝拝(ガラテヤ書講解2) 2007/01/14
『恵み、平安、栄光』

ガラテヤ1:1-5

 この朝は、あらためてガラテヤ書1章冒頭のパウロの挨拶の言葉から、主イエス・キリストにある恵みと平安の中を生きる幸いについてご一緒に教えられたいと思います。

(1)恵みと平安があるように(v.3)
 キリスト者詩人の八木重吉がうたった詩に「きりすとをおもいたい」という短いわずか三行の詩があります。「きりすとをおもいたい。いっぽんの木のようにおもいたい。ながれのようにおもいたい」。肺結核を患い、わずか30歳で逝った八木の一途で純粋でまっすぐな信仰の姿がよくあらわれた、大変心に残る詩です。私の尊敬する一人の牧師がおられます。その先生は学問も非常によくできられて、実に秀才肌の先生ですが、説教などでイエス・キリストのことを話されると、ほとんどいつも涙ぐまれます。イエス・キリストを本当に愛しておられるのだなあと思い、自分自身の信仰を顧みさせられたりするのです。
 先週に続いてガラテヤ書の冒頭の挨拶の言葉を読みたいと思います。すでにこの1節から5節までの間でパウロは何度も何度もイエス・キリストの名を口にします。そしてとりあえずは手紙の形式に沿って書き始めるのですが、そのうちにパウロの内に主イエス・キリストに対する熱い思いが溢れていって、結局は型通りの挨拶など後回し、ただただキリストへの感謝と神への賛美へとつながっていく。そんなパウロの息づかいが伝わってくるような言葉が記されています。パウロもやはりいつも純粋に、一途にキリストを思い続けた信仰者だったのです。3節。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」。1節と2節で差出人と宛先が記され、すでに早くもそこでパウロの手紙は自分が使徒となったのはイエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神による、と脱線をしたのですが、もう一度本筋に戻って次には相手先への祝福の挨拶が続きます。これはパウロの手紙ではおなじみの挨拶で、同じ言い回しがローマ1章7節、Iコリント1章3節、IIコリント1章2節、エペソ1章2節、ピリピ1章2節などにも出てきます。このような挨拶文も当時のヘレニズムの手紙文化の中にはあったようで、ユダヤ人たちの手紙の冒頭には父なる神からの「平安」、「あわれみ」を祈る習慣があり、ギリシャ人たちも一般的なあいさつの言葉を冒頭に掲げることがあったと言われます。しかしそれでもパウロの挨拶にはやはりパウロらしい特色があるわけで、それは彼が「恵み」と「平和」という二つの言葉で挨拶を送ること、しかもその恵みと平和の出所として父なる神と主イエス・キリストの御名を挙げているという点に心を留めたいと思うのです。それは決して通り一遍の挨拶ではありません。いつものように何の気なしに型どおりに、ということではないのです。パウロがガラテヤの兄弟姉妹たちに対して切に祈り願っていること、それは主イエス・キリストによってもたらされた父なる神からの恵み、主イエス・キリストによってもたらされた父なる神との平和。律法によってでなく、行いによってでなく、ただ恵みによって、ただ主イエス・キリストによってもたらされる恵みと平和が、行いによる救いを教える誤った教えによって苦しんでいるあなたがたの上にあるように、ということなのです。
 あらためてこの挨拶を書き送るパウロの心をもう少し考えておきたいと思います。群れの上に恵みがあるように、あなたがたの間に平和があるように。そういう祈りがささげられていると言うことは、そういう祈りを祈らずにおれなかったガラテヤの諸教会の現実があるということです。教会の中に、人々の間に争いがある、痛みがある、憎しみがある、苦しみがある。だからこの祈りが必要とされる。恵みを祈り、平和を祈る。それは私たちが今、この時代にも声を上げて祈り続けなければならない切なる祈りであることを、このパウロの姿から受け取っておきたいと思います。

(2)父なる神のみこころによるキリストの贖い(v.4a)
 パウロの他の手紙を見ると、多くの場合は3節のような挨拶の次には相手先の教会とパウロの個人的な関わりに基づく消息や安否の確認と感謝の言葉が続くのですが、ガラテヤ書の場合は、パウロの思いますますイエス・キリストへと集中していくのが分かります。4節の前半。「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」。なぜパウロがこうも手紙の冒頭から脱線続きのようにしてキリスト、キリストと語るのか。しかも私たちの罪のために御自身を捨てたキリスト、という最も大切なメッセージを何の前触れもなく語るのか。パウロの心の内に溢れてくる思いを受け取るには、後に続く御言葉に目を留める必要がありそうです。6節をご覧ください。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移っていくのに驚いています」。これはこれで改めて次回に学ぶところですが、これもまた実に異例なパウロの発言です。手紙の挨拶が終わった途端に飛び出してくるのは大変厳しいパウロの叱責の言葉なのです。
 つまりパウロがこの手紙を書こうとする動機の中に、すでにキリストの恵みが軽んじられ、私たちの罪のために御自身を捨ててくださったほどのキリストの犠牲と、それほどまでして示してくださった父なる神の愛を捨てて、誤った教えの方へと、古き行いの方へと舞い戻っていこうとする人々に対する悲しみ、怒り、憂い、それを抱かせるほどの熱い愛の気持ちがあると言うことでしょう。そうでなければこれほどの激しい言葉がほとばしり出てくることはないはずです。要するにパウロが言いたいのは、私たちのための神、私たちのためのキリスト、私たちの罪のために御自身をお捨てになったお方。このお方の愛と犠牲を踏みにじり、蔑ろにし、捨て去ってしまって良いのか、という思いなのです。翻って私たち自身の心の内を見つめてみたいと思います。私たちの心の中に、キリストに対する思いがどれほどにあるでしょうか。キリストを思いたい。ひたすらに、一途に思いたい。そんな思いがあるでしょうか。なにか熱心に入れ込むのは恥ずかしいというようにして、信仰をあえて茶化してみたり、熱心さを隠していいかげんさを装ってみたり、熱くなりすぎないように、入れ込みすぎないようにほどほどの所でよしとしてみたり、そんな思いはないでしょうか。しかしそんな風に装っていても、本当の自分の信仰はもっと熱いものだと思っていても、いつまでもそのように醒めた信仰の装いを続けていれば、結局は私たちの信仰は冷え切っていってしまうものです。私たちの主イエス・キリストへの愛は、主イエス・キリストが私たちに表してくださった愛、父なる神が主イエスを通して示してくださった愛によって生み出されるものであるゆえに、その愛をそのままに受け取ることなしには、私たちの神への愛はあっという間に消し飛んでしまうでしょう。私たちのための神、私たちのためのキリスト。このお姿を私たちはいつもまざまざと見つめ、その愛に動かされ、満たされて、神を愛するものとさせていただきたいと思うのです。そのためにキリストはご自分を捨ててくださったのですから。

(3)神に栄光があるように(v.4b-5)
 そして4節後半から5節。「私たちの神であり父である方のみこころによったのです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」。私たちのためにいのちを差し出してくださったイエス・キリストのお姿をずっと心に描いていったパウロの心が行き着く先は、イエス・キリストを私たちに賜るほどに愛を示してくださった父なる神の御許でした。そしてそこでパウロの口からあふれ出てくるのは、ひたすら神への賛美、栄光をほめたたえる賛美の言葉です。「どうか。この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」。実はこういった神の栄光への賛美の言葉は、他のパウロの手紙で言えばローマ11章36節の後半。「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」。同じく16章26節から27節にかけての「あなたがたを堅く立たせることのできる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」。あるいはピリピ4章20節。「どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン」という表現があります。しかしこのような頌栄の賛美がささげられるのは手紙の締め括りの箇所であるのが普通であり、ローマ書11章の場合は少し例外ですが、それでもローマ書の大きな内容の区切り目、前半の教理部分の締め括りの箇所ですから、決して不自然な所ではありません。それに比べて今日のところは、まだ手紙が書き始められたばかり。まだ挨拶も終わるか終わらないかというところで、すでにパウロは口には神の栄光をほめたたえる賛美が溢れてくるのです。こうしてみると、ガラテヤ書のほんの数節を読んできただけでも、実にこの手紙は異例ずくしのものであることが分かってきます。しかしそれぐらいの思いが込められた手紙。挨拶をして主イエスの名を口にしたら、もう心は主イエス・キリストへの思いに溢れてしまい、そのイエス・キリストのお姿をずっと思っていくと、主イエスが成し遂げてくださった私の罪のための救いの御業に思い至り、その御業を深く覚えていくと、それはもう父なる神を賛美せずにはおれない、父なる神の栄光をほめたたえずにはおれない。そういう心の動きが手にとるように伝わってくるのではないでしょうか。
 私たちはこういうパウロの信仰の姿を決して冷ややかに、醒めた目で見てしまいたくないのです。むしろ父なる神と主イエス・キリストから溢れるほどの恵みと平安、そして何にも代え難い罪の赦しと救いをいただいたからには、今度は私たちが父なる神に栄光をおかえししながらこのお方に従っていくものでありたいと願うのです。今年の元旦礼拝では詩篇115篇が開かれました。その1節には「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」とあります。宗教改革者たちの合言葉は「ただ神にのみ栄光あれ」、「Soli Deo grolia」という言葉でした。何をするにまさって、何かに手をつけるに先んじて、まず主を礼拝し、主に栄光をおかえしする。そこから私たちのこの年のすべての営みは始まっていくのです。神から恵みと平安を受けたものとして、キリストを思いつつ、この神に栄光をお返ししながら歩むものでありたいと思います。神に栄光あれと賛美しつつ、主イエス・キリストによる赦しの恵みの中を、福音による自由の中を、人々に恵みと平和を分け与えながらの日々をひたすらに、まっすぐに歩ませていただきたいと願います。

 

 

 



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