朝拝(ガラテヤ書講解1)  2007/01/07
『人によらず、神によって』

ガラテヤ1:1-3

 2007年最初の主の日を迎えました。今年もともに礼拝に集い、主の御言葉に聴き従って歩んでいきたいと願っています。

(1)ガラテヤ書に聴く
 手紙というのは特別なものです。これほど電話やファックス、メールと言った通信手段が発達しても、やはり手紙には独特の重みがあります。書く方も読む方も、それぞれ相手の思いを推し量りながら読み、書くものでしょう。単なる事務連絡や通知でない自筆の信書であればなおさらのことです。手紙の文化というのは洋の東西を問わず古くからあったようですし、新約聖書の中にもたくさんの手紙が収められています。また宗教改革者たちも多くの手紙をやりとりし、特にそれが大切な牧会の手段となっていたことも分かってきています。私たちにとっても例えば一通の手紙がその後の人生を大きく左右する、そんな手紙のやりとりを経験されたことがあるのではないでしょうか。私自身は大変な筆無精でしかもかなりの悪筆ですから手紙を書くことがあまり得手ではないのですが、頂いた手紙で本当に自分の生涯の大きな決断に至ったというものがあります。今でもその手紙を手元に置いて、ときどき読み直しては初心に立ち返らされるのです。そのように、手紙というものは紙に記された文字でありながら、それを読む者の人生の大きな変革をもたらすような力があるといえるのです。
 この朝から、皆さんとご一緒にガラテヤ人への手紙を読み進めていこうとしています。この教会に赴任してルカ福音書、使徒の働きを解き明かし続けながら、次なる書物はどれだろうかと祈り考える中でガラテヤ書へと導かれて来ました。そこで今朝はまず少々個人的なことからお話しするのをお許し頂きたいと思います。私にとって手紙から説教をするというのは大きなチャレンジでした。もちろん聖書を説き明かすというのはいずれにしてもチャレンジであることに変わりはないのですが、とりわけ手紙をテキストに講解説教をすることには少しのためらいがあったのです。というものかつて牧師として最初に講解説教に取り組んだのがエペソ人への手紙だったのですが、その頃、大変な気負いと共に説教を語っていく中で、手紙の中のパウロの口調が聴き手の中に牧師からの律法の言葉、信徒を裁く言葉として受け取られていくという経験をしたからです。私自身は決してそのようなつもりで語っていたわけではないのですが、結果としてパウロの口調を借りて自分自身の焦りや気負いの感情が伝わっていったのかも知れないと後になって振り返らされました。このことも一つのきっかけとなって一度牧師の職を休んで学びの場に戻ることになったのですが、それ以来、手紙を説き明かすということが自分自身の説教者としてのあり方を問い続ける中でいつも目の前にあったのです。そのようなわけで今回、ガラテヤ人への手紙に取り組むにあたり、まず自らがどのようにしてこの手紙を読むのかということを考えさせられています。特にガラテヤ書という大変厳しいメッセージを持つこの手紙をどのように語るのか。それが今の私自身への大きなチャレンジなのです。
 この問いを巡って、今、私の心にあり続けている思いが三つあります。その一つは私たちが主イエス・キリストの福音をそのままに、ありままに恵みの福音として信じていきたいということであり、いまひとつは、その福音がもたらす真の自由に私たちが生きていきたいということであり、そして最後に、この手紙を主イエス御自身から私たちに差し出された愛の語りかけの言葉として受け取っていきたいということです。このことさえしっかりと身につけていくことができれば、信仰者としての歩みは確かなものとされて行くに違いないという確信が与えられています。しかし一方でそれは大変難しい道であることも実感します。福音の装いで人々を惑わす多くの誤った教えがはびこり、また誤った自由を語ったり、律法の力になお縛り続けようとする力が私たちの周りにあるからです。それだからこそ、私たちは御言葉に聞き続けるほかに確かな道はないことを信じて、ここから改めて、そして新しく、パウロが溢れるほどの熱意を傾け、愛を注いで語っていくこのガラテヤ人への手紙を、まさしく私たち徳丸町キリスト教会に向けて語りかけられた神の言葉として聞き取っていきたいと思うのです。それがこの群れに連なる兄弟姉妹たちの主にある生き方を決定づけていくものにほかならないからです。

(2)人によらず、神によって(v.1)
 新約聖書にはパウロによる手紙が13通おさめられています。それぞれの手紙にはその手紙を書き記す相手やその手紙が書かれなければならなかった事情、その手紙に込められたパウロの心が表れており、それぞれに味わい深い特色があるのですが、このガラテヤ人への手紙はそれらの中でも際立ったものです。それは続く1章6節から10節を読めばすぐに分かることですが、パウロの実に激しい感情、ほとんど怒りとも言ってよいような論争口調で記されている手紙であるからです。なぜパウロはこれほどの厳しく激しい口調でこの手紙を書かなければならなかったのか。そこに込められたパウロの意図ということによく注意を払いながらこの手紙をご一緒に読んでいきたいと思います。そこでまず1節と2節を見ておきましょう。「使徒となったパウロ−私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。−および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ」。通常、パウロの手紙の書き出しには定まった形式があります。それは当時の地中海世界の手紙の形式に則ったもので、まず差出人を明らかにし、次に宛先の名前を記し、相手に対する平和の挨拶を述べるというものでした。ですからここでも「使徒となったパウロおよび私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ」と冒頭の挨拶が記されるのですが、そこでまず私たちの目をひくのは、冒頭から脱線するようにして挟み込まれる次の句です。「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」。この部分を直訳してみますと、「使徒であるパウロ、人々からでなく、人を介してでもなく、イエス・キリストと、彼を死者の中からよみがえらせた父なる神による」となります。つまりパウロはこの手紙の冒頭から強烈に自分自身が使徒であるということを主張しているのです。
 ではなぜこれほどまでに強い調子で自らが使徒であることを述べる必要があったのでしょうか。その消息はこの先を読み進めていく中で明らかになっていくことですが、結論から申しますと、この当時ガラテヤの教会に異端的な教えが入り込んで、教会が揺さぶられていたというのです。その異端的教えとは、異邦人キリスト者に対して律法の行い、特に割礼を中心とした律法を強制するという律法主義的な教えでした。しかもその異端グループの指導者たちの矛先はパウロに集中し、とりわけパウロが使徒であることを否定しようとしていたのでした。確かにパウロという人物は、福音を宣べ伝える使徒としては不利な前歴の持ち主でした。主イエスに出会う前のパウロは、熱心な律法主義者、キリスト教の迫害者であって、そのような彼が伝道者になって後も、彼のかつての氏素性が何かと取り沙汰されることがあったでしょう。またペテロやヤコブ、ヨハネといった教会の誰もが使徒と認める人物に比べるならば、パウロが主イエス御自身からの直接の任命を受けた者ではないということも、使徒の権威を揺るがす大きな理由でした。そういう声があったのでパウロはここで「人間から出たことでなく、人間の手を通したことでもなく」と繰り返し語る必要があったのであり、「私パウロが使徒であるのは何かしらの人間的な権威を起源とするのでなく、誰か有力な人を介してでもない」と強烈な主張をする必要があったのです。では彼を使徒としたのは一体誰なのか。この問いに対するパウロの答えは実に明快です。自分が使徒とされたのは「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によった」というのです。このパウロの言葉は実に豊かな意味合いを含んだ表現です。第一に、自らが使徒とされたのはイエス・キリストによると断言している点です。敵対者たちはパウロがイエス・キリストから使徒としての直接の任命を受けていないと攻撃したのに対し、彼は「いや自分の使徒職の起源はイエス・キリストである」と言うのです。このことはパウロのあのダマスコ途上での回心を振り返ることによって理解することのできることですが、要するにあのダマスコ途上での復活のイエス・キリストとの出会いと異邦人宣教の召命が、自分に対する使徒職の任命なのだということです。ですから、パウロの使徒としての務めとイエス・キリストの復活が切り離すことのできない深い結び付きにあることが明かとなります。そこで第二に、「キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって」と語られるのです。つまり自分が使徒とされたのは人間によるのでなく、イエス・キリストである。しかも復活のイエス・キリストである。それだけでなく、その根源にあるのは、このイエス・キリストを復活させた給うた父なる神であられる。要するに使徒職の起源としてはこれ以上ない決定的な起源がそこに示されているのです。
 そもそも「使徒」とはどのような存在なのでしょうか。「使徒」とは元来「派遣された者」という意味の言葉です。ですからこの場合重要な意味を持つのは、彼がどのような者であるかということにまさって、彼は誰によって遣わされたのかということと、彼にはどのようなメッセージが託されているかということです。誰によってということは既に見た通りですが、ではどのようなメッセージを、問われればそれは主イエス・キリストの福音、十字架と復活の福音と言うことに尽きるでしょう。つまり使徒にとっては、彼自身の存在と彼に託されているメッセージとは切り離すことのできないものであり、パウロにとっては、自らの使徒であることへの攻撃は、とりもなおさず彼の宣べ伝えていた福音そのものが攻撃されることを意味していたのです。ですからパウロがここで必至に守っているのは自分の権威や名誉というような事柄ではなく、それによって教会が立ちもし倒れもするほどの教会にとって最も本質的で決定的な事柄、すなわち「福音」そのものであったということになるのです。

(3)教会を信じて(v.2)
 最後に、パウロと教会との関係を見ておきたいと思います。冒頭で述べたようにパウロの手紙では差出人がまず記されますが、そこで共同の執筆者の名前を記す例が幾つかあります。しかしこのガラテヤ書の場合は「私とともにいるすべての兄弟たちから」となっていて、特定の個人名でなく「すべての兄弟たち」という書き方がされています。それはすなわちパウロと共に福音に仕える同労者たちを指していると言えるでしょう。あれほど「人によらない」と自らの使徒としての独自性を強調したパウロが、しかしガラテヤの諸教会に対しては、自分と共に労する同労者たちと一緒になってこの手紙を送っているということに注目したいのです。パウロは決して自分一人を使徒としているのではない。彼は決して孤高の人ではなく、むしろ同じ召しに与る者たちと共に労する者であったということです。彼は自分と同じように主に仕え、福音に仕え、教会に仕える同労者、しもべ仲間たちの一員に自らを置いているのであり、福音の真理のために戦うパウロの戦いは、決して彼一人の孤立した働きではない。そうであるならば、その同労の兄弟たちと共に記したこの手紙、ガラテヤの諸教会に宛てて記される手紙の背後には、そのような多くの主のしもべたちの切なる祈りがそこに込められている。パウロの時に激しすぎる、厳しすぎるような言葉の背後に、その何十倍もの熱い祈りが込められている。決して名前の登場しては来ない多くの福音のしもべたちが、パウロと思いを一つにし、ガラテヤの教会の現状を憂い、信徒の一人一人を思い、誤った福音に捕らわれていく兄弟姉妹たちが何とか真の福音に立ち返るようにと心砕き、祈りを合わせ、パウロの手紙にその祈りを託しているのです。
 ガラテヤの教会が抱え込んでいる病い、受けている傷、それらは一つの孤立した教会の出来事としてあるのではない。教会の交わりとは、身体の一部が傷つけば、身体全体がその痛みを担う、そのような交わりなのです。他の群れはその傷ついた群れに対して傍観者でいることはできないのです。だからパウロは、私と、私と共にいるすべての兄弟たちと記しながらこの手紙を書き送るのです。これから読み進んでいくと明らかなように、この手紙の内容は時に大変厳しいものです。容赦ない叱責が加えられることもあります。けれどもそれはガラテヤの教会を切って捨てるためではないのです。そうではなく、多くの兄弟たちがこの群れが真の福音に立ち帰ることを願っている、祈っている。だからこそ、この手紙は記されたのです。私たちもこの手紙に込められたパウロと主のしもべたちの祈りの声をしっかりと聞き取っていきたいと思います。自らを省みて、地上の教会はなんと欠け多きものかと思います。こんなことで、と思うようなことで揺さぶられるものですし、こんなことがあって良いものか、というようなことも時に起こるものです。しかしそれがどんなにキリストの身体として傷つき、倒れかけていたとしても、しかしなおそこに羊飼いの声を聞く羊たちがあるならば、そこに主の教会は立ち上がっていく。私たちはこの信仰に立って、この年、愛をもって互いに仕えあう教会を建て上げていきたい。その志をこの朝、新たにさせていただきたいと願います。

 

 



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