シリーズ「福音に生きる」その15    2014/12/28
『あなたを離れず、あなたを捨てない』

ヘブル13:1-5

 2014年最後の主日を迎えました。この一年も愛する皆さんお一人一人ともに主に礼拝を献げながら、ここまで歩みを進めてくることができました。私たちの不真実さにも関わらず、絶えず真実な御手をもって導き続けてくださった主イエス・キリストの恵みとあわれみに感謝しつつ、この朝も、主がお語りくださるいのちのことばに聴いてまいりましょう。この朝も愛する兄弟姉妹の皆さんに主イエス・キリストの豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)教理は倫理へ
 今年の後半、「福音に生きる」というシリーズで御言葉に聴き続けてまいりました。アドベントからクリスマスの時期を挟んで、今日で最終回を迎えます。これまで聖書が語る福音とは何か、主イエスを証しする聖書、福音に仕える教会、そして聖書を通して語られる父なる神について、私たちの救い主なる御子イエス・キリストについて、さらに御子キリストが成し遂げてくださった十字架と復活による贖いの御業について、そして聖霊によってこの贖いに私たちが与っていく道筋について、義認、子とされること、聖化、栄化、最後にキリストとの結合ということで確認してきました。
 今日、このシリーズの締め括りに開かれている御言葉は、ヘブル人への手紙の終わり、13章の御言葉です。1節から5節をお読みします。「兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。結婚がすべての人に喜ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」。ここで語られていることを一言でまとめていうならば、「キリスト者の生き方」と言ってよいでしょう。あるいはこのシリーズ説教で学んで来たことを踏まえて言うならば、「福音を信じた者の生き方」としてもよいかもしれません。今回のシリーズ説教のタイトルが「福音に生きる」となっているように、そしてまたいつも申し上げているように、信仰とは生きることそのものであり、福音は単に知識として知る、あるいは一つの思想として、または観念として捉えるというものでなく、まさに生きられてこその福音だ、ということです。
 さらに教理的に整理していうならば、教理は倫理へと結実しなければならない、ということです。福音の教えは、その人の生活、その人の生き方の中に着地し、具体的にその人の生き方を変えていくものです。これは新約聖書が一貫して語るところですが、とりわけそれが顕著なのはパウロの手紙でしょう。パウロの手紙の多くは前半が教理編、後半が倫理編になっていて、しばしばその前半と後半は「そういうわけですから」と繋がって、福音の教え、教理が必然的に求める生き方、倫理へと繋がっていくのです。その逆ではないし、それらは切り離されてはいません。今日開かれているヘブル書はどうかといえば、新約聖書の中で著者が誰であるかがはっきりしない書物ですが、しかしある意味でパウロと同様に新約聖書のメッセージに沿って、まことの大祭司であるキリストについて様々に語ってきた終わりに、そのキリストにある生き方、信仰者の生き方を記しているのです。
 
(2)福音に生きる
 それでは、信じていることが、生き方の中にどのように実を結ぶのか。そこで聖書が求めているものがあると聞いて、私たちはつい身構えます。いったいどれほどの厳しい要求が突きつけられるのか。あるいはその高く完璧な基準の前に私たちはバッサリと切り捨てられるのではないかと。しかしそう思ってあらためて1節からの御言葉を読んでみますとある意味で意外な思いを抱くのではないでしょうか。兄弟愛を持て、旅人をもてなせ、牢に繋がれている人や苦しめられている人を思いやれ、結婚のきよさを保て、金銭を愛する生活をするな。確かにどれも大事、どれも決して簡単ではないけれど、しかし何か特別に厳しいもの、キリスト教信仰独特のものかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ人の生き方としては極めて常識的、真っ当なことが命じられている。それはそれで決して簡単なことではないのですが、それでもキリスト者に求められる倫理というならば、もっと高尚な、高潔なものがあるのかと思ったら、なんだ意外と普通なことではないか、とちょっと拍子抜けするということがあるかもしれないのです。
 しかし、そこで私たちが気がつかされるのは、それほどの至極常識的な生き方をあらためて聖書が求めていると言う事実です。しかもまことの大祭司キリストによる完全な贖いの恵みを1章から12章までかけて切々と語ってきたヘブル書が、それらの福音の教えを踏まえて私たちに求めているのが、兄弟を愛せ、隣人を思いやれ、夫と妻が互いに相手に忠実な愛に生きよ、金銭を愛するな、というメッセージであるという事実です。つまりそこには、まさしく冒頭から繰り返し申し上げているとおり、福音とは生きることそのものだという確信があるのです。しかも福音に生きるとは、何か特別な生き方をせよというのでない。聖人君子のように生きよというのではない。ただただひたすらひとりの人間として、しかも隣人とともに生きる人間として、ひとりでは生きられず、絶えず他者の助けや支えの中に生きる人間として、金銭で換えることのできないより価値あるものによって生かされている人間として、人間らしく生きるということにほかならない。神を信じて生きることは、私たちが真の意味で人間らしく生きる、私らしく生きるということなのです。
 その上で、あらためて私たちが気づかされることがある。それは人間らしく、自分らしく生きるということでありながら、しかし私たちが自分の力によっては兄弟のひとりをも愛することができず、旅人をもてなすことにも億劫で、まして遠くにいる会ったこともない苦しみの中にある人々について想像することができず、愛する夫や妻に対しても最初の誓いに生きることの困難さを覚え、さまざまな誘惑に駆られ、また金銭の持つ力に驚くほどに弱いという悲しいほどの現実の姿です。キリストによって表された父なる神の愛で愛されていながらなお、その愛に生きることのできない私たちがいる。まことに罪赦された罪人に過ぎない己の姿と向き合わされることになるのです。

(3)愛に留まり続けて
 そこで私たちが目を留めたいのが1節の御言葉です。「兄弟愛をいつも持っていなさい」。この言葉、他の訳では「兄弟愛を続けなさい」、直訳すると「兄弟愛に留まり続けよ」ということです。ここでの「兄弟愛」とは血の繋がりの兄弟ということでなく、10章19節以下にあるように、キリストの愛によって結ばれた神の家族、教会の交わりのことです。そしてその中心には、クリスマスに父なる神のもとから私たちのもとに来てくださり、十字架と復活を通して私たちを神の子どもとしてくださるために贖いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストがおられる。神の御子が長子となって、私たちの兄弟となってくださった。このキリストにあって私たちも神の子どもとされ、それゆえにまたそれ以外には何の繋がりも接点もなかった私たちが今や互いに「兄弟姉妹」とされているのです。その兄弟愛に留まり続けよ、と御言葉は命じます。
 それはまた、私たちにとって決して新しい教えではありません。ヨハネ福音書13章において、主イエスご自身が繰り返し繰り返し、「わたしに留まりなさい」、「わたしの言葉にとどまりなさい」、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じてくださったとおりです。その愛によって結び合わされた兄弟愛の中にあり続ける時、私たちは何度でも何度でも最初からやり直すようにしながら愛に生きることを学び、愛を学び続けることによってひとりの人として成長し、福音に生きるからだが作り上げられていくことになるのです。そしてその愛の中ですぐ近くにいる兄弟を愛することを学びながら、次第にその愛の波紋が広げられていき、愛の想像力が鍛えられていって、旅人をもてなす心、まだ見たこともない苦しみの中にある人々を思いやる心が少しずつであっても育まれ、またもっとも目の前にいる夫や妻との関係をいつも新しく整えていき、お金がすべてという価値観から自由にされて真の自由の中を生きる者へと変えられ続けて行くのです。
 大事なことは、兄弟愛に留まり続けることです。その外に出てしまってはならない。いったい私は今どこに立っているのか。場所の問題はきわめて重要です。兄弟愛の交わりの外に身を置いて、そこからその交わりについて批評しても何も変わらない。兄弟愛の交わりを背負うことなしに、その労苦をともに担うことなしに、その痛みやその忍耐をともに味わうことなしには、決して経験することのできない喜びや恵みの世界があるのです。互いに愛し合いなさ、互いに仕え合いなさいと言われた主イエスの命令に生きることなしには決して分からない世界がある。キリストの示してくださった愛の中に留まり続けるというのはそういうことです。自分もその愛を必要としているひとりだという気づきがなければ、私たちはいつしか気づかぬうちに自分を他者より一段高いところにおいて、愛の与え手のポジションに立つようになってしまいやすいものです。実は一番兄弟愛を必要としているのは私自身だ、「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」との主イエスの教えのごとく、まず自分が神の愛を必要としている弱い罪人のひとりだという気づきから始まっていく世界が私たちの前には広がっているのです。

(4)わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない
 そこで最後にヘブル書の著者が記すのがこの言葉です。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」。この言葉は直前の5節の「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」との勧めを裏付ける根拠としての言葉として読むのが自然ですが、しかし単に5節だけに限らず1節から5節までのキリスト者の生き方全体を支える言葉としても読むことがふさわしいでしょう。
 キリスト教信仰とは何かと言われれば、突き詰めると「わたしはあなたとともにいる」と言ってくださる神がおられるということです。しかもその言葉が具体的に姿かたちをとって「インマヌエル」なる主イエス・キリストが私とともにいてくださり、「見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます」と言ってくださり、「あなたを捨てて孤児にはしない」と言って助け主の聖霊を送ってくださり、今もそのお約束の通りに御言葉と御霊によって、この礼拝においてもご自身の臨在をあらわしてくださっているのです。そのお方が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われる。キリストの示された愛の中に、その愛の具体的な現れである兄弟愛の中に留まり続けよと命じられるキリストご自身が、その私たちの内に留まり続け、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言ってくださるのです。
 この言葉は旧約聖書の申命記31章6節からの引用と言われます。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。申命記とは出エジプトを果たしたイスラエルの民が、四十年に及ぶ荒野の旅路の果てにいよいよ約束の地カナンに入って行こうとする前に、モーセを通して神が語られた説教集です。その荒野の四十年の終わりに神が語られた言葉が「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」でした。私たちもまた信仰の旅路を続けながら、荒野のような道を通りながら、新しく主が示してくださる約束の地に向けての一歩を踏み出そうとしています。これまでの50年を振り返り、これからの新しい年を仰ぎ見る場所に今立たせられて、主の御声に聴いています。そこでこの朝、私たちは改めて、そして新しく、主のお約束の言葉を聴き、それを握りしめて一歩を踏み出して行きたいと願います。
 すべての見通しが立っているわけではありません。どういう道を通るかも分かりません。どんな労苦が待っているかも分かりません。誰もそれがすべて分かっている人はいない。しかし人間的な算段、見通し、完璧なプランによって私たちは進むのでしょうか。そうではありません。確かに私たちに与えられている知恵、工夫、努力、アイデア、あらゆるものを注ぎ込みながら、また足りないところは補い合いながら、知らないことは謙虚に教えられながら、しかし最後に頼みとするのはやはり生ける神ご自身であり、その神のお約束です。この私たちを生かしたもう主イエス・キリストの父なる神を信じ、その確かで真実な約束を信じて、この一年を締め括り、新しい2015年の歩みへと信仰をもって一歩を踏み出してまいりたいと願います。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。

 

 



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