シリーズ「福音に生きる」その13  2014/11/09
『ひるがえって、新しく生きる』

ヨハネ3:1−15

 11月第二の主の日を迎えました。今日は礼拝の中で子ども祝福式が執り行われました。それぞれのご家庭に委ねられた子どもたち一人一人に、また親として子どもたち託されたご家庭に、そして神の家族となって子どもたちのために執り成し祈る、愛する兄弟姉妹の皆さんに主イエス・キリストの豊かな祝福がありますようにと祈ります。

(1)神の子どもとして歩む
 私たちはこの年の後半、「福音に生きる」というシリーズで御言葉に聴き続けています。聖書が明らかにする「福音」とは何か、その福音を信じる「信仰」とは何か、そして福音を信じることによって救われるという「救い」とは何か。それらを一つ一つ取り上げて来ました。この救いの教えを「教理」と言いますが、私はこの教会の牧会の中で「教理」を教え、学ぶことを大切にしてきました。特に夕拝や祈祷会でそのことを実践してきたつもりですし、朝の礼拝でも連続講解説教においても、またこのような主題説教においても教理的なポイントをできるだけ明確にするということを心がけてきました。そこでは福音の教えを繰り返し教えられ、教理を正しく身につけることで、私たちが福音によって生きる者とされていくことができるという確信があるからです。福音によって生きる者となる。それが神の子どもとされて生きる私たちの歩みなのです。
 この秋に、日本基督改革派教会から「子どもと親のカテキズム」という書物が出版されました。子どもたちの信仰教育のために作られたカテキズム、信仰問答ですが、大人が学んでも実にすぐれたよいもので、教会でも機会を持って学びたいと願っています。その第1問にこうあります。「問:私たちにとって一番大切なことは何ですか。答:神さまの子どもとして、神さまと共に歩むことです」。私たち人間にとって一番大切なこと。皆さんだったら何と答えるでしょうか。あるいは子どもたちに人生で一番大切なことを伝えるとしたら何だと言うでしょうか。このカテキズムは「神さまと共に歩むことです」と答えるのですが、何と言ってもそこで大事なのは「神さまの子どもとして」ということです。人が生きる上で最も大切なこと、それは神の子どもとして歩むこと。「歩む」というのは「生きる」ことそのものと言ってよいでしょう。そして神の子どもとして歩む道は、皆さん一人一人の前に今日も開かれて、備えられています。そのことを明らかにするのが今朝与えられているヨハネ福音書3章の御言葉です。
 1節、2節をお読みします。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません』」。福音書はここでニコデモという人物を短く紹介します。彼は「パリサイ人」であり、ユダヤ教の指導者といわれます。パリサイ人というのは当時のユダヤ教の主流を為す一派で旧約の律法を厳格に守る人々であり、福音書においてはしばしば主イエスの登場を苦々しく思って対立し、主イエスを十字架に追い込んでいくような人々でした。ニコデモはこのパリサイ派に属する律法学者であり、「ユダヤ人の指導者」と呼ばれているようにユダヤ社会の中で行政や司法を司るサンヘドリンと呼ばれる議会のメンバーでもあったようです。そうしますとこのニコデモが主イエスのもとを尋ねてきたということが決して当たり前ではなかったことが分かってくるでしょう。いったい彼はどのような思いで主イエスのもとを訪ねて来たのか。このニコデモの姿には私たちの姿が映し出されているようにも思えるのです。

(2)ニコデモに見る私たちの姿
 夜に主イエスのもとを訪ねてきたニコデモの心の内を想像するときに、私たちが感じるのと同じような心の動きを見ることができるのではないでしょうか。パリサイ派の律法学者でユダヤ人の指導者でもあったニコデモが主イエスのもとにやって来る。この姿について多くの注解者、説教者がこれを肯定的に見たり、あるいは否定的に見たりしています。否定的なニュアンスで見れば、ここでのニコデモの姿は夜の闇の中を人目を憚るようにして主イエスのもとにやって来る姿です。そこには彼の周囲の目を気にする恐れ、あるいはプライドが入り混じっていたのかも知れません。他人には見られたくない、しかし主イエスのもとに行ってみたい。そういう中で彼は夜、ここにやってきたというわけです。一方で彼の振るまいを肯定的に見ることもできるでしょう。はニコデモが主イエスのもとに来たのは決して冷やかし半分ではなく、そこには真剣さがあったということでしょう。
 皆さんが教会に来られたいきさつにも、このようなニコデモと同じような心の動きがあったのではないでしょうか。周囲の目を気にしながら教会の扉をくぐるという方があるかもしれません。あるいは真剣な求めを持ってじっくりと聖書に耳を傾けるために主のもとに来るという方もあったでしょう。しかしどのような心の動きであろうとも、大切なのはとにかく主イエスのもとに来るということです。そこにはすでに主イエスの側からの皆さんお一人一人に対する招きがある。私たちの側で決断し、勇気を出して主の御前に来たのですが、しかし実は主イエスがそのようにして私たちを招き、ご自身のもとに導いてくださっているのであって、主の招きを拒むことなく御前に進み出ることが、まず必要な第一歩なのです。
 それでは私たちはどのようにして主イエスを知り、どのようにして主イエスを信じるまことの信仰へと導かれて行くことができるのでしょうか。この大切な事柄について主イエスご自身の御声に聞いておきたいと思います。3節。「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません』」。ここでの主イエスとニコデモのやりとりも一読するとすれ違って噛み合わない対話のように聞こえますが、主イエスが語っておられることは一貫しています。主イエス・キリストを信じるまことの信仰がどのように私たちにもたらされるのか。主イエスはそれを「新しく生まれる」と言われるのです。ここで「まことに、まことに、あなたに告げます」とはこれから先もたびたび出てくる決まった言い回しですが、「アーメン、アーメン」という言葉です。これこそ確か、これこそ真実、これこそ真理の言葉だということを主イエスご自身が明らかにしつつ語ってくださる言葉です。主はそのような確かな言葉として「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」すなわちまことの信仰をいただいて救われて生きるためにどうしても必要なこと、一番必要なこと、それは「新しく生まれる」ことだというのです。

(3)新しく生まれる
 するとニコデモは、この言葉をも彼の価値観の中で捕らえようとするのでその意味を理解することができずに重ねて問いかける。4節。「ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか』」。これに対して主イエスは重ねて言われるのです。5節。「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません』」。ここで主イエスが言われた3節と5節の言葉は多少の表現の違いがありますが、まったく同じこと、一つのことを言っておられます。3節で「新しく生まれなければ」と言われたのを、5節では「水と御霊によって生まれなければ」と言い替えておられますが、ここで主イエスが言わんとしておられることは実にはっきりしている。すなわちそれは「洗礼」、「バプテスマ」ということです。つまりここで主イエスは洗礼の恵みを指してこれを「新しく生まれる」と言い、しかもそれが「水と御霊によって生まれる」ことだと言っておられるのです。
 「新しく生まれる」という時の「新しく」という言葉にはもう一つの意味があります。それは「上から」ということです。ヨハネ福音書において主イエスが語ってくださる「新しく生まれる」とは、私たちが自分の人生を初めからやり直し、生き直すということではない。今までの自分の人生は失敗だったから、自分の生い立ち、生まれ育った環境、親や家族との関係、自分の過去には様々な問題があるから、それでこういう自分の人生になってしまったから、もう一度リセットして、はじめに戻って最初からやり直す。そういうことではないのです。主イエスがくださるのは過去を清算して、上書きして、あらためて最初から生き直すというのでなく、私たちを今あるところで新しく、上から生まれさせてくださるというのです。それが主イエスにある新しいいのちであり、まことの信仰の道筋なのです。それはいつからでも、どこからでも始められる新しいいのちの始まりです。そしてこの新しいいのちのはじまりのしるしが「水と御霊によって生まれる」洗礼の恵みです。
 主イエスはさらにこうも言われます。7節、8節。「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」。ここで主イエスは「新しく生まれる」、「水と御霊によって生まれる」とは、「御霊によって生まれる」、つまり聖霊によって生まれるということだと言われます。それは全く新しいいのちへの招きの言葉です。ここに大切な真理が語られていることをはっきりと聞き取っておきたいと思うのです。

(4)ひるがえって、新しく生きる
 ヨハネ福音書において主イエスがニコデモに「上から生まれる」と語られたとき、そこでの「上から」とはこのように主イエスご自身が十字架の上げられた「上から」、そして天の父のもとに上げられた「上から」なのであって、私たちはどんなに罪の中にまみれていても、そこから十字架に上げられた主イエス・キリストを仰ぎ見るときに生きることができる。天へと上げられた主イエス・キリストを仰ぎ見るときに、永遠のいのちを持つことができるのです。深い悲しみに沈むとき、悩みの淵に喘ぐとき、人生の目的が見えず、絶望の闇の中に吸い込まれそうになるとき、この高く上げられた主イエス・キリストを仰ぐなら、ただそれだけで生きることができる。聖霊が私の痛む心、悩む心、傷ついた心を神の息吹によって癒し、生かし、上を仰がせてくださる。どんな艱難の中にあっても、苦しみの中にあっても私たちには絶望ではなく、希望の神がいてくださいます。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」とローマ書5章でパウロが語る通りです。
 人生どんな地点にあってもそこで主イエス・キリストと出会うなら、そして神の恵みに与るなら、そこで人は神へと鮮やかにひるがえって生きることができる。まさに聖書が教えるのは悔い改めて回心すること、人生に全く新しい方向転換が起こることなのです。IIコリント5章17節。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。まさに悔い改めとはキリストにあって私たちが新しいものとされることです。そして悔い改めた者は、二度と再び古い生き方に舞い戻ることはありません。私たちは過去に縛られたり、過去にとらわれたり、過去に責められたり、あるいは過去に魅せられたりして生きるのでなく、もう振り向かずにひるがえって前に向かって生きていくことができる。この恵みをいただいて、前を向いて、確かな足取りで赦しの恵みの中を新しく歩んでまいりましょう。

 

 



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