シリーズ「福音に生きる」その12・召天者記念主日礼拝  2014/11/02
『主と同じすがたに』

IIコリント3:18

 今日は11月第一の主日で、私たちの教会ではこの日を「召天者記念礼拝」としておささげしています。地上の生涯を終えて先に主の御許に召された愛する方々を偲び、ご遺族に聖霊による新しい慰めが与えられるよう願い、私たちもやがてはこの地上の生を終えて主のもとに召されて行くべき存在であることを覚え、やがてのよみがえりの朝に、再び主の御前にあって再会する時を待ち望む時でもあるのです。この希望のゆえに、背筋を伸ばし、顔を上げて、天を見上げての歩みを進めてまいりましょう。この朝も天と地を繋ぐこの礼拝に招かれた愛するお一人一人に主の豊かな祝福をお祈りいたします。

(1)「聖徒」とは誰か
 先週の主日は宗教改革の礼拝でした。1517年10月31日にマルティン・ルターがウィッテンベルク城教会の掲示板に95箇条を提示したのがその始まり、というエピソードをご紹介しましたが、なぜ10月31日だったのでしょうか。調べてみると1517年の10月31日は日曜日、そして翌11月1日はカトリック教会では「諸聖人の日」という、天に召された「聖人」たちを記念する大切な日で、多くの人々が集まってくる時だったようです。ルターとしてはなるべく沢山の人々が集まるタイミングを見計らい、人々の注目を集めようという目論見があったのではと考える人もいるほどです。そして今では11月第一の日曜日が「諸聖人の日」となっているのですが、私たちプロテスタントの信仰においては「聖人」という考えはありませんから、むしろ先に主の御許に召された信仰者を記念する日としてこの日を過ごしているのです。
 今日も皆さんのお手元に、私たちの教会の関わりの中で天に召された方々のお名前を記した一覧をお配りしています。斉藤一先生からはじまって今年1月1日の明け方に召された生田永二兄まで。教会員の方もあれば、洗礼を受けるには至らずとも信仰を告白して召された方々、生まれて間もなく天に召された幼子、どうして、と思うような最後を遂げた方、病床で信仰を言い表して天翔けて行かれた方々など、実に様々です。いつも思うのですが、この礼拝は今ここにいる私たちだけでささげているのではない。今は主の御許にあって眠っており、やがてのよみがえりの朝を待っているこれらの愛する方々もともに、天と地を結ぶ礼拝をここでささげているのだという驚くべき事実です。
 そして、これらの人々もまた確かに「聖徒」と呼ばれるに相応しい人々であったと思うのです。確かにカトリック教会のような意味で、大きな善行によって功徳を積んだ人ということでなかったとしても、むしろ聖書の語る本来の意味で彼らは「聖徒」と呼ばれるにふさわしい人々であったと確信するのです。旧約聖書の詩篇116篇15節にこうあります。「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」。新共同訳聖書ではここを「主のいつくしみ生きた人」と訳しています。「聖徒」とは誰か、それは主のいつくしみに生きた人。そうであれば
間違いなく確かに、ここに名前のある人々は、そしてやがてここに名を連ねて行くであろう私たちもまた、「聖徒」と呼ばれるに相応しい者であると言うことができるのです。
(2)義とされ、聖とされ
 これまで数回にわたって、イエス・キリストの十字架と復活による贖いの御業によって罪赦され、神の子どもにされること、これがキリスト教信仰の言う「救い」だということを申し上げてきました。このことをもう少し丁寧に言い直してみると、罪ある私たちが自分の力では神の御前に自分を正しい者とすることができない。どんなに努力し、善行に励んでみても、それによって神の基準に達することはできない。むしろしようと思う善を行うよりも、したくないと思う悪を行ってしまう。それほどに私たちには全面的への傾きがある。しかし父なる神はそんな私たちをあわれみ、まったく罪のないご自身の御子イエス・キリストをお遣わしになり、キリストがそんな私の罪の身代わりとなって十字架に死んでくださった。それによって神のさばきをすべてその身に引き受け、それだけでなく、死から復活されることによって神の基準をすべて満たし、罪の赦しと永遠のいのちを勝ち取ってくださったのです。さらに父なる神は御子の御霊である聖霊を私たちに送り、このキリストの勝ち取った義を私たちに与え、罪ある者であった私たちにキリストの正しさという上着を着せてくださり、私たちを新しい人として作り替え、キリストのゆえに私を神の御前に義なる者として認めてくださり、さらには神の子どもとしての祝福に与らせてくださったのです。しかもそれらすべては私たちに恵みとして与えられ、私たちは何ら自分の行いによらず、ただこの救い主イエス・キリストを信じるだけで神の御前に義と認められ、キリストと一つに結び合わされ、神の子ども、自由の子どもとして神の国の祝福を受け継ぐ者とさせていただいた。これを教理の言葉で「義認」と呼び、これが私たちの救いの中心にあるものなのです。
 しかし、キリストによって義と認められた、それで救いは完成か、というとそうではありません。キリストによって義と認められた私たちは、今度はこのキリストの聖さに結び合わされて私たちも聖い者へと変えられていく道を進み、ついにはキリストに似た者になると御言葉は語るのです。それが今日の二コリント3章18節が語るところです。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」。ここで語られていることをやはり教理の言葉で言い表すと、聖なる者とされていく「聖化」と、やがて聖化の完成としてキリストと同じ姿に変えられる「栄化」ということになります。「義認」、「子とされること」、「聖化」、そして「栄化」。これらはぜひ覚えておいていただきたい私たちの救いの教理です。
 特にこの朝おぼえたいのは、この聖化から栄化への道筋についてです。キリストの贖いによって義と認められた私たちは、罪の奴隷の状態から神の子ども、自由の子どもとしての立場へと移し替えられました。この変化は決定的であり、決して後戻りしたり、取り消されることのない確かなものです。しかし前回学んだように,神の子どもとして新しく生まれた私たちは、キリストの聖さにあずかってさらに成長していくのです。それはまさに私たちが生きることそのものであり、生活の問題です。私たちはこの地上にありながら、もはや神の子どもであり、天の御国の民とされています。それゆえに、この天の御国の価値観を基準としてこの地上を生きていくのであり、食べるにも、飲むにも、何をするにも神の栄光をあらわすためと御言葉によって教えられているように、具体的な生活の中で、神の栄光をあらわすべく、日々の歩みの中で聖さを追い求めていくのです。

(3)主と同じすがたに
 そうであるならば、私たちがキリスト者になる前と後とで、私たちの生活が何も変わらないということはありえないことです。それまで自分が価値を置いていたもの、握り締めていたもの、離れることができずにいたこと、それらのものを「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」、「ちりあくた」とし、あるものを捨て去り、新しい人を着せられ、聖い生活が始まっていく。そこにはある決断が伴いますが、そうして私たちの聖化の歩みは続けられていく。時にはアップダウンしたり、停滞したり、著しく成長したり、ともかく一足一足、私たちの日々の小さな一歩の積み重ねの中で、主と同じすがたに変えられていく歩みは続けられていくのです。
 ではそのような私たちの聖化の歩みはいつまで続き、どこが到達点、ゴールなのでしょうか。聖書は私たちの聖化の歩みのゴールはこの地上ではなく、天の御国であり、そこで到達する完成の姿は、実に、イエス・キリストと同じ栄光の姿に変えられることであると教えます。これを教理の言葉で「栄化」と言うのです。もう一度、今日の御言葉に注目しましょう。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」。ここには、私たちに約束されている最終的な到達点の姿がはっきりと語られています。私たちのイエス・キリストを信じて生きる聖化の歩みは、もはや覆いがかかったようにして律法の目標であるイエス・キリストをはっきりと見ることをしない古きイスラエルのようではなく、今や聖霊によって覆いを取りのけられて、はっきりとキリストの栄光を仰ぎ見ることの許されており、そのようにして、日ごとにキリストを仰ぎながら、鏡のようにキリストの栄光を反映させながら、栄光から栄光へと進んでいく歩みであるというのです。
 そしてそのような歩みの最終的なゴールにあるのが「主と同じかたちに姿を変えられていく」という栄化の恵みなのです。パウロはこのことについて、?コリント15章42節以降でこう語っています。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」。このように聖化の完成である栄化の恵み、キリストと同じかたちに変えられる恵みは、終わりの時にもたらされる私たちの望みです。この恵みを望みとして、私たちの地上の歩みはなお続いていくのです。 

(4)苦難から栄光への道を
 それゆえにまた、私たちの栄化を目指す聖化の歩みは、私たちの望みであるキリストに従う歩みであることをも意味しています。パウロはガラテヤ2章20節で次のように教えます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。私たちに聖化の歩みは、聖霊によってキリストを内に宿し、キリストご自身が私の内に生きてくださる歩みです。そしてそのキリストの御言葉に導かれ、キリストの命に生かされ、キリストの御心に沿って、キリストの栄光のお姿を望みとして私たちの歩みは導かれていく。それらを一言でまとめて言うならば、まさしくそれは「キリストに従う」という歩みに他なりません。
 ボンヘッファーが彼の主著の一つである『服従』の中で、その結論的な言葉として次のように言っていますに語られる言葉です。「イエス・キリストの御生涯は、この地上ではまだ終わってはいない。キリストはその御生涯を、キリストに従う者たちの中でさらに生きたもう」。主イエス・キリストと同じかたちにされていく栄化の時を目指して進む聖化の歩みは、私たちが特別な人間になること、誇らしく輝かしい人間になること、完璧な理想の人間になること、自分がなりたい自分になること、そのような上昇志向の自己実現の歩みではありません。むしろ高きの極みから低きの極みへと下られたキリストの後につき従う歩みであり、それは苦難と服従の歩みです。しかしそのようにして私たちがキリストのお姿にならいつつ、その愛に生かされて歩むとき、そこに本当の意味での、聖なる者とされることが成し遂げられていくのです。
 主に従って生きたひとりひとりの兄弟姉妹たちを思い起こすとき、これらの聖徒たちもやがて栄光の内にキリストと同じすがたによみがえらされる、その時を待ち望む思いが一層強められます。そして私たちもまた、この栄化の恵みに与るまで、地上における神の子どもとしての歩みを、聖なる者としての歩みを続けてまいりたいと願います。苦難から栄光へと進まれた御子イエス・キリストの十字架の御足の跡を辿りつつ、天を見上げて、十字架を背負って、しかし決して悲観的にならず、絶望もせず、終わりから一歩手前の真剣さと自由と,喜びの中を、御国を目指す旅路へと今日からまた赴いてまいりましょう。

 

 



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