シリーズ「福音に生きる」その11・宗教改革記念礼拝   2014/10/26
『神の子どもとされる幸い』

ローマ8:12-17

 今日は宗教改革記念の主日です。私たちの信仰の原点を確認するこの朝、父なる神の御ひとり子イエス・キリストによって、神の子どもとされた私たちの幸いを覚えつつ、ご一緒に御名をあがめ、心からの礼拝をおささげしてまいりましょう。愛する兄弟姉妹の皆さんの上に、主の豊かな祝福がありますように。

(1)罪の赦しを巡って
 宗教改革とは、1517年の10月31日、ドイツのヴィッテンベルク城教会の大学掲示板に修道士マルティン・ルターが討論を呼びかける『95箇条の提題』を掲げたことから始まったものです。この提題の中身を一言で言うならば、当時のローマ・カトリック教会が教えていた贖宥状制度、もう少し聞き慣れた言葉で言うと「免罪符」、つまり「罪の赦しをお金で買う」ということが本当に聖書に基づいた教えなのか、罪の赦しの権威は誰が持っているのか、そのことを聖書に基づいて論じ合おうというものでした。これがきっかけとなり、またご存じのように活版印刷技術の発明と発展とも重なって、次々とルターの言葉や文書が印刷され、ドイツ各地はもとよりヨーロッパ全土に広がって、世界史的な出来事となっていったのです。聖書以外の教会の言い伝えなどに権威を置かない「聖書のみ」という考え、誰もが罪の赦しを恵みによって与えられるという「万人祭司」という考え、そして救いは人の行いによるのでなく、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、という「信仰のみ」と言う考え、これらをもってローマ・カトリック教会に袂を分かって立ち上がった教会を「プロテスタント教会」と呼び、それが今の私たちに受け継がれているのです。
 キリスト教信仰の中心がイエス・キリストの十字架と復活にあるということをこれまで学んでまいりました。十字架がなければ、復活がなければ、私たちの信仰は成り立たない。十字架抜きの、復活抜きのキリスト教はあり得ない、ということを申し上げてきました。なぜこの出来事が中心なのか。それは私たちの救いがまさにこの出来事に掛かっているからです。ではキリストによる救いとは何か。これこそがまさに宗教改革の中心テーマであったと言えるでしょう。ルターが罪の赦しの権威を巡ってローマを向こうに回しての論争に挑んだのも、突き詰めればまさに救いとは何か、どうしたら私が救われるのか、という切実な問いがあったからなのです。聖書が教える救い、それは罪ある私たちがイエス・キリストの十字架と復活によって罪赦され、神の怒りとさばきを免れ、神の御前に無罪を宣告され、そればかりか罪なき者と認められ、聖なる者とされていくということです。それを一言でいうならば、私たちが神の子どもとされるということ、これが聖書の語る「救い」ということなのです。

(2)「肉においての生」から「霊における生」へ
 この消息を語るのがローマ人への手紙です。いずれローマ書全体を礼拝で取り上げたいと願っていますが、今日は与えられている8章で神の子どもとされることの消息が語られています。12節から14節。「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊によって導かれる人は、だれでも神の子どもです」。パウロはここで罪の中に生きる私たちを「肉に従って歩む」人と言い、キリストの十字架と復活を信じ救われて生きる私たちを「御霊によって導かれる」と人と言い、この御霊によって導かれる人を「神の子ども」と言っています。また他の箇所では肉に属する人、罪の奴隷と、御霊に属する人、神の子どもという対比を使って語ってもいます。
 つまりかつての私たちは肉に属し、肉に従って生きていた。それは自分では自分の好きなように生きていたつもりであったけれど、実際にはそれは不自由極まりない罪の奴隷だったというのです。ガラテヤ書5章19節、20節では次のように言われています。「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです」。こういうものを好きこのんで喜んでしていると言う人は少ないかもしれませんが、しかしいやだいやだと思いながら、したくない罪を犯し、自己嫌悪に陥り、その堂々巡りから抜け出すことができず、開き直ってさらに罪の深みに入り込んでいくか、あるいは自暴自棄になって自分を傷付けていくか、しかし結局のところは自分の力ではどうしようもないほどに自分の罪に対してまったく無力な自分自身の姿に気づく。まさに「罪の奴隷」というほかないのが私たちの姿なのではないでしょうか。
 しかしそんな私たちを罪の赦し、罪の奴隷の状態から解放し、まことの自由の中へと解き放ってくださった。それが御子イエス・キリストによる救い、十字架と復活による贖いです。「もうだめだ」と諦めてしまわなくてよい。「どうせ自分は変わらない」と投げ槍になることはない。あなたは変わることができる。奴隷の状態から抜け出すことができる。それがイエス・キリストが差し出してくださる救いです。しかもその救いは無償で、ただ恵みによって与えられる。罪の赦しをお金で買うのではない。善行を積み上げて勝ち取るのではない。救いにあずかるのは私の何かによるのではなく、ただ神の主権的で自由なる愛、私を愛してやなまい父なる神の愛、ひとり子イエス・キリストを賜るほどに私たちを愛してやまない父の愛のゆえなのです。それで15節、16節ではこう言われるのです。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。
 私が神の子どもとして生きる者となるために、神の御子がご自分のいのちを差し出してくださった。私を奴隷の状態から解放するために、私の身代金をそっくり肩代わりしてくださった。それがイエス・キリストの十字架と復活の意味です。そして肉の状態、罪の奴隷から御霊に属する人、神の子どもへと変えられるとき、私たちは御霊の実を結ぶ、と聖書は教えます。ガラテヤ書5章22節にこうあるとおりです。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。神の子どもたちが身に帯びるしるし、それがここにある御霊の実です。自分自身を振り返れば、とてもこのような品性を身につけているとは思えない、欠けだらけ、傷だらけの者ですが、それでもあの奴隷の状態に逆戻りしたいとは思わない。できていないけれど目指して行きたい。まだ途上だけれど諦めずに進んで行きたい。そんな歩みを続けて行きたいと願うのです。

(3)神の子どもとされる幸い
 イエス・キリストにあるなら、私たちは神の子どもとされる。そして二度とその身分は奪われず、むしろ神の子どもとして育まれていく。奴隷と子どもの違い。それは失敗しても赦される、決して捨てられることがない、いろいろあっても最後にはどこからでも帰って行ける、ということでしょう。赦してもらえない、というほどつらいことはありません。私自身もこれまでの歩みの中で、そういう人間関係の中に置かれたことが幾度かあります。牧師なのに相手に赦されないほどのことをしたというのも本当に情けなく、申し訳ないことです。どれほど償っても、どれほど謝っても、どれほど誠心誠意を示しても、相手が「赦すよ」と言ってくれなければ、こちらから相手に赦しを強いることはできない、これだけ謝ったのだからあなたは私を赦すべきだ、私はあなたに赦される権利がある、資格がある、とは言えない。赦しは基本的に受け身のことです。しかしそれだけに赦される喜びもまた忘れられないものとなるのです。
 今、夕拝でルカ15章の放蕩息子の物語を味わっていますが、まさにあの弟息子の父のもとに帰る姿そのものです。変わり果てた姿の息子はもはや子と呼ばれる資格がない、雇い人のひとりにしてもらおうと思って家路に着く。しかし父はそんな彼が家に辿り着く前に彼の姿を見つけ、走って行って抱きしめて、死んでいた息子が生きて帰って来たといって喜ぶのです。こちらはもうだめだと思っても、父は諦めていない。もう自分は帰れないと思っても、父はいまも待っている。そういう愛で私たちは愛されている。あなたの罪を赦した。もうその罪を思い出さない。もう過去の姿であなたを見ない。くどくどとあなたの罪を掘り返さない。たとえどんな罪を過去に犯したとしても、あなたがわたしの子であることに何ら変わりはない。なぜならそのために御子イエス・キリストが十字架に死に、よみがえられたのだ。これが父なる神の私たちに対する愛なのです。
 そして最後に、神の子どもとされる幸いは、御子イエス・キリストとともに父なる神から遺産相続人となるということです。17節。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」。ちょうどお兄さんがイエス・キリスト、私たちはその弟、妹たちのようになって父なる神の遺産を相続する者とされたというのです。神の相続人、キリストとの共同相続人。そこで受け継ぐのは神の国の祝福です。地上の金銀財産、地位や名誉などまったく色あせてしまうほどの、どれだけの金銀を払っても足りないほどに価値ある祝福、それが神の国を受け継ぐという祝福です。この地上にありながら、この地上を越えた神の国の祝福に与って生きる。そしてやがてはこの肉体の死をさえ越えて、神の国の完成の中を生きる永遠のいのちが与えられる。この希望があるので、決して失望に終わらない希望があるので、私たちはキリストと苦難をともにしていてもなお、このお方にあって生きていくことができるのです。これからの時代、キリストとともに生きる人生には苦難が伴います。キリストの名のゆえに苦しめられたり、辱められたり、口を封じられたり、自由を奪われたりするでしょう。しかし聖書は言います。「キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです」。
 神の子どもとされた私たちは、その幸いの中を生きていく。もはや奴隷ではなく、自由な者として生きていく。誰の奴隷にもならず、誰にも自由を奪われず、誰をも恐れることなく、死をさえ恐れることなく、神の子どもとして、自由の子どもとして、真に恐れるべき方を恐れることによって、この道を生きていく。そういうぶれない生き方を主は私たちに与えてくださっています。
 かつて一介の修道士ルターは、ヴォルムスの国会で大ローマ・カトリック教会を向こうにまわし、聖書一冊を握りしめて、神の言葉と神の御前での良心によらなければ自分の考えを撤回することはできないと言ってのけ、後に「あの時、私が教会だった」と振り返ったと言われます。恐れるべき方を恐れるとき、恐れるに足らないものを恐れない生き方を得ることができる。愛していてくれる父を知るとき、子とされた私たちは本当の自由を生きることができる。この神の子どもとされた幸いの中を今日からまた歩んでいきましょう。

 

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.