シリーズ「福音に生きる」その10 2014/10/19
『復活の主と生きる』

Iコリント15:12-20

 10月も半ばを過ぎて、秋の深まりの中に恵みの日々が与えられていることを感謝します。今日も生かされている恵みを感謝し、喜びつつ、いのちの主なるイエス・キリストの生ける御声にご一緒に聴いてまいりましょう。愛する皆さんの上に、主イエス・キリストの恵みと平安があるように心から祈ります。

(1)復活の信仰の確かさ
 もうすぐ11月の召天者記念礼拝を迎えます。そこで先日ご遺族の方々に御案内のお葉書をお送りしたのですが、あらためて主の御許に召された方々のお名前を見ながら、特に私が牧会して14年間の間に天に送ってきた方々のことを思い起こし、いろいろと思い巡らすこととなりました。そしてあらためて主イエス・キリストによって救われた者には、天の御国の約束とやがてのよみがえりの希望が与えられている。この復活の信仰がどれほど慰めに満ちたものであるかをあらためて覚えたことでした。
 主イエスを信じ、救われて神の子どもとされた私たちは、「わたしはあなたとともにいる」と言われる主イエス・キリストに結び合わされて、このお方とともに生きる人生に招き入れられました。しかも私たちの罪の身代わりとなって十字架に死なれ、三日目に復活された主イエスは「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」、「わたしはあなたを離れず、またあなたを捨てない」と仰せくださいました。キリスト教信仰は決して現世だけの事柄に関わるものではない。むしろ死を越えて生きる永遠のいのちに関わる信仰です。主イエスのよみがえりを信じる私たちは、このキリストに結ばれているがゆえに私たちもまた死を越えて生きる望みが与えられ、やがては私たちもまた復活の祝福に与るものとされる。ここに信仰の真髄ともいうべきものがあるのです。しかしこの信仰の真髄が同時に信仰に導かれるにあたっての最大の躓きでもあることは確かです。それで使徒パウロはこのコリント人への手紙において、キリストの復活の確かさと、キリストの復活によって約束されたキリストにある者たちの復活の希望について語るのでした。
 12節から19節。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」。
 このように御言葉は、もし復活がなかったら、私たちの信じる信仰も、宣べ伝える福音の宣教も、そして罪の赦しすらも実質のないむなしいものとなり、それどころか、「神について偽証をした者ということにな」ってしまうのであって、死の恐れに飲み込まれ、何の希望も慰めもなく生きるほかない者となってしまうと言うのです。しかし聖書ははっきりと御子イエス・キリストの復活の事実を語り、しかもそれが私たちに希望と慰めと益を与えることを示しています。

(2)復活の信仰がもたらす益
 主イエスの復活を信じる信仰がもたらす希望、それは主イエスを信じる私たちにも死に打ち勝ち、永遠のいのちにあずかることが約束されているという希望です。これがなければキリスト教信仰はもはやキリスト教信仰でなくなってしまう。それこそ何の意味も持たないものになってしまうのです。そこで私たちが今晩しっかりと心に刻みつけておきたいのが20節、21節の御言葉です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです」。
 「今やキリストは死者の中からよみがえられた」。この宣言ともいうべき言葉を、そのまま自らの信仰の告白として言い表すことができることほど幸いなことはありません。パウロは12節からの議論で「もしも復活がなかったら」、「もしもキリストがよみがえらなかったのなら」とくり返し仮定の言葉を綴りました。私たちの「もしも」は「そうでなかったら」という不確かさを含むものですが、聖書の「もしも」は実に確かな事実を際立たせるための反語的な表現です。つまりパウロが最初から最も確かなこととして力を込めて言いたかった言葉こそが、この「今やキリストは死者の中からよみがえられた」、今や、確かに、事実として、現実として、主はよみがえられた、という高らかな宣言です。
 いつもご紹介するハイデルベルク信仰問答の第45問では「キリストのよみがえりは、私たちにどのような益をもたらしますか」と問います。「益」を問うというのはこの信仰問答の重要な特色ですが、ここでは復活の益を三つにまとめて説明しています。「第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によって私たちのために獲得された義に私たちを与らせて下さる、ということ。第二に、その御力によって私たちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。第三に、私たちにとって、キリストのよみがえりは私たちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです」。
 ここでは復活がもたらす益が「すでになされたこと」、すなわち過去のこと、次に「今なされていること」、すなわち現在のこと、そして「これからなされること」、すなわち未来のことという三つの局面で説明されています。第一の「すでになされたこと」とは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが決定的かつ一回的に義と認められているということです。第二の「今なされていること」とは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストの獲得してくださった永遠の命の祝福の中に生かされているということです。そして第三の「これからなされること」とはキリストの復活がやがての時に迎える私たちの復活の保証であり、初穂であるということです。ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となるのであって、この希望が確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力となって私たちに及んでくるのです。この希望の力に生きることができるところに、復活の信仰の最大の益があるといえるのです。

(3)見つからない喜び
 ここで、ルカ福音書24章に記された主イエスのよみがえりの朝の姿を見ておきましょう。そこには十字架の出来事から三日目の日曜日の朝、墓を訪れた女たちの姿が描かれています。そこでは墓がからっぽで主イエスの亡骸が見あたらないのをみて途方に暮れる女たちに、御使いが近づいてこう語ったというのです。5節。「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう』」。ここで御使いは「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」と語りかけます。十字架で死なれた主イエスがここにはおられない。なぜなら主イエスはよみがえられたからだと。「誰かに盗まれた」とか「墓を間違えた」などと人間が想像するような可能性には一切触れられず、さも当然のことであるかのように、すでに定まっていたこととして「よみがえられたのだから」と答えられるのです。この人間にとってはあり得ない驚くべき出来事が、しかし神にとっては当然の出来事として現実に起こったところにキリスト教信仰の拠って立つ土台が固く据えられたのです。
 ここで私たちは「見つからなかった」と、「捜す」という言葉の意味するところを考えておきたいと思うのです。これまで幾度か申し上げてきたように、ルカ福音書が好んで用いるテーマの一つに「捜す、見つかる」という形式がありました。15章や19章がその代表例です。そしてそれと同じテーマがここにも現れているのです。しかしこれまでのテーマが「捜す」「見つかる」であったのに対して、今日の箇所では「捜す」けれども「見つからない」、そして「ここにはおられない」となるのでした。これまでの箇所では捜して見つからないことはなかったのに、肝心のこの復活物語では捜すけれども見つからない、となってしまうのです。しかしここに大切な真理が隠されていることに注目したいのです。今ちょうど夕拝ではルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」を数回にわたって学び続けているのですが、そこで15章に出てくる迷子の羊を捜す羊飼い、なくした銀貨を探す女性、放蕩息子の物語という三つのたとえ、そして19章のザアカイの救いの出来事には「発見の喜び」という主題があることを学びました。そこでは捜すのは神であり、捜されるのは失われた人間です。そしてやがてついに人は神によって発見され、見出され、そこには天における大いなる喜びが湧き上がるのでした。発見の喜びの物語です。ところが、今日の箇所では捜すのは人であり、捜されるのは主イエス・キリストです。けれども彼らはイエスを見つけることができない。なぜなら彼はよみがえられたからだ、というのです。つまり、神が人を捜すことにおいては見つかることが喜びなのですが、人が神を捜すことにおいては見つからないことが喜びなのだと言うのです。なぜなら、私たちの神は死せる者の神ではなく生きている者の神であり、私たちを生かすための永遠の命を賜る真の神であられるからであって、そのお方を死人の中に捜しても見出すことは出来ない。主イエスは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と仰せになるお方なのです。
 今私たちの国は大変大きな局面を迎えています。先週も靖国神社を111名もの国会議員が参拝し、「国のために殉じた英霊にまことをささげる」として、靖国の思想によってこの国を作り替えようとしています。まさに安倍内閣の本質は宗教国家の様相を表し始めています。イスラムのテロ戦争に参加して死に場所を探すという若者がいます。連日のように電車は人身事故でストップする。自らいのちを絶つ人々が後を絶たない。まさに死の力に取り憑かれ、死人の霊によって支配されつつあるこの国にあって、私たちはよみがえりの主イエスを信じて生きる。復活の信仰は、望み無く行き、死に急ぐ時代の中にあって、なお生きることを力強く肯定し、また具体的に生きる希望と力を与えるリアルな信仰です。この復活の主と生きる歩みを今日からまた一歩、歩み出してまいりましょう。

 

 



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