シリーズ「福音に生きる」その9   2014/10/05
『十字架のキリスト』

ルカ23:32-43

 10月を迎えました。実り豊かな秋の日々を送りつつ、一方では様々に心騒がされたり、憂うことの多い日々でもあります。あらためて私たちの信仰の眼差しを十字架の主イエス・キリストに向けて、主に従う歩みを始めてまいりましょう。この朝も、愛する皆さんの上に、主イエス・キリストの恵みと平安があるように心から祈ります。

(1)福音としての十字架、つまづきとしての十字架
 「福音に生きる」というシリーズで御言葉に聴き続けていますが、今日はまさにその最も中心的な御言葉が開かれています。これまで何度も紹介してきました永井春子先生の信仰問答の言葉、「問:キリスト教信仰とは何ですか。答:キリスト教とはイエス・キリストです」という、その最も大事な事柄をこの朝、ともに御言葉から教えられ、受け取りたいのです。キリスト教信仰の一番大事な要所は、イエス・キリストを信じる、ということです。ではイエス・キリストを信じるとはどういうことなのか。これは改めて問われると深い問いかけです。イエス・キリストを信じるとは、私たちがイエス・キリストを神の御子、私たちの罪からの救い主なるお方と信じるという主イエスに対する人格的な信頼です。この方なら信頼できる、この方の後についていきたい。私たちは真実でなくても、彼は常に真実であるといわれるお方への信頼です。ではどうしてそこまでの信頼をこのお方に置くのか。その理由となるのが主イエスが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業、すなわち十字架と復活なのです。主イエスが私のために十字架にいのちを捨ててくださった。そしてよみがえってくださった。この主の十字架と復活を私のためと信じる時に、私たちのうちにイエス・キリストを信じる歩みが始められるのです。
 言葉で言えばそのようなことなのですが、しかし実際にはそうやってイエス・キリストを信じるというのはなかなか難しいと感じておられる方もあることでしょう。イエス・キリストが歴史の中で実際におられたこと、病人をいやしたり、貧しい者を助けられたり、虐げられた人々とともに歩まれたり、まさに前回学んだ人として生きられた主イエスを信じ、その生き方に倣おうとする決断はもしかするとできないことではないかもしれない。しかし事柄が、あの二千年前のイエス・キリストの十字架の死が私のためであり、しかも死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを認め、それもまた私のためであると信じるとなると、 それはもはや常識を越えた一番むずかしいことのように思われることでしょう。しかしそれは今の時代の人だけが抱く思いではありませんでした。実はいつの時代にも主イエスの十字架は「つまづき」であったのです。
 32節から。「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え。』と言った。『これはユダヤ人の王。』と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。』と言った」。
 私たちは聖書を第三者のように、遠くから眺めるように読むことはできません。むしろ聖書の中に自分自身の姿を見ることになる。まさにこの十字架の場面にはさまざまな態度を取る人々が出てきますが、そこでは私自身の姿をもまたそこに見ることになるのです。
 
(2)十字架の主イエスのかたわらに
 そこで聖書はここでもう一人の犯罪人に光を当てます。40節。「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ』」。この犯罪人が傍らににいる主イエスをこのように言い得たのはいったいなぜか。聖書はその詳しいことを記しませんが、恐らく、彼は主イエスの十字架のお姿に罪を赦す神の大いなる愛を見たのでしょう。それは人々が嘲りの声を上げているその時に、傍らにおられる主イエスのあの祈りを聞いたからに違いないのです。34節。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」。彼はこの主イエスの祈りの言葉を聞き、そして罪の赦しを与えて下さる主イエスの十字架の真の姿を見たのです。それはまさに、私たちの罪を赦すために神の子としてのあらゆる特権をかなぐり捨て、神の御座から私たちのもとに飛び込んできてくださった主イエス・キリストのお姿を示すものでした。救い主メシヤによる罪の赦しの恵みが御自身の到来によって現実となり、そしてその恵みが今やこの十字架上でまさにクライマックスを迎えようとしているのです。そういう主イエスの宣教の御生涯、父なる神から遣わされた救い主メシヤの使命の成就として、主イエスは今ここで十字架に付きつつ、罪ある者の赦しを祈っていてくださるのです。
 そしてここからが彼の生涯の大逆転の始まりでした。犯罪人は言います。42節。「そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください』」。これが彼にとっての精一杯の信仰の告白でありました。今更「赦してください」などとは虫が良すぎて言えない。何の善行も功績もない。罪の償いだって何一つできる状態ではない。ただできるのはその主イエスの赦しの恵みにすがるだけ、彼にとっては「思い出してください」が精一杯の言葉だったです。でもこの言葉が重要でした。そう言えた時から彼の人生は一変したのです。43節。「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます』」。主イエスを信じた時、彼は自分では償うことのできない罪の赦しをいただき、そして彼は神の子とされたのです。この主イエスと出会う時、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる」という人生が始まるのです。「パラダイスにいる」とはイエス・キリストの愛のもとに、赦しのもとに、その御力のもとに、その支配のもとに生きるということです。

(3)私のための十字架のキリスト
 私たちがイエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストを十字架にかかられ三日目によみがえられた私たちの救い主と信じることです。主イエス・キリストは今日も皆さん一人一人を招いて、さあわたしを信じなさい、私を信頼しなさい、とお一人一人に呼びかけていてくださいます。でもなかなか信じられない、信じる決断ができない、信じていても迷ったり、疑ったりする心が生まれたり、信じる心が揺らいだりすることがある。でもそのときに覚えていただきたいのです。主イエス・キリストを信じる信仰を賜るのは聖霊なる神様なのです。聖霊によらなければ誰もイエスを主と告白することはできないと聖書は言うのです。
 Iコリント2章1節から3節には、この十字架の福音を宣べ伝えたパウロの心からの言葉が記されています。「さて、兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことを決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました」。パウロはこの一見弱気とも映るような言葉をコリント教会への手紙に書き記すのですが、実はその背景にあったのは使徒の働き17章のアテネ伝道の経験でした。パウロはかつてコリントを訪れる前に、ギリシャのアテネで伝道しました。アテネといえば当時最高峰の学問の町であり、人々は目新しい思想や教えを聞くことで日々を送っていたのです。そんなアテネの中心地、アレオパゴスの神殿でパウロは天地を造り、歴史を支配される真の神がおられること、この神が私たちのために一人の救い主を送られたこと、この方によって救いがもたらされることを語ったのですが、このメッセージのクライマックスであるイエス・キリストの十字架と復活に話が及ぶとそれまで興味津々に聞き耳を立てていた人々の反応が一気に白々しくなり、そして32節、「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう。』と言った」といって人々はパウロを嘲りながら去っていってしまったのです。この経験はパウロの中に大きな傷となって残りましたが、しかしそれはパウロにとって一つの大きな決心、覚悟を決めさせる傷でした。それでパウロは1章 23節で「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」と語り、2章2節で「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことを決心した」と語るのです。主イエス・キリストの十字架。それは確かに大きなつまづきです。しかしこのつまづきの十字架を他ならぬ私のためであったと信じ、受け取る時に私たちは「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる」と言われる、主イエス・キリストとともなる人生がスタートするのです。
 確かにこの国でキリスト者になることにはいろいろな障壁があります。あえて狭い道を選び取ることになるということもあるでしょう。何の戦いもなく、何の困難もありませんとは言えません。むしろ時代はこれからもっとキリスト者として生きることの困難さを増していくでしょう。その意味では、そういうことを隠して、ただ信じたらいいことがありますよ、と言うことはできません。それなりの犠牲もいるし、それなりの覚悟もいる。面倒ごとも増えるかも知れないし、恥をさらすことがあるかもしれない。
 でもこの朝、私は申し上げたい。それだけの犠牲を払ってでもあまりある祝福がイエス・キリストのもとにはあるのです。ここには本当の自由があるのです。地上のものを必要以上に恐れない勇気が与えられます。なんと言っても死を越える望みが与えられるのです。だから生きられるのです。それで、私はこの朝、確信を持って皆さんにお勧めしたい。ぜひイエス・キリストをご自分の人生の主として迎えていただきたい。この方にあってまったき罪の赦しを受けて、まことの自由なる人生を歩み始めていただきたい。今日、このあと主の晩餐が執り行われます。すでにキリスト者である方は、あらためて新しい確信を持ってこの食卓に臨んでいただきたい。惰性でなく、習慣でなく、私はこの主イエスの十字架のいのちによって今生かされているという喜びと確かさを味わっていただきたい。また主イエスを求めてこの場におられる方は、主イエスの十字架が今日もあなたを招いていることを覚えていただきたい。これはあなたと関係のないことではない。あなたは今日、わたしとともにいるといわれる主イエスの招きにぜひ応えていただきたい。そして私もイエス・キリストを私の救い主と信じますと、信仰を告白し、洗礼を受けて、主にある歩みを今日、スタートしていただきたいのです。すべてがわかってから始めます、ということでなくてよい。ローマ5章8節にこうあります。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する御自身の愛を明らかにしておられます」。
 この主イエスと出会う時、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる」という人生が始まるのです。「パラダイスにいる」とはイエス・キリストの愛のもとに、赦しのもとに、その御力のもとに、その支配のもとに生きるということです。そして「今日」という言葉はルカがこの福音書の中で、強調した事柄の一つです。福音宣教のはじめに「捕らわれ人に赦免を」と告げられた主は、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(4:21)と語られました。またあの取税人ザアカイの家に行かれた主イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました」(19:9)と宣言されました。そしてきょう、この十字架の上で、「父よ、かれらをお赦し下さい」と祈られた祈りが成就したのです。そして今日、私たちもこのイエス・キリストの十字架によって、罪赦されて生きるいのちに、まことのいのちに生きる人生に招かれているのです。救いを「今日」とお迫りになる主は、救いの恵みを「今日」賜るお方なのです。

 

 



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