シリーズ「福音に生きる」その8    2014/09/21
『私たちのもとに来られるキリスト』

ルカ4:42-43

 秋の深まりの中に、9月も後半へと歩みが進められています。先週は幸いな秋の修養会を過ごしました。今週も主イエスが与えてくださるいのちのことばを受け取って、ここから歩み出してまいりましょう。この朝も、愛する皆さんの上に、主イエス・キリストの恵みと平安があるように心から祈ります。

(1)巡り、教え、宣べ伝え、いやすキリスト
 「福音に生きる」というシリーズで御言葉に聴き続けています。この朝からは神の御子、私たちの救い主イエス・キリストのお姿に目を留めて行きます。そこで今朝はルカ福音書4章の御言葉が開かれましたが、その前にもう一カ所、マタイ福音書4章23節の御言葉を読んでおきます。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」。この言葉は同じマタイ福音書9章35節でも繰り返されます。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」。ここには神の御子イエス・キリストのお働きが端的に四つの言葉で言い表されています。すなわち「巡った」、「教えた」、「宣べ伝えた」、「直された」という言葉です。これらの言葉によって私たちは主イエス・キリストが私たちの身体と魂の全体を救ってくださるまことの救い主なるお方であることが明らかにされるのです。
新約聖書に記された四つの福音書を読んでいくと、福音書記者たちがイエス・キリストのお姿を描くにあたって大きく二つの関心があったことが分かります。一つは貧しい者や社会の底辺で生きる弱い人々とともに生き、病人を癒し、悪霊の虜になっている人を自由にし、やもめに慈しみを注ぎ、死者さえ甦らせるという、一貫して弱き者、小さき者の傍らに寄り添うお方としてのイエス・キリストへの関心です。それは主イエスの三年の公生涯の大半を費やす日々でもありました。今一つは主イエスの御生涯の最期の一週間、とりわけその三日間に集中したもので、それは主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活の出来事です。そこには私たちの身代わりとなって十字架に死なれ、私たちに救いを得させるためによみがえられた真の救い主としてのイエス・キリストへの関心です。
今日、多くの人々はこの二つの関心、二つの焦点を切り離し、それぞれ一方の姿だけを大きくクローズアップしたイエス像を造り上げようとしています。前者だけを強調すれば、イエスはその身をもって愛の模範を示された人、理想の人間像ということになり、この人間イエスの生き方に倣って、社会的弱者とともに生きることこそが救いだということになります。他方、後者だけを強調すれば、主イエスの救いを私たちの心の内側のことだけに限定し、社会的な正義や公正への主イエスの眼差しを見失うことにもなりかねません。特に福音派の教会は後者の傾向が強かったわけですが、3.11の出来事の後、あらためて主イエスの宣べ伝えた神の国、主イエスが十字架と復活におって成し遂げてくださった救いが私たちの身体と心の全体、この造られた世界の全体に及ぶ包括的なものであることを学び直していると言えるでしょう。

(2)巡り歩くキリスト
 そこで、この朝開かれているルカ福音書4章42節、43節の御言葉に聞きたいと思います。「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから』」。
地上を歩まれたイエス・キリストのお姿、それは町から町、村から村へと巡り歩き、神のみこころを教え、御国の福音を宣べ伝え、病の人を癒された主イエスのお姿は、まさに地上においては「人の子には枕するところもない」と言われたとおり、安住の場所を持たない旅人のお姿であったと言えるでしょう。今日の御言葉は主イエスの初期ガリラヤ伝道の様子が描かれるところですが、ここで群衆は主イエスを自分たちの所に引き止めようと躍起になっています。珍しいと言えるほどに人々は主イエスを歓迎したのです。そこには主イエスの癒やしの奇跡や不思議な力への期待感があったかもしれません。自分を歓迎してくれる人々の中に居続けたい。私たちであれば当然抱く思いです。しかし主イエスは言われます。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」と。
 父なる神がご自身の主権的な愛と自由の中で、私たちの救いのためにお遣わしくださった御子イエス・キリスト。このお方は、しかし私たちのために「神の福音をどうしても宣べ伝えなければならない」と仰られ、そのためにはご自分の居場所を定めて留まることをなさらず、「ほかの町々にも」進んで行かなければならないと言われます。ルカ13章33節でも「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」と言われるとおりです。このようにしてイエス・キリストは私たちに福音を届けるために、父なる神から委ねられた使命を「せねばならないこと」と受け取り、そのために地上を旅して、休む暇も惜しんで人々の元を巡り歩き、人々が羊飼いのない羊のようであるのを憐れんで、まことの救いのよき訪れをもたらし、失われた人を捜し出して救いの中に迎え入れてくださり、そうやって私たちのもとにも今日、来てくださっているのです。
 一人の人を訪ねて歩く。一人の人との出会いのために出かけていく。キリストのしもべたちは、この主イエスのお姿にならって歩んで来ました。たった一人の人のためにどうしてそこまで、と思うような行動を主の僕たちはしてきたのです。効率を求める今の時代感覚からするとまったく「無駄」、「浪費」と思われることかもしれません。けれども主イエスの示された愛は文字通り「浪費する愛」でした。惜しみなく与え尽くす愛、注ぎ尽くす愛。その愛をもって私たちを愛し、私たちのところにまで来てくださったのです。中国往復の機内で一冊の本を読みました。田中伸尚というノンフィクション作家の方が書いた『行動する預言者 崔昌華』という書物です。日帝支配の後、朝鮮戦争の動乱の中、北から南に逃れ、さらに日本にやって来た崔牧師の、在日朝鮮・韓国人の人権回復のための戦いの生涯を描いた本で、圧倒されるような思いで読み進めました。その中で圧巻だったのが1968年2月に起こった金嬉老事件の際に、九州小倉から犯人の立てこもる静岡まで立てこもり犯の説得のために出かけていく姿でした。在日の差別の中で苦しむ同胞を思い、一人の牧師としていても立ってもいられずに現地に向かう姿に、キリストの愛に突き動かされた人の姿を見たのです。
 私たちもこの朝、私たちのもとに訪れ、私たちに真の救いを与える喜びの知らせ、神の国の福音を届けるためにはるばるお出でくださった旅人イエス・キリストを喜んで心にお迎えし、この方が差し出してくださる神の愛を受け取る者でありたいと願います。

(3)捜し出し、救い出すキリスト
 このイエス・キリストは、その名の通りに私たちを救ってくださるただ一人の救い主であられます。しかしその時に、主イエスは決してご自身が不動の存在として私たちにご自身を尋ね求めさせ、捜し求めさせ、見つけ出させるまでじっとして動かないお方ではありません。むしろその逆に、主イエスの方から私たちを捜し出し、見つけ出し、救い出してくださるお方なのです。もう一箇所、御言葉を開きたいと思います。ルカ福音書15章1節からの箇所です。ここは大変よく知られたところですが、失われた者を捜し出し、救い出すために私たちのもとに来られる主イエス・キリストのお姿が、大変印象深いたとえ話を通して描き出されるところです。
 まず一つ目の譬えを見ておきましょう。3節。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」。ここには失われた一匹の羊を捜す羊飼いの愛に溢れた姿が描かれています。旧約以来、愛の神様の姿はしばしば羊飼いに例えられました。イザヤ40章11節に「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」とある通りです。そしてこの羊飼いは失われた羊を一刻も早く見つけ出し、捜し出し、取り戻すためには、他のあらゆる危険や犠牲も省みずに飛び出して行くのです。ここで私たちが覚えたいのは、この一匹の羊が特別なのではなく、失われてしまっている現実が特別なのだと言うことです。それがたとえどの羊であっても、自分の羊が失われたのならば、彼はその羊を捜し出すためにどんな犠牲も厭わない。それが羊飼いの羊に対する愛なのです。
 続いて二つ目に譬えを見ましょう。8節。「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」。今度はなくした10枚の銀貨を捜す女性の譬えです。先の羊飼いの譬えが捜し求める愛に力点が置かれたのに対して、今度は捜し求める熱心さに力点が置かれます。彼女は一枚の銀貨を捜し出すために「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに」捜すのでした。そしてついにそれを発見した際には、先の羊飼い同様、その喜びを近所の人々とともに喜ぶのでした。
ここに描き出される失われた羊を捜し出して救い出す羊飼い、そして銀貨を捜し出し、見つけ出す女の姿、それこそが私たちを捜し出し、救い出す主イエス・キリストのお姿にほかならないのです。

(4)私たちのもとに来られるキリスト
 ここに語られた二つの譬え話。百匹のうちの一匹、十枚のうちの一枚と違いはありますが、共通しているのはその失われたものを捜し出した持ち主が「いなくなった羊を、なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んで下さい」と人々をその喜びの中に巻き込んでいることにあります。それほどの喜びがここにある。失われた者が見出され、捜し出される喜びが、ほとんど損得勘定を抜きにした発見の喜びがここにはある。失われた者が捜し出され、発見された喜びとはそのようなものだと聖書は一生懸命伝えているのです。
 そして主イエスの結論。7節。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」。そして10節。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」。主イエス・キリストは私を見つけ出し、捜し出そうと、あらゆる犠牲を惜しまず、あらゆる熱心さを傾けていてくださるお方であられ、そのようにして私の姿が主イエスによって発見された時には、天において大いなる喜びの歓声がわき起こるのです。
 あなたが主の前にあることが、主の大いなる喜びである。あなたが主の前に見出されることが、天における大いなる喜びである。主なる神がそのように私の存在を求め、捜し、見出し、そのためにはあきらめずに何度でも何度でも足を運び、私たちを見出すまではどこまでも進んで行かれる。まさにあなたのもとにキリストは来られるのです。続く19章のザアカイの救いの出来事では「今日、救いがこの家に来た」と言われます。主イエスが来てくださることが、救いが来たということなのです。そして主は私たちのもとに来られることを喜んでくださり、私たちを見つけたといって喜びおどってくださるのです。羊一匹と見捨てはしない、銀貨一枚と諦めはしない。このあなたを捜し求めてやまない神の愛の中にこの身を置く幸いをぜひこの朝受け取っていただきたいと切に願います。

 

 



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