シリーズ「福音に生きる」その7     2014/09/07
『いのちを与え、生かす神』

使徒14:8-18

 9月を迎えました。暑い夏を過ごしてまいりましたが、秋を迎えて心新たに、信仰を奮い立たせて歩みを進めてまいりましょう。この朝も、愛する皆さんの上に、主イエス・キリストの恵みと平安があるように心から祈ります。

(1)創造の神
 「福音に生きる」というシリーズで御言葉に聴き続け、前回からは聖書の語る「神さま」とはいかなるお方であるかを学び始めています。先の日曜日、私たちは出エジプト記3章から、聖書のあかしする神は「わたしはある」という名を持つお方であるということを教えられました。しかもこの神は、御自身の存在には何ら他のものを必要としない、完全な意味で自己完結したお方であられ、それゆえにまた御自身は完全に満ち足りたお方であられることを意味します。しかしその神は孤高の存在でなく、交わりの神、ともにいます神として、ご自身のお作りになった世界とその世界にあるすべてのいのちあるもの、とりわけ私たちひとりひとりと「ともにいます神」として、今日も生きて働いていてくださいます。今日の説教題に掲げたように、まさしく聖書のあかしする神、イエス・キリストの父にして、主イエス・キリストにあって私たちの父となってくださる神は、いのちを与え、生かす神であられるのです。これを教理のことばで「創造と摂理」と呼びます。神はこの世界をお造りになり、その世界をいま、この時も治め、守り、支え、生かしておられる神なのです。
 創造の神を信じること、この世界とそこに生きるすべてのもの、そしてこの私の存在の意味を見出すことに繋がることです。神がこの世界を造られたと信じることは、ただこの世界の成り立ちを云々するということにとどまらず、この世界を造られたお方がおられることを信じることであり、この世界を今日も存在せしめ、そこに意味を与えるお方がおられる。すべてのことには意味があり、今日私が生きることにも意味があると、この生を意味ある者としてくださるお方がおられることを信じ、認めて生きることです。このことはまことに意味のあることであって、実際にはそのような意味づけを与えられることなしには私たちは一歩たりとも前に進むことができず、一日たりとも生きることのできないものなのではないでしょうか。創造の神を神とするとき、被造物である世界はまさに神によって造られた意味ある世界としてその輝きを放ち、そこに生かされている私たちも、そして私自身もまことにかけがえなく意味ある存在として生きることができる。神を神としてはじめて世界は世界としてあり、人は人として生きることができるのです。

(2)ルステラでのパウロの姿から
 さて、この朝与えられている使徒の働き14章8節以下の場面は、使徒パウロたちによるルステラという町での伝道の様子を記すところです。8節から10節。「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい。』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した」。このいやしの出来事の中で注目しておきたいのは、パウロがこの足のきかない人に目を留め、「いやされる信仰があるのを見た」と記されている点です。いやされる信仰とは何か。ただ彼がしたことと言えば「パウロの話すことに耳を傾けていた」だけ。けれどもそれを聖書は「信仰」と呼ぶのです。その理由が、このルステラの町の宗教的な状況からこの後明らかにされていくのです。
 11節から13節。「パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニア語で、『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。』と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。すると町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした」。このルステラの町にはギリシャ神話の神々が人の姿をとって訪れるという民間信仰が根強く息づいていました。そして旅人としてこの町を訪れ、今までに聞いたことのないことを語り、生まれつき足のきかない男を歩けるようにしてみせたパウロ、バルナバを見て、この町の人々は、彼らこそがギリシャの神々であるとして、年長者であったバルナバをゼウス神、パウロをそのスポークスマンとしてのヘルメス神として崇め奉ったのです。そこで14節から18節。「これを聞いた使徒たち、バルナバとサウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。『皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。』こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた」。
 ルステラの町に蔓延していた宗教心、それは結局のところ、人間が造り上げた神々に仕え、いけにえをささげ、そこに様々な御利益を求め、目に見える物質的な繁栄を見出し、そのために必要と思われることに熱心に取り組む、そのような宗教心でした。だからこそそんな中にあってただパウロの語る福音の言葉に耳を傾けたあの足のきかない男の中に、パウロたちはいやされる信仰、まことの信仰を見出したのです。そしてそれとは全く正反対なむなしい信仰、空虚な偶像礼拝に生きる人々に対して、パウロはこう語りかけるのでした。人によって造られた神でなく、人と世界をお造りになられた神に立ち返れ。物言わぬ死せる偶像の神でなく、語りかけたもう生けるまことの神に立ち返れ、と。このルステラの町の騒動を私たちは笑うことができるでしょうか。むしろ人の手で造り上げた偶像を拝み、御利益を求め、災いが起こると先祖のたたりだと言っては過去に縛られ、何かよいことが起こるとゲンを担いだり、縁起を担いだり、家を建てると言えば方角がどう、名前をつけると言えば画数がどう、何か事を為そうと思えばその日がどう、いろいろなものに縛られ、不自由さの中に支配されて生きているのが私たちの実情ではないでしょうか。けれども聖書はそのような生き方はむなしいと言い切ります。そして生ける神に立ち返って生きよ、と私たちにお迫りになるのです。

(3)創造の神の摂理の御業
 この天地万物をお造りになられた創造主なる神は、その造られた世界をよしとし、喜びとし、そこに存在するすべてのものに意味と目的を与えてくださるお方です。主なる神はこの世界を創造したら、あとはそれをそのままに捨て置かれ、放置されるお方でもなく、この造られた世界に対して今も、恵みと慈しみを施し、愛と真実を注ぎ続けていてくださいます。それで、私たちが生かされているこの世界も、そしてこの私自身も、今を生きることができるのです。このように神が創造された世界に今も、その御手をもって関わり、携わり続けていてくださる働きを指して「神の摂理」と呼ぶのです。
 「神の摂理」というと、神が前もってすべてをお見通し、人間はただそのレールの上を進むようなことだと、神と私たちとの関わりを機械的な運命論、宿命論のように考えてしまいがちですが、決してそういうことではありません。この点を宗教改革の教会が大切にしてきた信仰問答の言葉で確かめておきたいと思います。ハイデルベルク信仰問答の第27問。「問:神の摂理について、あなたは何を理解していますか。答:全能かつ現実の神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ち、支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富みも貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって私たちにもたらされるのです」。
 私はこれまで何度もハイデルベルク信仰問答を読んで来ました。全129問を書き写しもしましたし、この教会に来てからは全体を二度通して祈祷会で解説し、夕拝で説教もしました。それによってこの27問と28問がこの信仰問答の中でもっとも優れた内容だと確信しています。しかしやはりこの創造と摂理の神を信じていても、心揺さぶられることがある。先週、広島の土砂災害の現地に立ちました。泥と瓦礫、押し潰された家や車、何と言えない汚泥の臭い、あの東北の震災の経験が思い出されて仕方がありませんでした。また週の後半に久しぶりに南相馬から郡山を車で走り、飯舘村を通過しました。除染作業が続くすぐ近くの小学校の校庭で走り回る子どもたちの姿を見て、「これはたいへんだな」と思わず独り言をつぶやきました。創造と摂理を信じる。そう単純に言えない思いがある。神の父親らしい御手の業だと言えない思いがある。それならばどうして、と問いたい思いがわき上がってくるのです。
 ではいったいどう考えたらよいのか。どう神を信じたら良いのか。続く第28問にはこうあります。「問:神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。答:わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはでさないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです」。さらにこれと同じ響きを持つ言葉に、ハイデルベルクと同時代に作られた1561年のベルギー信条という告白文があります。その第13章にはこう記されています。「我らはこの善き神がすべてのものを創造された後、気まぐれに彼らを棄てることはなく、聖なる御旨によって彼らを導き、支配することを信じる。・・・また神が人の思いを越えたことをされることについて、我らはそれを我らの能力が許す以上に好奇心をもって探求することを欲しない。我らはこれらの限度を超えないで、神が御言葉によって現すことだけを知って満足する。・・・この教えは我らにいい知れない慰めをもたらす。なぜなら我らはそれによっていかなるものも気まぐれに起こるはずはなく、我らの善き天の父の命令によって我らに起こると教えられるからである。神は父としての配慮をもって我らに心を留め、彼に属する全ての被造物を支配し、そのため我らの頭の髪一本も、小鳥でさえも、我らの父の意志がなければ地に落ちることはできないのである。我らは神のうちに休らう。神が悪魔とすべての我らの敵を制していることを我らは知っているので、神の許しと意志がなければわれらを害することは出来ないことを知っているからである」。

(4)父の御手を信じて
 このように神を父なるお方として信じ、この父の御手の中に私たちが握られて、その御手からはだれも私たちを引き離すことができない。私と父とを結び合わせるのがイエス・キリスト御自身である、この信仰に立つ以外に、私たちはこの地上に起こる苦しみを受け取る手段はどこにもないのだと思います。それでもなお「主よ、どうして」という問いは残るかもしれない。けれどもその問いもまた、私たちを愛してやまない父なる神だからこそ真っ正面から問いかけることの許される問いなのではないでしょうか。
 創造の神は、その確かな生ける御手をもって今日も私たちを支え、守り、生かし続けていてくださる愛と恵みに満ちた摂理の神であられる。だからこそ私たちはハイデルベルク信仰問答第28問が教えるように、「逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については私たちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる」のです。天地万物を造られた神は、それを今も保ちたもう神であり、私たちに最善のものを備え、最後まで責任を負ってくださる神であられます。その神が私たちに賜った御子イエス・キリストを信じてこの神に立ち返り、この神とともに生きること、生き続けること。これを聖書は救いというのです。罪から神への方向転換、虚しい偶像礼拝から、生けるまことの神への方向転換。私たちにいのちを与え、そして今日も私たち一人一人を生かしていてくださる生ける神の御許に立ち返り、このお方とともに歩む人生の一歩を踏み出してまいりましょう。

 

 



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