シリーズ「福音に生きる」その6   2014/08/31
『「わたしはある」という神』

出エジプト3:13-14

 8月最後の主日を迎えました。一夏の恵みを感謝しつつ、収穫の主に期待して秋への歩みを整えてまいりたいと願います。この朝も主によってこの礼拝へと招かれた愛するおひとりひとりの上に、主の豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)名乗られる神
 今朝の聖書箇所である出エジプト記3章を見る前に、新約聖書の使徒の働き17章を開きたいと思います。23節にこうあります。「「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」。これは使徒パウロがギリシャの学都アテネの町にあるアレオパゴスの丘で語った伝道メッセージの一節ですが、そこでパウロはアテネのギリシャ人たちが多くの神々を拝みながら、その中に「知られない神」への祭壇があるのを見つけたというのです。名を持たない神。匿名の神。それは私たちの社会の宗教的な伝統の中にも根深く息づいているものでしょう。
 私たちもそれぞれ名前を持ち、その名をもって呼ばれるわけですが、名前を持つということは、それをもってその存在が特定されることを意味します。他の誰でもなくこの私、あなた、彼、彼女、それらが代名詞としてでなく、はっきりとその名をもって特定される。そのように神ご自身もまた決して抽象的な名を持たぬ、知られざる神ではなく、私たちを呼び、私たちと交わりを持ちたもうお方として、私たちが呼ぶことのできる名をお持ちのお方なのです。そのことがはっきりと記されるのが今日の出エジプト記3章の出来事です。この箇所はエジプトの地で奴隷の生活を強いられていた神の民イスラエルを救い出すために、主なる神がモーセという一人の人を選び、エジプト脱出のリーダーとしてお立てになった際に、モーセが主なる神にその名を尋ね、神がそれに答えて自らの名を明らかにされるという旧約聖書の中でも重要な場面です。13節、14節をお読みします。「モーセは神に申し上げた。『今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに「あなたがたの父祖の神、私をあなたがたのもとに遣わされました。」と言えば、彼らは、「その名は何ですか。」と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか。』神はモーセに仰せられた。『わたしは、「わたしはある。」という者である』。また仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。」と』」。
 聖書の証しする神は、ご自身を明らかにされる神、これを教理の言葉で「啓示」と言いますが、まさにご自身がいかなるお方であられ、私たちにとってどのような存在であられるかを、私たちに分かる仕方で啓示される神であられます。この神の啓示の最も基礎となるのが、今日取り上げる「神の名」ということであり、聖書の神は私たち人間に対して沈黙を貫き、遙か彼方にいます孤高のお方ではなく、私たちに絶えずご自身を明らかに示し、その名をもってご自身を示される、名乗られる神であられるのです。
(2)「わたしはある」という神
 では神の名とは如何なるものなのでしょうか。神の名を問うモーセに対して、神はこうお答えになられます。「『わたしは、「わたしはある。」という者である。』また仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。」と』」。ここで神はご自身の名を「わたしはある」と名乗られます。これは旧約聖書のことばでは「ヤハウェ」という名です。この「ヤハウェ」という言葉は「ある」、「なる」、「あらしめる」といった意味を持つといわれます。すなわち、聖書の証しする神は「わたしはある」、「ありてある神」、生きておられる唯一まことの神であられ、すべての存在の源であられ、それゆえにすべての存在をあらしめ、生かし、その存在に意味を与えるお方であられます。 さらに、「わたしはある」という名は、単に今ここに存在している、という静的、スタティックな意味のみならず、この神が私たちの歴史の中にご自身を啓示し、かつてあられ、今もあられ、そしておわりまで存在し続ける永遠のお方であることをも示しています。
 主なる神は、「神一般」というような抽象的な存在、人間が夢想するような儚い存在ではなく、生けるまことのお方、私たちにその名をもってご自身をはっきりと示していてくださる唯一のお方であられます。また、神がその名を私たちに示されると言うことは、神がその名をもって私たちがご自身を呼び求めることを欲していてくださるということでもあるのです。すなわち「ありてある者」であられる主なる神は、私たちが親しく主の名を呼ぶことをよしとし、喜びとしていてくださるお方、私たちと交わりを持ちたもうお方であられるのです。
 
(3)「わたしはある」という御子イエス・キリスト
 この、「わたしはある」と言う名をもって自らを名乗られたのが、神の御子イエス・キリストです。ヨハネ福音書8章をお開きください。ここで主イエスは二度にわたってご自身を「わたしはある」と言う者だと自己紹介しておられます。一度目は24節の「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ」と言われたときの「わたしのこと」、二度目は続く28節、29節です。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです」。この「わたしが何であるか」と24節の「わたしのこと」はいずれもヨハネ福音書における主イエスの大切な「わたしはある」という言葉、ギリシャ語で「エゴー・エイミ」と言われる言葉です。つまり24節では「もしあなたがたが、『わたしはある』ということを信じなければ」と主イエスは言われ、この28節でも「その時、あなたがたは、『わたしはある』ということを知るようになる」と言っておられるのです。
 この「わたしはある」こそが、今日の出エジプト3章での「わたしはある」と同じ呼び名なのです。つまりユダヤ人たちから「あなたは何者か」と問われた主イエスは、かつて主なる神がモーセに御自身を顕してくださった時に、「あなたの名は何ですか」と問うたモーセに対して主なる神が教えてくださった名前をもって「わたしは『わたしはある』という者だ」とご自身を明らかにしながら、しかしそれはずっとこれまで語ってきたことではないかと言い、さらに時が来ればそれがはっきり分かる、と言っておられるのです。
 ではその時とはいかなる時であるのか。それが21節で「わたしは去って行く」と言われた時であり、また28節で「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時」と言われる時のこと、すなわちそれは主イエスの十字架の時、そして復活の時です。主イエスの十字架の時、そして復活の時、その時に本当の意味で「あなたはだれですか」という問いへの答えである「わたしはある」ということがはっきりと分かるようになるのです。主イエスにおいて示された「わたしはある」と言われる神は、まさにヨハネ黙示録において「すでにいまし、今いまし、後に来られる方」と言われたお方、永遠からおられ、神の言葉として私たちのもとに来られ、十字架と復活によって救いを成し遂げて天に挙げられ、そして今も父なる神の右の座にあって、私たちのために日々とりなしつづけていてくださる生けるお方、生きて今も救いを成し遂げておられる生ける神であられます。

(4)神を呼ぼう
 1927年、昭和2年に29歳の若さで亡くなったキリスト教詩人の八木重吉という人がいます。「貧しき信徒」、「神を呼ぼう」という二つの詩集が残されています。この「神を呼ぼう」という詩集の中に「みんなもよびな」という詩があります。
 みんなもよびな
      さて
      あかんぼは
      なぜ あん あん あん あん
      なくのだろうか
      ほんとに
      うるせいよ
      あん あん あん あん
      あん あん あん あん
      うるさか ないよ
      うるさか ないよ
      よんでいるんだよ
      かみさまをよんでるんだよ
      みんなもよびな
      あんなに しつっこくよびな

 ちょうどこの詩が作られた頃、重吉の家にはまだ小さい娘と息子がいたようで、毎日泣く幼子の姿を見ながら、お母さんを呼び、お乳を願い、抱っこしてもらう事を願い、笑いかけてくれる事を願う、そんな姿に、神を呼ぶ人間の姿を見つめ、さあ神を呼ぼうと呼びかけているのです。
 神さまが私たちに名を知らせてくださるということは、その名をもって神さまを呼ぶことを待っていてくださるということでしょう。
 だからこそ、私たちは今日も心から主の名を呼び求め、この主なる神を礼拝し、このお方の御名によって祈り、この方の語りかけを聞くのです。しかも神さまは御子イエス・キリストを通して、私たちが「アバ、父よ」と呼ぶことをさえよしとしていてくださいます。最も近しい、最も親しい呼び名です。
 神を「父よ」と呼ぶこと。これは決して当たり前のことではありません。確かに旧約聖書においても主なる神が「父」と呼ばれることはあり、またユダヤ教伝統においてもそのような習慣があったと言われるのですが、しかしそれでも神を「アバ、お父さん」と幼い子どもが呼びかける親しい言葉で神を呼ぶことはあり得ませんでした。すなわち、ここで主イエスが「父よ」と呼ぶ祈りは、そのような神との新しい関係、神を「お父さん」と呼ぶことの出来るような親密で愛に満ちた交わりの関係を作り上げる言葉であったのです。この父としての神の私たちに対する姿は権威の象徴としての「父」ではなく、むしろ愛と慈しみに満ちた「お父さん」としての姿なのです。
 主イエス・キリストの父なる神を、私たちの父よと呼ぶことが出来るという驚くべき事実にこそあります。それはただ神の救いのご計画により、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、子としてくださる聖霊による恵みです。この救いの御業によって主イエス・キリストの父は、我らの父となりたもうのです。この消息を使徒パウロは次のように言っています。ガラテヤ4章6節。「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わして下さいました」。このようにかつては罪と滅びの中にあった私たちが父なる神の選びに基づき、御子イエス・キリストの贖いにより、聖霊の働きの中で神の子とされた。それゆえに私たちは今大胆にも主イエス・キリストの父なる神を「我らの父よ」と呼ぶことの出来る子としての身分を与えられているのです。父なる神は私たちが「お父さん」と呼びかけることを待っていてくださるお方です。「父よ」との呼びかけは、そこに応答を求める呼びかけであり、父であられる神は、その呼びかけに答えてくださり、私たちの祈りを聞き届けてくださる生けるお方なのです。
 この恵み深い主なる神の御名を心から称え、神の御名を親しく呼びまつる私たちでありたいと願います。その時にこの神は私たち一人ひとりをもその名をもって呼んでくださり、私たちの神、私の神となってくださるのです。

 

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.