シリーズ「福音に生きる」その5  2014/08/17
『神は語られる』

ヘブル1:1-3

 8月も半ばを過ぎて、暑さの峠を越えたような感があります。夏の様々なプログラムが恵みのうちにひとつひとつ進められていることを感謝します。この朝も愛する皆さんとともに主の御声に聴く幸いを覚えます。皆さんお一人一人に祝福が豊かにありますように。

(1)むかし、預言者たちを通して
 「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」。ここには「神は、私たちに語られた」とあります。私たちの信じる神は、沈黙のお方ではない。語られる神だというのです。
 神が語られるとはどういうことでしょうか。天からのお告げのように声が聞こえるということでしょうか。神がかり状態になって託宣を書き記すということでしょうか。自然界の中にある様々な現象からそれを読み取るということでしょうか。今日開かれているヘブル書1章には神さまがどのような語り方をなさったか、そして今なさっているか。そのことが端的に記されています。その場合、いつの時代にもまったく同じようにということでなく、その時代によって神の語り方にはある変化があるのでした。まずその最初の段階がこうです。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られた」。この言葉が指し示しているのは旧約聖書のことです。旧約聖書は天地創造の時から、アブラハムとの契約を経て、イスラエルの民の歴史の中で神が預言者たちを通して語ってこられた救いの御心が記されています。しかもその語り方も、ある部分は律法を通して、ある部分は歴史を通して、ある部分は詩や格言を通して、そしてある部分は預言の言葉を通して、という具合に実にバラエティーに富んでいます。しかも旧約聖書は預言者を通して後に来られる救い主メシヤの希望が指し示される預言の書、約束の書であって、それが指し示す先にこそ、私たちにとって最も大切なことば、私たちが聞くべき救いのメッセージがあるのです。

(2)終わりの時には御子によって
 このように旧約は来るべき救い主を指し示す約束の書、預言の書ですが、その成就として与えられているのが新約聖書です。先のヘブル書でも「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」と語られるとおりです。旧約の預言者たちが語り続け、指し示し続けてきた来るべき救い主メシヤ、かつて旧約最大の預言書であるイザヤ書53章で、私たちの罪の身代わりとなるため、口をつぐんだままほふり場に引かれていく小羊のようなお方と預言した方、ピリポに導かれたあのエチオピア人の宦官が、一体これは誰について預言しているのですか、と尋ねたお方、そして何よりも重要なのはルカ福音書16節以下のところです。
 ここには当時のユダヤ教会堂での礼拝の姿が実に生き生きと描かれています。当時のユダヤ教はエルサレム神殿における祭儀を中心とした礼拝と、各地にあるシナゴーグと呼ばれる会堂での律法の朗読とその説き明かしを中心とした礼拝とが並行して行われていたようですが、そこに主イエス・キリストが立たれたことで、この礼拝の光景は私たちのモデルともなるのです。ここには御言葉を朗読する主イエス、この主イエスに目を注ぐ会衆、そして御言葉を説き明かされる主イエスのお姿が描かれます。礼拝の中心に御言葉とともに主イエス・キリストがお立ちになる。その御言葉のもとに集められる民があり、そこに恵みの福音が語られる。これは今、私たちが捧げる礼拝においても繰り返されていることであり、また私たちのなすべき福音宣教のモデルでもあるのです。
 そこで主イエスが語られた御言葉はイザヤ書61章に記された苦難のしもべの歌、来るべき救い主メシヤについての預言でした。18節。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」。ここには神によって油注がれた救い主とその救い主の使命とが描かれます。メシヤのもたらす救い。それは捕らわれ人の赦し、盲人の開眼、虐げられている者の解放、主の恵みの年の告げ知らせ。すなわち神による全人的な救いの到来であり、なによりもその中心にあるのは冒頭に記される「捕らわれ人の赦免」すなわち罪の赦しでありました。このメシヤの預言をさして主イエス・キリストは言われます。21節。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」。
 これは驚くべき言葉であります。恐らくこれまでも多くのユダヤ教の教師たちが会堂に立ち、御言葉を朗読したことでしょう。しかしどれほど偉大な律法の教師であっても語り得なかった言葉を、主イエス・キリストはここでこの時、お語りになったのです。「この私において、この救い主の預言が実現した」と。

(3)そして今は聖霊によって
このようにかつて旧約の時代には預言者によって、そして新約の時代には御子イエス・キリストによって語ってくださった神は、今私たちにどのように語りかけておられるのでしょうか。もうイエス・キリストは天に挙げられて、今は私たちの前にはおられません。では私たちはもうその御声を聞くことはできず、ただその言葉を記録した書物である聖書を繰り返し読むことに過ぎないのでしょうか。
 16世紀の宗教改革の時代にスイスのチューリヒで活躍したハインリヒ・ブリンガーという改革者が著した『第二スイス信仰告白』の第一章、聖書についての告白の中に次のような一文があります。「我々は聖なる預言者と使徒による正典たる書、すなわち旧・新約聖書が、神のまことの言葉そのものであり、それ自身で十分な権威を持ち、人間によって権威付けられるものでないと信じ、かつ告白する。すなわち、神は自ら父祖たち、預言者たち、使徒たちに語りたまい、今なお書かれた聖書によって我々に語りたもうのである」。ここでブリンガーは神は今もなお書かれた聖書によって私たちに語っていると告白していることに注目したいと思います。そこで決定的なのは聖霊なる神のお働きです。聖霊は今、御言葉とともに働いて、神の語りかける言葉を私たちに聞かしめ、それを悟らしめ、それに従う信仰を与えてくださるお方です。そしてそのために欠け多き罪人である人間を説教者として召し、その説教者を通し、教会の礼拝において、今も語り続けておられるのです。
 このように、かつて預言者を通して語られた神は、御子イエス・キリストにおいて語られ、そして今はこの御子イエス・キリストが聖霊を通し、御言葉によって、説教者を用いて語っておられる。それが聖書を通しての神の語り方なのです。私たちは過去の古い本をただ後生大事に懐かしみながら読む懐古趣味者ではありません。いつでも聖書を開く度に新しくご自身の御心を明らかにし、私たちを慰め、戒め、励まし、新しい人問として生かすべく聖霊を通して語っていてくださるイエス・キリストと、その父なる神の大いなる語りかけを期待して御言葉を開くのであり、聖書はその度ごとに私たちに新しい言葉をもって語りかけてくださる、まさしく生ける神の言葉なのです。

(4)聖霊に導かれて神の語りかけを聴く 
 こうして今も聖書を通し、聖霊によって私たちに語りかけておられる神の御声を私たちはどのようにして聴くのでしょうか。神の語りかけを聴くにあたっての私たちの姿勢ということについて、最後に三つのことを申し上げておきたいと思います。
 一つ目に、「慕い求める心を持って」ということです。詩篇42篇1節にこうあります。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。
御言葉への飢え渇き、慕い求める心。主の御言葉なしには生きることのできない私たちへのいのちのパン、渇くことのない泉。それをいつでも新しく慕い求めていきたいのです。出エジプトの時代、荒野を旅するイスラエルの民を養うために、主は朝ごとに天からのパンである「マナ」を降らせてくださいました。神さまはイスラエルの民にマナを毎朝集めるように命じられ、二日分まとめることをお許しになりませんでした。主イエスは弟子たちに教えられた主の祈りにおいて「日毎のパンを与えてください」と祈るように教えてくださいました。御言葉の糧も同様です。毎日、毎日天からの御言葉を慕い求めていきたいのです。
 二つ目に、「期待する心を持って」ということです。御言葉に期待するということは、神ご自身に期待することです。御言葉を読みながらも心が斜に構えてしまっていては、神の語りかけを聴くことができません。確かに私の現実は難しく、そう簡単にはいかないことが多く。しかし開かれた心で、待ち望む心で、御言葉には力があると言う確信を持って、御言葉に聴いていきたいのです。今回の大会で何度も『夢見人』を歌いました。「明日がたとえ見えない夜も、御言葉の約束を握って歩もう」と歌いました。私たちには限界がある。しかし神の言葉には力がある。現実を突破する力がある。その御言葉の力を信じ、期待して生きていきましょう。
 そして三つ目に「従う心を持って」ということです。どんなに神さまが語ってくださっていても、それに従う心がなければ、私たちの耳は閉ざされたままです。主よ従います、という心をもってへりくだって御言葉に聞くとき、主の御心が私たちの内に示される。主イエスの足下に座り込んで御言葉を聴いたマリヤのように。お言葉をくださいと主イエスに願った百人隊長のように、そして「わたしについて来なさい」と言われた主イエスの招きに従っていった弟子たちのように。私たちも従う心を持って主の御声に聞く者でありたいと願うのです。
 今回の宣教大会で語られた数々のメッセージに本当に教えられました。献身の招きに立ち会う時に、自分自身の献身の原点を確認させられました。教会では若い頃から、神さまの御心を求める時には御言葉が与えられることが必要だ、と繰り返し教えられて来ました。しかし正直に言って、私にはそのことがよくわかりませんでした。「御言葉が与えられるってどういうことなのか。ただ自分の思いに引きつけて聖書を都合よく読んでいるだけなのではないか。何かそれとわかるハッキリとしたサインでも出るのか」。そんな半信半疑な思いでした。高校3年生の進路を決める時期、私は献身して伝道者の道を進みたいと願っていました。しかしそれが本当に主からの召しなのか自分自身の思いなのかがはっきりしませんでした。「御言葉による確信が必要」と言われていましたので、聖書を毎日読んでいましたが、一向に御言葉が与えられる気配がない。本当に御言葉が与えられるなどということがあるのだろうかと、またあの半信半疑の心がやって来ました。しかしある冬の日に布団に入って聖書を読み始めました。その頃旧約聖書を1章ずつ読んでいて、ちょうどその日からエレミヤ書に入るところでした。その1章7節を読んだとき、私の心にストンと落ちる思いがしました。それまで本当に献身してよいのか、今すべきなのか、もう少し待つべきなのか、あれやこれや人に相談したり、悩んでみたり、それでも決断できなかったのが、その高校三年の冬の夜、はっきり主の御心を受け取ることができまいた。そして従う心がやって来ました。
 神さまの語りかけは真実です。そしてその語りかけを聴いたなら、私たちの生き方は変えられていきます。自分の決心を越えた、大きな神さまの御心の中に生き始めることができるのです。そのために神さまは今日も語っておられる。聖書を通し、聖霊によって、御子イエス・キリストを顕し、救いの道を教えて、主の御心に生きる者へと私たちを新しくしてくださるのです。この神の語りかけを慕い求め、期待し、そしてその御声に聴き従っていく私たちとならせていただきたいと願います。

 



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