シリーズ「福音に生きる」その4  2014/08/03
『主イエスを証しする聖書』

ヨハネ5:30-39

 8月の月を迎えました。夏の暑さの続く中ですが、新しい月の始まりに主を礼拝する恵みに与る幸いを感謝します。特にこの月は平和の尊さを覚える時でもあります。この朝もともに生ける主からの愛と平和と祝福の御言葉をいただいて、新しい週の歩みへと一歩を踏み出してまいりましょう。

(1)神の言葉、聖書
 私たち同盟教団からパプア・ニューギニアに遣わされ、二十数年にわたってウィクリフ聖書翻訳協会の翻訳宣教師としてマイワ語の聖書翻訳の働きに従事されている中村孝・矢枝子先生ご夫妻のお働きが大詰めを迎えておられます。一昨年に新約聖書の翻訳が完成し、いまは讃美歌の翻訳に取り組んでおられるのですが、聖書の翻訳が完成した際に、ビニグニ村で行われた聖書奉献式の様子をビデオで見る機会がありました。飛行機、セスナ機、最後はヘリコプターを乗り継いでいくようなジャングルの奥地の村で、村の皆さんが色とりどりの正装をし、村を挙げての実に盛大な式典で、そのクライマックスが御神輿のようなものの上に聖書が載せられて運び込まれてくる場面でした。中村先生ご夫妻も村の人々も満面の笑みをたたえて、それは感動的な場面でした。これほどのジャングル奥地に生活しながら、長年にわたり気の遠くなるほどの地道な作業を続けて来られた先生方のお働きへの感動はもちろんのこと、自分たちのことばで聖書が読めるということをこれほどに喜んでいる村の方々の笑顔を見て、あらためて聖書がここにある、ということが決して当たり前でない、大きな恵みであることを覚えたことです。
 キリスト教会は聖書を大切にします。とりわけ私たちプロテスタント教会では「聖書のみ」が大切な合言葉です。大切にするといっても、床の間に聖書を飾って、その前にお供えをするというようなことではありません。中世の豪華な装飾が施された骨董品のようにショーケースに入れて日がな眺めて過ごすということでもありません。聖書を大切にするということは、要するに聖書の言葉を聴くということであり、聖書を自ら読むということです。教会では機会あるごとに聖書が開かれます。礼拝でも聖書に記された神の言葉が説き明かされます。またそれを聴いて心に留め、人と分かち合い、また毎日のように聖書を読んで養われていきます。なぜ教会はそれほどまでに聖書を大切にするのか。それは聖書の御言葉が、主なる神が私たちに与えてくださった神の言葉であり、私たちにとってなくてならないいのちのことばであるからです。旧約聖書の詩篇119篇は聖書の中で一番長い箇所ですが、全編にわたって神の言葉を読み、口ずさみ、心に刻むことの大切さが歌われています。「あなたの御言葉は私の足のともしび、私の道の光です」、「これこそ悩みの時の私の慰め。まことに御言葉は私を生かします」と歌われるとおりです。
 私たち人間は言葉によって生きる存在です。言葉を語りかけられて成長し、言葉を獲得して自分の思いを表現し、言葉を用いて隣人と繋がっていく。そのもっとも根源的な言葉が神の言葉であり、神の語りかけであり、それをもって一番に繋がるべき相手が、私たちを愛し、私たちに向かって語りかけていてくださる神であり、その神の愛の語りかけこそが、人となられた神の言葉、イエス・キリストなのです。主なる神は私たちに対する最も根源的な言葉として、聖書を通して語っていてくださる。その愛の語りかけを聞き続け、いのちの言葉に養われ続けることによって、言葉によって生きる人間は、その本来の人間らしさを回復していくことができるのです。
 
(2)主イエスを証しする聖書
 この朝与えられているヨハネ福音書5章の御言葉は、主イエスが神の御子であることを聞いて激しく反発するユダヤ人たちに対して、主イエスは御自身と父なる神が一つであられることを繰り返して語られ、その上で重ねてこの証言が確かなものであることを示そうとなさるところです。31節、32節。「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています」。
 ここで主イエスはあたかも裁判の法廷におられるかのようにして自らの証言の確かさについて語っておられます。法廷では自分で自分のことを証言しても有効とはなりません。自分に都合の良いように嘘の証言をするかもしれないし、裏付けのないあやふやな証言がなされるかもしれない。ですから必ず他の誰かの証言が必要となります。主イエスの場合はどうでしょう。本当は主イエスが神の御子、救い主であられることには他の誰かの証言は必要ないはずですが、それでもここで主イエスは敢えてユダヤ人たちのために自らが神の子、救い主であられることの証言について語られるのです。その際に、ここで主は四つの証言を取り上げておられます。順を追って見ていきたいと思いますが、その第一が洗礼者ヨハネの証言です。33節から35節。「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです」。
 最初は洗礼者ヨハネの証言です。洗礼者ヨハネはまさしく主イエスこそが神から遣わされた救い主、神の御子であることを証言した人です。しかしその証言もユダヤ人たちは受け入れることがありませんでした。
 第二は主イエス御自身のなさったわざです。36節。「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです」。ここで「わざ」と言われれるのは狭く取れば主イエスがなさった奇跡やいやしの御業、直接には5章のベテスダの池のほとりでの病人を癒された出来事を指していますが、もう少し広げれば主イエスの御業の全体と言ってもよい。それらの主イエスの為されたみわざが主イエスが神の子であられることの証言だというのですがしかしそれでもユダヤ人たちは受け入れることがなかったのです。
 第三は父なる神御自身の証言です。37節、38節。「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです」。これ以上ない確かな証言と思いますが、しかしそれもユダヤ人たちが受け入れるには至らない。なぜなら「あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません」とあるように、誰も父なる神を見た者はなく、その声を聞いていないのです。
 それで重要なのが第四の証言、すなわち「御言葉」による証言です。39節。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」。これは私たちがいつでも思い起こしておきたい大切な御言葉です。聖書はまさに神の子イエス・キリストについて証言している書物なのです。

(3)聖書が分かるということ
 しかし40節。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。聖書が与えられているのに、どうして彼らはイエスが神の子だという証言を受け入れようとしないのか。しかもここで注意したいのは、ユダヤ人たちが主イエスが神の子との証言を受け入れないことが「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとしない」と言われていることです。そこでは聖書に記された御子イエス・キリストについての証言を受け入れることが、まことのいのちを得ることと一つのこととして語られているのです。先の39節の「調べています」というのは「詳しく調べる、深く探る、研究する」という意味を持つ言葉です。確かにユダヤ人たちは長年旧約聖書に親しみ、特に律法学者たちは聖書の意味を深く探求し、これについて調べ上げ、その隅々まで知識を蓄えていました。けれども、果たしてそれで聖書が分かった、ということになるのかといえばそうではない、と主イエスは言われるのです。これは大事なことです。
 私たちにとって聖書が分かるというのはどういうことなのか。聖書の言葉の意味が詳しく分かると言うことなのか、聖書の歴史的背景や文化が分かるということなのか、聖書に出てくる人々の生き方や教え、主イエスの愛の業や教訓が分かると言うことなのか。理想の人間の生き方や宗教的な教えが分かると言うことなのか。もちろんそれらも大事なことであり、また有益なことでしょう。それらがある程度分かることで聖書のメッセージがよりはっきり分かるということがあるからです。しかし一番大切なことは何か。聖書が分かるというのはどういうことか。それは聖書が証言するイエス・キリストを神の御子、私たちの救い主として信じ、受け入れるということです。
 私たち同盟教団の信仰告白があります。全部で8箇条の簡易なものですが、それでも私たちが信ずべき大事なことはきちんと含まれています。その信仰告白の第一項は聖書についての告白です。こういう言葉です。「旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である」。これは昨年3月の教団総会で改訂されたのですが、以前のものに「神の救いのご計画の全体を啓示し」という一句を加えました。旧新約聖書全体の中に、神さまの救いの全体が表されている。だから私たちは旧約も読み、そして新約も読む。牧師は旧約からも説教し、新約からも説教するのです。さらにもっと大切なことは「救い主イエス・キリストを顕す」ということです。これだけ分厚い聖書が目指していることは何なのか。それを外してしまっては、せっかく聖書をどれだけ熱心に読んだとしても、ピントがはずれたことになってしまうでしょう。最も大切なことは、主なる神が聖書を通して最も伝えたいと思っていることを私たちが受け取るということです。その時に、私たちの中に真の意味で聖書が分かる、ということが起こってくるのです。主イエス・キリストは言われます。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」。聖書とはいかなる書物か、それは「わたしについて」すなわち
神の御子、私たちの救い主イエス・キリストを証しする書物です。聖書の語りかけを通して、今も私たちに愛の言葉を、いのちの言葉を語りかけていてくださるこのお方と出会うことが、聖書の記された一番の目的なのです。

(4)聖書の目的
 さらに言えば、聖書の御言葉を通して私たちが主イエス・キリストとの出会いを果たすとき、そこで私たちの本当の救いがもたらされます。同じヨハネ福音書の20章31節にはこのように記されています。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。旧新約聖書66巻の目的を一言でまとめればこの御言葉に行き着きます。聖書はなんのために書かれたのか、なぜ私たちは聖書にこだわり続け、聖書の言葉に聞き続けるのか。それは、この聖書を通して、私たちがイエス・キリストを神の御子、私たちのただ一人の救い主であることを信じ、このお方を信じることによって永遠のいのちの祝福にあずかっていくためなのです。
 世にはあまたの良い教え、思想、宗教はあるでしょう。また聖書を古典として緻密に研究する学者たちも大勢います。聖書を教養として学び、その教えをよい人間の生き方の指針として用いる人もあるでしょう。しかし聖書自身が最も願っているその目的を外してしまってはなりません。聖書が一番語り伝えたいと願っていること、いや、聖書を通して主なる神ご自身が私たちに語りたいと願っておられるこのメッセージを、私たちも真正面から聞き、受け取り、そして主なる神が差し出してくださっているイエスの御名によるいのちを私のものとさせていただいて、この聖書の御言葉に導かれる歩みをここからはじめていただきたいのです。
 そして主イエス・キリストにある歩みを始めたときに、今度はこの聖書が私たちの「信仰と生活の唯一絶対の規範」となる。イエスさま信じて、そこで終わりというのではない。今度はイエス・キリストに結ばれた者として、神の子どもとされた者として、天の御国に生きる者としての歩みが始まっていくのです。そこでは私たちはこの地上に生きながら、もはや神の国の価値観に生きる者とされていく。あのマタイ福音書5章で主イエスが山の上で語ってくださった幸いの言葉、祝福の言葉に生きていく。心の貧しい者は幸い、悲しむ者は幸い、柔和な人は幸い、義に飢え渇く者は幸い、あわれみ深い者は幸い、心のきよい者は幸い、平和をつくる者は幸い、義のために迫害されている者は幸い。そういう神の国の価値観の中に生きる指針がはっきりと見えてくる筋の通った一筋の道を、御言葉に導かれつつ、しっかりと地に足を付けつつここから歩み出してまいりましょう。

 



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