シリーズ「福音に生きる」その3  2014/07/27
『福音に仕え、教会に仕える』

コロサイ1:23

 梅雨が開けた途端に連日の猛暑が続いていますが、この朝もお一人一人健康が与えられて、ともに教会に集まり、主イエス・キリストを礼拝する幸いが与えられていることを感謝します。今朝は与えられているコロサイ書1章23節の御言葉を中心にして、この福音を私たちはどこで受け取るのか。福音の宣教を委ねられた教会と、この福音に仕え、教会に仕えるべく召された教会の使命をともに受け取ってまいりましょう。愛するお一人一人に主の豊かな祝福がありますように。

(1)福音との出会いの場としての教会
 毎回しつこいようですが、今朝も最初に永井春子先生の「青少年のためのキリスト教教理」の第3問をご紹介しておきます。「問:キリストを知るには、どうすればよいですか。答:教会に来て、礼拝しながら、聖書のみことばを聞くとき、御霊の働きによって、キリストを知ることができるのです。ただ知るだけでなく、キリストにお会いできるのです」。ある時この問答をご紹介したところ、「私は教会に行かずに自分一人で聖書を読んで信仰を持った」と言われた方がありました。確かにそういうことはあるでしょう。私の存じている方でも学生時代に聖書を一人で読み進め、ある時にイエス・キリストを信じるようになった。それでクリスチャンになったのだから教会に行かなくては、と自分で教会を探して行くようになったという方がありました。ヨハネ福音書3章に「風は思いのままに吹く」とあるように、聖霊の神さまのお働きは実に自由でバラエティーに富んだものですから、何か決まり切った法則だけで一切の例外はないというようなことではありません。一人一人に相応しい時と場所と方法で福音との出会いが起こることは大いに尊重されるべきです。
 しかしそれでもやはり「教会」の大切さということは、強調してし過ぎるものではないでしょう。明治以降の日本の歴史をひもといてみると、かなりの教養人、知識人と呼ばれる人が若い頃に聖書に親しみ、聖書の神に心惹かれ、聖書を良く読み込んでその思想を咀嚼していたことが分かります。そしてこれらの人々が近代化に向かう当時の日本社会の中で大きな影響を与えたことも知られています。しかしそのような人々がみなキリスト者になり、教会に連なったかというと必ずしもそうではありませんでした。もちろん中には洗礼を受けて熱心に教会を通して働いた人々もいましたが、多くは思想としてキリスト教を受け入れた、あるいは個人的に聖書を読み、自分の精神的な支えにしたというところに留まっていたようです。あるいは内村鑑三の無教会のように、教会という制度を否定するということも起こりました。しかし赤江達也さんの『紙上の教会』を読むと、内村が健筆を振るった「聖書の研究」が無教会にとっての「教会」であったとも指摘されます。しかしやはり人々が福音に出会う一番のきっかけは教会でした。植村正久、小崎弘道、新島襄、その他、日本のプロテスタント教会初期の代表的なキリスト者たちはみな牧師として、熱心に伝道し、各地に教会を建て、その教会に人々が集い、福音に触れ、キリストの救いにあずかっていったのであり、今もやはり教会は福音との出会いの大事な場です。
(2)福音に仕える使徒
 さて、今朝与えられているコロサイ1章23節をもう一度お読みします。「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです」。
 本書の宛て先であるコロサイの町は小アジヤ半島南西部リュコス川上流のフリギヤ地方に位置し、かつては商業都市として栄えた後に衰退していった小都市で、離散(ディアスポラ)のユダヤ人が多く住んでいたと言われます。この地に建てられた教会とパウロの間には直接面識はなかったようですが、教会を導いていたエパフラスから、2章8節や20節で「あのむなしいだましごとの哲学」、「この世の幼稚な教え」と呼ばれている異端的な思想に攻撃されている教会の状況を聞いたパウロが、正しい信仰を弁証し、異端的な教えに反駁することを目的として書き送ったのがこの手紙です。
 当時のコロサイ教会にはこの地上のものを悪、目に見えない霊的なものを善とする二元論的なグノーシス主義やペルシャ宗教の影響、それによって厭世的で禁欲的な生活を強いる律法主義的な異端が侵入して信徒たちを惑わしていました。これに対してパウロはそれらの誤った思想を斥け、福音の真理を明らかにしています。また1章15節では「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です」、17節では「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」として、神の御子イエス・キリストが天地創造の前からまことの神であることを語っています。そして20節において「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです」として、御子イエス・キリストによる救いという福音の中心を明らかにして、それを受けて語られるのが、今日の23節ということになるのです。このようにパウロは永遠の神の御子イエス・キリストによる救いという福音のメッセージが、他の誤った教えによって壊されてしまうことのないように、「しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」と勧め、しかも「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです」と語るのです。
 前回私たちは、福音の良き知らせは突然天から降ってくるわけではなく、歴史の中で福音の知らせを聞き続け、それを宣べ伝え続けてきた教会を通して、今、私たちのもとにまで届けられていることを学びました。それでここで「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです」と語るとき、パウロが仕えている「それ」とは「福音」のことを指していました。パウロはまさに福音に仕える者であり、そもそも使徒という務めがまさに福音に仕えるための務めであったのです。では「福音に仕える」とはどういうことなのか。パウロの考えに沿って言えば、福音に仕えるとは、福音を宣べ伝えるということと同じことでした。これまでも繰り返し教えられてきたように、福音とは宣べ伝えられてこそのものであり、しかもそれは誰か、それを担う人を通して伝えられていくものゆえに、福音に仕えるとはまさしく福音を宣べ伝える人の存在とその働きそのものを示すものなのです。
(3)福音に仕える教会
 さらに福音に仕えるということについて考えてみたいと思いますが、パウロにとって福音に仕えることは、同時に福音の宣教を委ねられた教会に仕えることとも同義なことでした。続く24節、25節にはこう記されています。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです」。
 福音に仕えるということを、パウロは決して抽象的に考えてはいませんでした。彼にとって福音に仕えるということは、福音を宣べ伝えるために建てられた教会に仕えることであり、教会に仕えるということは、キリストの苦難をもこの身に引き受けながら生きることにほかならないことなのです。またパウロは福音に仕えるということを決して個人的な働きとも考えていませんでした。彼の働きは単独の個人プレー、スタンドプレーではなく絶えず諸教会の祈りと支えの中にあって進められていったことなのです。私たちは福音を聞くのも、福音を伝えるのも、そこに教会というものが決定的な意味を持つものであることを十分心に覚えておきたいと思います。主は教会に福音を委ねられ、教会を通して福音が宣べ伝えられることをよしとされ、そのために人々を教会に招き、福音の言葉を聞かしめ、そして救いの中への招き入れてくださるのであり、そのためにまた主は教会に福音の宣教者をお立てになり、主の僕たち一人一人に福音の証しを託して、私たちをそれぞれの場への派遣してくださるのです。
教会への招き、それは福音への招きです。多くの場合、人々が救いに導かれて行くきっかけとして、やはり教会に来て、その場所の空気が心地よく、出会った人々の印象が気持ちよいものであったということがあります。そうやってその場所の持つ魅力に惹かれて教会に通う中で少しずつ信仰に導かれていくということがあるでしょう。もちろんそれが決定的で絶対の要素であるとは言えませんが、しかしそれが全く逆の印象であるならば、人々を福音から遠ざけてしまう原因となることは明らかでしょう。教会もまた一つの社会的な存在である以上、そこに潜む様々な問題や誘惑に絶えず気をつけていなければ、思わぬ形で足下をすくわれないともかぎりません。
 私たちは福音に仕え、福音を届ける教会として建てられている。この目的、存在の意味を繰り返し覚えておく必要があると思うのです。地上の組織として、団体として、数が増え、規模が大きくなり、社会的な認知を広げていくことが目的なのではない。そうではなくて、結果的にそのようなことが伴うとして、それが目的なのではなく、あくまでも教会がこの地上に建てられている目的は主イエス・キリストにある福音を宣べ伝え、神の国の訪れを語り続けるためである。この福音に仕え、この福音を一人でも多くの方々にお届けするために教会は建てられている。このことをいつも心に覚えながら、ここで福音の言葉を聞き、生けるまことの救い主イエス・キリストとの出会いが起こされる、そのような所として教会に集い続けていきたいと思います。

 



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