シリーズ「福音に生きる」その2   2014/07/20
『良き知らせを伝える者』

ローマ10:13-15

 暑い夏を迎えようとしていますが、この朝も主イエス・キリストの御前に呼び集められて、ともに愛する皆さんと主を礼拝する恵みを心から感謝します。先週から朝の礼拝では「福音に生きる」というシリーズで御言葉に聴き始めています。今朝は与えられているローマ書10章の御言葉を中心に、「良き知らせ」としての福音と、その福音を受け取る幸い、届ける幸いをご一緒に味わってまいりたいと願います。愛するお一人一人に主の豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)「良き知らせ」としての福音
 昨日から今朝にかけて今年も教会学校の一泊「わくわくキャンプ」が開かれました。今年は14名のお友だちが参加してくれて、楽しいキャンプを過ごすことができました。今年のキャンプの主題は「イエスさまを信じて生きよう」とい昨晩からイエス様を心に信じてお迎えすることの大切さを学び、夜には分級ごとに先生とお友だちが一対一で信仰の確認とお祈りの時を持ちました。普段の教会学校の時間だけではなかなかできない深い交わりがあったことを感謝しています。こういう経験はやがて大きくなってからも記憶に確かに残るものです。その時どんな聖書の話だったかは忘れてしまっても、誰が一緒に祈ってくれたかというのは記憶に残るのです。主イエスの福音はある日突然天から降ってくるというのでなく、主がお遣わしになった「人」、福音の担い手を通して伝えられ、もたらされてくるものなのです。
 聖書の語る「福音」それは、イエス・キリストとの人格的な出会いの経験です。「キリスト教とはイエス・キリストです」。先週私たちは、このような言葉を聞きました。キリスト教とは単なる宗教、思想ではなく、まさに生けるまことの救い主イエス・キリストというお方との出会いによって始まっていくのです。このイエス・キリストとの出会いをもたらす知らせを「福音」というのです。「福音」とは新約聖書のことばで「エウアンゲリオン」というのですが、これが動詞になると「エウアンゲリゾー」、「良い知らせを伝える」という意味が出てきます。福音は「伝えられてこそ」の良き知らせだというのです。考えてみれば当たり前のことです。どれだけ素晴らしい出来事が起こっても、どれほど素晴らしいお方がいても、それが伝えられなければ、だれもそれを知るよしもない。すぐ近くにどんなに良い知らせがあっても、届けてくれる人がいなければ、まったくそれを知らずに望みなく生きる人がいるのです。
 先週火曜日に病院で検査を受けて来ました。その前の週に日曜日から痛みがぶり返して月曜、火曜の会議をキャンセルして病院に行ったのですが、CT検査の結果で腸には異常がないと言われた後で「膀胱に影がある」と言われました。「どういうことですか」と聞くと「まあ、腫瘍の可能性もありますね」と言われて、木曜にエコー検査になりました。さすがにびっくりして、腸のことよりすっかり頭の中は「膀胱癌」の三文字が駆け巡り、結果は内視鏡検査の時にあわせて伝えるとのことだったので、内心とてもひやひやしながらこの火曜日を迎えたわけです。そこで病院に行って内視鏡検査が始まる時に先生に「先日のエコー検査の結果は・・・」と恐る恐る尋ねると、「ああ、あれね。何にも写ってなかった。大丈夫、大丈夫」とえらく軽い感じで言われてちょっと拍子抜けしたのですが、それでも後からじわじわと安心感が込み上げてきて、まさに「良い知らせ」となったわけです。

(2)良き知らせは届いている
 病気の心配だけではないでしょう。私たちの回りには様々な不安、心配、恐れが渦巻いています。世の中の動き、戦争の不安、地震や災害という広い世界のことばかりでなく、私たちの身の回り、そして自分自身の内面にも様々な恐れがあるのです。しかしそのような私たちのもとに、福音の良き知らせは届けられていると聖書の御言葉は語ります。今日開かれているローマ書10章13節からをもう一度お読みします。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」。
 特にここでまず注目したいのは最後の「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」という言葉です。これは先週の礼拝でも紹介した旧約聖書イザヤ書52章7節の引用ですが、そこには次にように記されています。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は」。これは当時、前線で戦いに勝った勝利の知らせを王のもとに伝えに走る伝令の姿を歌った言葉と言われます。戦の勝敗を案じて後方にいる王のもとに、一刻も早く喜びの知らせを伝えたい。その一心でひた走る喜びの知らせの使者の姿です。彼がその知らせを届けなければ、王もその他の民たちも勝利の喜びを知ることはないのです。そのように福音の良き知らせ、罪と死の力に対する完全な勝利をもたらす良き知らせである福音の言葉は、この朝、私たちのもとにも確かに届けられているのです。多くの宗教は、救いを得るために様々に難行修行を積んだり、善行を重ねたり、犠牲を払ったり、お布施を積んだり、そうやって自分の努力の末にようやく救いを獲得すると教えます。しかし聖書が語る福音は、むしろ神が私たちに向かって語りかけ、そのすべてを明らかにし、求める者はこれをただで受けよと差し出していてくださるのであって、それは主なる神の全く主権的で自由で無償な愛のあらわれなのです。ですから私たちはこの福音の言葉を聞いたなら、それを受け取るだけでよい。そこにこそ、福音が良き知らせであることの一つのしるしがあるのです。

(3)福音を届ける教会
 ではこの良き知らせを伝える使者とはいったい誰なのでしょうか。もう一度14節、15節をお読みします。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう」。ここには、福音の言葉が直接天からの声としてでなく、宣べ伝える人を通して語られ、聞かれていくという道筋が明らかにされています。福音の言葉はこの歴史の中で、福音の喜びを知った人々を通して語られ、伝えられていきました。その一人一人が福音の言葉を聞いた時、確かに「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」ことを確信し、その喜びをまた誰かへと伝えていったのです。この御言葉を記したパウロもまさにその一人でした。彼にもまた福音を明らかにしてくれたアナニヤという人がおり、またその信仰の成熟のために助けてくれたバルナバがおり、アンテオケ教会の交わりがあったのです。
 それと同じく、私たちのもとにも、この良き知らせとしての福音の言葉は主が用いられた多くの人々を通してもたらされています。ある人は家族、ある人は友人、ある人は同僚、ある人は思いがけない人を通して、ということであるかもしれない。けれども、それらの人々を主は用いて、私たちに良き知らせを届けてくださっています。そして何よりも福音の言葉は教会に委ねられています。先週ご紹介した永井春子先生の教理入門の第3問にはこうありました。「問:そのキリストを知るには、どうすればよいですか。教会に来て、礼拝しながら、聖書のみことばを聞くとき、御霊の働きによって、キリストを知ることができるのです。ただ知るだけでなく、キリストにお会いできるのです」。良き知らせとしての福音の言葉を、私たちは教会において聞く。礼拝しながら、聖書の御言葉を通して聞く。それこそが主なる神の福音の言葉の語り方なのであり、この教会、この礼拝の場において、聖書の御言葉を通して、私たちは良き知らせとしての福音を聞くのです。

(4)良き知らせを伝える者
 最後にもう一度、13節から15節を心に留めましょう。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。しかし、信じたことのない方をどうして、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」。
 ここには聖書の中でももっともストレートな伝道への招きがあります。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。主イエス・キリストの十字架による救いはすでに成し遂げられている。そしてそれを信じるだけで救われる。それなのに、それをいまだに聞いたことのない人がいる。このことの間にある隔たりにパウロの心は激しく動くのです。せっかく良き知らせがあり、それを待っている人がいるのに、肝心な人、この福音を伝える人がいない。パウロの叫びはそのまま主なる神ご自身の私たちを求める叫びと言ってよいでしょう。主は私たちに伝道に無関心であることを許されない、他人事のようにやり過ごすことを許されない。むしろそこでこそあなたがたの出番ではないかと、私たちにチャレンジを与えられるのです。自分の言葉に自信がない。福音を伝える勇気もない。でも主なる神はそういうできるか、できないかということを超えて、私たちの心を揺さぶってこられます。「信じたことのない方をどうして、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」と。
 そしていつも励まされるのは15節の最後の言葉です。「次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」。この御言葉で特に心引かれるのは「良い知らせを伝える人」の「足」に目が注がれているという事実です。
良い知らせを伝えるために荒野を走り抜け、山々を越えてどこまでも進む伝令の足下は泥にまみれ、埃にまみれ、すり切れ、傷ついていたことでしょう。「美しい」とはとても言えない足だったと想像します。でも彼が担うその知らせのゆえにそれを伝える彼の足もまた「美しい」と言われる。この主なる神の眼差しに言いようのない慰めと励ましを受けるのです。今、主なる神は私たちの何に目を注いでおられるのでしょうか。巧みな言葉を語る口でしょうか。器用に人々を導く手でしょうか。新しいアイデアを次々と考え出す頭でしょうか。やはり昔も今も、主なる神の眼差しは私たちの足に注がれているのではないでしょうか。「伝道」、「道を伝える」ということ。やはりそこにはその道を歩く足が必要ですし、その道を伝える足が必要です。回り道をする足、無駄足を踏む足、何度行っても門前払いを食らうような足、ほとほと疲れ果てて引きずるように帰ってくる足。それでもなお一人の人を主の良き知らせのもとに導くためにまた新しく出かけていく足。そういう足を見て主は「なんとりっぱなこと、なんと美しいこと」と言ってくださる。そこをちゃんと見ていてくださる主の眼差しに励まされつつ、良き知らせを受け取り、また伝えてまいりましょう。

 



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