シリーズ「福音に生きる」その1  2014/07/13
『福音のはじめ』

マルコ1:1-8

 今年1月から読み進めて旧約聖書ネヘミヤ記の学びを終えて、この朝からこの年の後半は新しく、「福音に生きる」というシリーズで御言葉に聞いていきたいと願っています。時代がめまぐるしく動いていき、私たちも先行きの不安や言い知れぬ心配に心騒ぐものですが、このような時こそ、聖書が語る福音のよき知らせに耳を傾け、福音によって生きていく一人一人の存在がとても重要です。ここに救いがあり、ここに希望がある。その福音の確信をしっかりと握りしめて歩んでまいりたいと願っています。愛するお一人一人の上に主の豊かな祝福がありますように。

(1)神を愛するために神を知る
 私たちの教会では毎週の礼拝において、特に御言葉の説教に重きを置いています。朝の礼拝では聖書の中の一つの書物を取り上げて、順々に説き明かしていく「連続講解説教」というスタイルを大切にしていますが、夕拝では様々な主題を取り上げて短いシリーズで説教をしています。これまでに使徒信条、十戒、主の祈り、礼拝に生きる、教会に生きる、福音に生きる、伝道に生きる、主イエスに出会った人々、ハイデルベルク信仰問答による説教、バルメン宣言による説教などを語ってきました。今回の「福音に生きる」というシリーズも、今から五年ほど前に全29回のシリーズで語ったことがあるのですが、今回はもう一度新しい思いで、皆さんとともに御言葉に聴いていきたいと願っています。
 聖書が語る救いの教えを「教理」と言います。そして教会は歴史の中で教理を学ぶことを大切にしてきました。中世の神学者にアンセルムスという神学者がおりました。彼が残した言葉に「信ぜんがために知らず。知らんがために、我信ず」という言葉があります。神についての知識を積み上げたら神を信じることができるのではない。私を愛してやまない神をもっとよく知るために私は信じるのだ、というのです。そこには信じる心をもって神を知る、という道筋が示されています。私たちもこの朝、この道筋をともに歩み始めていきたいと願っています。
 私はこの教会に赴任して以来、求道者の方とは必ず個人的に教理を学ぶようにしています。いわゆる「聖書の会」と呼ばれているものです。週に一度教会に来ていただいて教団が出している『聖書が教えている基本的なこと』というテキストを用いて、聖書とは、神とは、人間とは、罪とは、キリストとは、救いとは、教会とは、ということを学んでいくのです。ある方とは三ヶ月、ある方とは半年、ある方とは一年近くかけて学んでいきます。その中でいろいろな質問が出され、一緒に考える。でもどこかで必ず転機が訪れる。「知識から信仰へ」というように始まった歩みが、「信仰から知識へ」と転換する時があるのです。そして信仰の道を歩み始めてからもくりかえし教理を学んでいく。それは私たちがますます私たちを愛してやまない御子イエス・キリストの父なる神を愛し、従う者となっていくための学びなのです。宗教改革者カルヴァンがジュネーヴ教会信仰問答において、私たちの生きる目的が「神を崇める目的で神を知ること」と言いました。フランス語訳では「神を愛する目的で神を知ること」と言っています。まさしく私たちの歩む道筋は、「神を礼拝するため」、「神を愛するため」の道筋なのです。

(2)福音のはじめ
そこでこの朝与えられている御言葉に目を留めたいと思います。マルコ福音書1章1節。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。「福音のはじめ」。大変印象深い言葉です。私たちはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音を手にしていますが、この「福音書」と呼ばれる書物の中で、自らを指して「福音」と呼ぶのはこのマルコだけです。四つの福音書の中で一番簡素で、短く、あっさりとした、時に荒削りとも言えるようなこの書物が、しかしその中で最も力を込めて伝えたいこととして語り出そうとしているのが、この「神の子イエス・キリストの福音」についてなのであり、マルコはそれをこのはじまりをもって書こうとしているのです。
 そもそも聖書の言う「福音」とは何でしょうか。それは「良き知らせ」、「喜ばしいおとずれ」という意味を持つ言葉です。この言葉は遡れば旧約聖書のその原型を見ることができますが、その幾つかの例をイザヤ書から見ておくことにします。まずは40章9節、10節。「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を』見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある」。次に52章7節。「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は」。そして61章1節。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」。このように旧約聖書の語る「良い知らせ」とはやがて救い主、メシヤが来られるという知らせだと言うことがわかります。何かの教え、何かの思想、何かの出来事についての情報というのではない。「救い主が来られる」という知らせ。これこそが何よりの福音なのです。ですからマルコ福音書は大事な大事な降誕物語などを一切飛ばしてまでして、真っ直ぐに神の子イエス・キリストを指し示しているのでしょう。
 そのようにして神の子イエス・キリストの福音を書くマルコが、その「はじめ」に記すのは旧約聖書の御言葉です。2節、3節。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」』」。ここでマルコは福音のはじめである神の子キリストと出会うためには、その前に準備があると言います。それが旧約聖書であり、また預言者たちであったというわけです。ここで示される「預言者イザヤの書」とは、厳密には2節は旧約聖書マラキ書3章1節、「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える」、3節はイザヤ書40章3節、「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」という二つの旧約聖書の御言葉から成り立っています。マルコはこの二つの旧約聖書の預言のうち、まずマラキ書3章の「わたし」を神の御子、真の救い主メシヤ、イエス・キリストであるとし、続く「わたしの使者」を、主イエスの先駆けとして現れた洗礼者ヨハネのことであるとして、このヨハネの果たすべき役割が「わたしの前に道を整える」ことであることを明らかにしました。その道こそがイザヤが語る「主の道」であり、事実、洗礼者ヨハネはイエス・キリストの前に道を整える者として荒野で呼ばわる声の役割を果たしていったのです。3節後半から8節に記される通りです。「そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります』」。
 このことはここで引用されるイザヤ書のメッセージとも重なるものと言えるでしょう。イザヤ書はそれ自身が聖書そのものであると言ってよいような構造を持っています。イザヤ書は全部で66章からなっていますが、これは聖書の全66巻と同じです。聖書は旧約が39巻、新約が27巻ですが、大変興味深いことに、イザヤ書も39章と40章で大きくその内容が変化するのです。39章までの所でイスラエルの背信の罪とそれゆえの裁きを語ってきた預言書が、40章に入った途端に、その始まりが次のように記されるのです。「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと』」。こうして続くのが「荒野に呼ばわる者の声がする」というこの御言葉で、その後にさらに先ほど開いた「シオンによい知らせを伝える者よ」という呼びかけの言葉が続くのです。つまりイザヤ書がちょうど旧約と新約の関係を表しているように、洗礼者ヨハネと神の御子イエス・キリストとの関係もまた悔い改めと赦し、裁きと救いという旧約と新約の関係を象徴していると言えるのです。

(3)神の子イエス・キリスト
 イザヤが預言し、マラキが指し示し、荒野の声なる洗礼者ヨハネが道備えをした方。この方こそ、私たちを罪から救うことのおできになる唯一人の救い主、神の御子イエス・キリストであられます。マルコはこのイエス・キリストの生涯の全体を書こうとは思わない。むしろ彼が書くのはイエス・キリストの神の子としてのあり方の中心についてです。その中心とはマルコ福音書が繰り返しその予告を記すイエス・キリストの受難の物語、十字架の物語であり、あたかもそのことを早く書きたい一心で筆を急がせているかのように、次へ次へと筆を進めるのがこの福音書なのです。つまり私たち人間を罪から救うために人となってくださった神の子キリストの受難の出来事、十字架の出来事こそが、私たちにとっては「喜びのおとずれ」すなわちまさしく福音なのであって、その一点にマルコは最初からずっと焦点を当てて、この福音書を書いて行ったのです。
 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。この「はじめ」という言葉は、ギリシャ語の「アルケー」という言葉であり、単なる時間的な順序の上での「はじめ」ということに留まらず、事柄の根源、始原、原点というような意味を持つ深い言葉です。そのような意味を踏まえつつ改めてこの「はじめ」という言葉に注目する時、私たちはマルコが記す「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」というこの言葉を、むしろ「神の子イエス・キリストが福音のはじめ」、いや「神の子イエス・キリストこそが福音のはじめ」と受け取ることができるのではないでしょうか。神の御子イエス・キリストこそが私たちにとっての良き知らせであり、その良き知らせそのもの、根源である。これがマルコ福音書が私たちに語りかける何よりのメッセージです。
 以前にもご紹介したことがあるかと思いますが、永井春子という戦前にドイツに留学して学ばれた先生の書かれた『少年のためのキリスト教教理』という本があります。今から40年も前に書かれた小さな書物で、『少年のため』というのですが、その割にはなかなか本格的な書物で、大変優れたものだと思っています。その冒頭に次のような問答があります。「問1:キリスト教とは何ですか。答:キリスト教とはキリストです。問2:キリストとは誰ですか。答:神のひとり子で、私たちを罪から救うために人となられたイエスさまのことです。このイエス・キリスト以外にまことの救い主はどこにもありません。またこのイエス・キリスト以外に、まことの神さまを知る道はありません。問3:そのキリストを知るには、どうすればよいですか。教会に来て、礼拝しながら、聖書のみことばを聞くとき、御霊の働きによって、キリストを知ることができるのです。ただ知るだけでなく、キリストにお会いできるのです」。特にこの第3問答が大事です。キリストを知るにはどうすればよいか。教会に来て、礼拝しながら、御言葉を聴くというのです。最初はむずかしいかもしれない。牧師は何やら力を入れて語っているけれど、さっぱりわからない。でもいいのです。それでもそうやって礼拝に集い、聖書の言葉に聴き続けていると、聖霊が働いてくださってキリストを知ることができるというのです。これは本当に確かなことです。
 イエス・キリストの十字架を私の罪からの救いのため、と受け入れる時、それは私たちにとって紛れもない「喜びのおとずれ」となるのであり、そこに福音のはじめがもたらされる。このお方を私たちは待ち望み、そしてやがてはこの方をお迎えする者とならせていただきましょう。

 



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