シリーズ福音に生きる28                         2009/12/06
『信仰と行い』
                                ヤコブ2:14-17

 今晩は、私たちが信仰の歩みを続けていく上で極めて重要な意味を持つ、「よき行い」について御言葉からご一緒に教えられたいと思います。

(1)「よき行い」を巡って
 今晩与えられているヤコブの手紙は、私たちプロテスタント教会にとっては特別な響きを持った書物と言えるでしょう。かつて宗教改革者ルターがこの書を指して「藁の書」と呼んだように、ここには行いのない信仰は死んだもの、という大変強い言葉が記されています。ルターがこの書を不要な書物、藁の書だと呼んだのは、このヤコブ書の御言葉が行いによらず信仰によって救われることを語るローマ書やガラテヤ書、エペソ書といったパウロの神学と相対立するもののように受け取られ、むしろよき行いをすることによって功徳を積み、それによって救いを成し遂げようとする当時のローマ・カトリック教会の教えを助長すると考えたからでした。
 しかし今晩はあらためて御言葉そのものに聞くことで、信仰と行いの関係を整理しておきたいと思います。14節から17節をお読みます。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると思っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰が人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」。ここには私たちの信仰のあり方に対する一つの問いかけ、そして呼びかけがあると言えるのではないでしょうか。私たちはとかく信仰を自分自身の心の内側のことと捉えてしまい、それが過ぎると極端な精神主義化に陥ってしまいやすいものです。そしてそれによって引き起こされることは、信仰と行いの乖離であり、口先だけの偽善者的な宗教者になってしまうという現実です。自分自身を振り返ってみても、やはり自分自身の一番の弱いところは、信仰の実践という点にあるということを認めざるを得ません。しかし今日の御言葉はそのような所に光を当て、私たちを信仰に生きるようにと招くのです。

(2)救いの手段か、救いの実りか
そもそも行いの問題は、私たちの信仰の営みの中にどのように位置づけられるものなのでしょうか。実はこの問題は教会の長い歴史の中で絶えず論じられてきたテーマでもあるのです。結論的にはこのように言うことができるでしょう。すなわち、良き行いは救いの手段ではないが、しかし救われた者の結ぶ実である、ということです。良い行いを積み上げなければ救われないと考えて、これを救いの手段あるいは救いの条件としてしまうと、それはたちまち行いによる信仰になってしまいます。しかし私たちは自分の力だけで、あるいは神の助けをいただいたとしてもなお自分の力で良き行いをすることができない。それが人間の罪の現実です。いかに己れが、何の打算も名誉心も功徳心もなしに良き行いをすることができないかはほかでもない己れ自身が一番わかっていることです。その意味でパウロが語るように、私たちはひたすら行いによらず、ただ神のあわれみと恵みによって、信仰によって値なしに救いの中に招き入れていただくことができるのです。
 けれども私が救われたということですべてが出来上がるのではありません。私たちの救いは、ただ私が救われたということで自己完結するものではないのです。今日の御言葉は救われた者の眼差しが、ただ自分だけに向かうのではなく、神が私たちを傍らに置かれた隣人たちに向けています。助けを求める隣人に気づかないほどに己れの救いの問題に没頭するというようなことはあり得ないのです。神の愛は私たちを具体的に動かす力の源です。私の中には良き行いをする力も愛もないのですが、しかし神の愛の中に生かされるとき、愛のない私に神が働きかけてくださり、愛のない私たちの内に神の愛を満たしてくださり、まことに不十分で不確かなものでありながらも、しかしささやかな愛の業へと私たちを促してくださるのです。決してその事を私たちは大きな声で堂々と語ることばを持ち合わせてはいませんが、しかし慎ましやかな仕方で、私に許され、託されている愛の行いがあることはしっかりと受け止めて、そこに生きる者でありたいと願うのです。

(3)愛によって働く信仰
 今日の箇所の前の2章1節から13節は救われた者たちのおごり高ぶりや特権意識を厳しく指摘することばですが、ここを読んで思い起こすのは福音書の中で語られる主イエス・キリストによる律法学者やパリサイ人に対する批判です。そこでの主イエスの宗教者批判の中心は彼らの偽善性にあったのですが、ヤコブはここで全くそれと同じ論法を用いてキリスト者たちの中に潜むゆがんだ特権意識、律法主義を暴き出しています。恵みによって救われた者たちがそのような過ちに陥るはずがないと思いたいところですが、聖書は極めて冷静に、私たちの中に潜むそのような罪を見据えて、そこに光を当てるのです。17節で「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」と言われますが、これと同じような表現が繰り返し出てきます。20節では「ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか」、また26節では「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」と言われている通りです。
 ここでヤコブが教えていること、それは私たちの信仰が死んだ信仰ではなく、生きた信仰であるように、形だけを取り繕った偽善者的な信仰でなく、キリストの愛と命によって燃やされる信仰、パウロがガラテヤ書5章6節で語った「愛によって働く信仰」であるようにというチャレンジです。愛のない私自身の中に聖霊が働いてくださり、キリストの愛を与えていただき、その愛に満たしていただいて、今週も私たちの隣人の傍らへと遣わされてまいりたいと願います。隣人のために時間を割き、心を配り、必要なら出かけていき、重荷を負い、分かち合うことを通して、生きた信仰に生きる一人一人とならせていただきたいと願います。Iヨハネ3章18節。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」



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