シリーズ福音に生きる27 2009/11/29
『ひるがえって生きる』

使徒3:19

 「福音に生きる」というシリーズで福音の教えについてご一緒に学んで来ましたが、いよいよそのまとめに入っていきます。前回までで教理の中でももっとも中心となる救いの教え、救済論を取り上げて来ましたが、今晩を含めて残る三回では「悔い改め」、「よき行い」そして締めくくりに「聖徒の堅忍」について学んでいきたいと考えています。そこで今晩は、御言葉の教える悔い改めについてともに学ぶことにします。

(1)教えの順序
救いの教えを学んだ後で、ここに来て「悔い改め」が取り上げられることについて「なぜ?」と思う方があるかも知れません。罪の中にあった私たち人間が救われるという事柄の順序から言えば、むしろ救いの教えの前に悔い改めが教えられなければならないのではないか、ということです。しかしこのシリーズを学び始めた時から繰り返し申し上げているように、教会の教えの歴史、これを教理史というのですが、教理史を繙いていくと教会が救いの教えを御言葉から教えられながら組み立てていく中で、その配列や順序に大変心を配ってきたことが分かります。このことに注意を払った神学者のうちの一人はカルヴァンですが、カルヴァンは『キリスト教綱要』においても度々「教えの順序」という表現を使っています。そしてかならずしも事柄の順序と教えの順序は一致しないこともあり、基本的に私たちは教えの順序に沿って事柄を考えていくことが福音の教えにおいては相応しいことだと考えるのです。
 特にこのことが「悔い改め」の教えの取り扱い方において重要な意味を帯びてきます。今、祈祷会で学んでいるウェストミンスター小教理問答の配列を見れば明らかなように、そこでは悔い改めは救いの教えの後、救いを受け取る信仰が神の恵みであることが教えられた第86問に続く第87問で「命に至る悔い改めも神の恵みです」と教えられています。つまりここで言われているのは、人間は神の恵みの外側にいる時に悔い改めて、それから恵みの内側に入れられるのではなく、むしろ神の恵みの中ではじめて真実な悔い改めが起こるということなのです。案外このあたりのところの未整理や誤解が、私たちの信仰への第一歩目のハードルを高くし過ぎることになったり、あるいはその後の信仰の歩みをずいぶん窮屈なものにしてしまっているのではないかと考えるのです。

(2)神への立ち返り
 そこであらためて今晩与えられている御言葉に聞きたいと思います。これは使徒2章であの聖霊降臨、ペンテコステの出来事が起こった直後、足のきかない人をいやしたことをきっかけにペテロがエルサレム神殿の回廊に集まっている人々に、イエス・キリストの十字架の意味と、それを信じて救われることの恵みを語り、人々に悔い改めを迫る説教を語った中での言葉です。3章19節。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」。ここには「悔い改める」、「立ち返る」という二つの重要な言葉が出てきます。後の方の「立ち返る」はまさに回転すること、戻ることを意味する言葉ですが、それが「悔い改め」とともに用いられることによっていっそうその意味を明らかにしています。「悔い改め」というのは新約聖書の言葉で「メタイノイア」と言いますが、これは心が変わること、新しくされることを意味しています。つまりこの二つの言葉から分かることは、聖書の教える「悔い改め」は方向性の問題、関係性の問題であり、またそこには具体的な変化、刷新が意味されているということです。
 ここはよく理解しておきたいところですが、悔い改めは反省や後悔とは異なるものです。私たちは罪の問題を深さや大きさ、量の問題で捉えようとしがちです。それで反省や後悔も反省が足りないとか、後悔の念を深めるというような表現が出てきますし、基本的にはそれは極めて後ろ向きな心の動きです。しかし聖書は人間の罪を一貫して神との関係で捉えます。そこでは罪の大きい小さい、深い浅いは関係ありません。どんなに小さくても罪は罪であり、神との関係が破綻していることが罪の本質なのです。そうであれば、私たちがしなければならないことはただ自分の心の内側を覗き込んで「悪いことをしたな、もうあんなことはしないでおこう」という反省の念を抱くことでも、あるいは自分の過去をいつまでも振り返りながら「ああ、どうしてあんなことをしてしまったのだろう、あんなことをしなければよかった」と後悔の念にさいなまれ続けることでもありません。大切なことは主イエス・キリストの十字架の恵みの前に立って、神からの無罪宣告を受け取り、そこで新しく罪赦されて方向転換し、新しく神とともに、神に向かって生き始めること、それこそが本当の悔い改めなのです。

(3)ひるがえって生きる
そう考えるなら、悔い改めるのに遅すぎるということはありません。今晩の説教題を「ひるがえって生きる」としました。人生どんな地点にあってもそこで主イエス・キリストと出会うなら、そして神の恵みに与るなら、そこで人は神へと鮮やかにひるがえって生きることができる。まさに聖書が教えるのは悔い改めて回心すること、人生に全く新しい方向転換が起こることなのです。私たちの教会では朝の礼拝で悔い改めと赦しの宣言が行われます。今、礼拝部でこの部分についてもっと内容を豊かにできないかと検討を始めているところですが、しかし私はそれでもこの御言葉は外したくないと思っているのがいつも赦しの宣言の中で読まれるIIコリント5章17節です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。まさに悔い改めとはキリストにあって私たちが新しいものとされることです。そして悔い改めた者は、二度と再び古い生き方に舞い戻ることはありません。私たちは過去に縛られたり、過去にとらわれたり、過去に責められたり、あるいは過去に魅せられたりして生きるのでなく、もう振り向かずにひるがえって前に向かって生きていくことができる。この恵みをいただいて、前を向いて、確かな足取りで赦しの恵みの中を新しく歩んでまいりたいと願います。



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