シリーズ福音に生きる26 2009/11/15
『キリストに結び合わされて』

ローマ6:5

 今晩は、これまで学んできた救いの教理のまとめとして、私たちが聖霊によってキリストと一つに結び合わされる恵みについて、ともに御言葉から教えられてまいりたいと思います。

(1)救いの総体としてのキリストとの結合
これまで救いの教理として、聖霊による召命、義認、子とされること、聖化、そして栄化の教えについて順を追って学んできました。今日はそれら全体を包み込む救いの教えのいわば総体である「キリストに結び合わされること」、すなわち「キリストとの結合」ということを教えられたいと思います。そこでまずローマ書6章5節をお読みします。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」。このローマ書6章は、私たちがキリスト・イエスと一つに結び合わされる恵みを教えるところで、私たちが洗礼について学ぶときに必ず開かれる御言葉です。以前夕拝で教会論をシリーズで学んだ時にも、洗礼について考えた時にこのローマ書6章を取り上げました。今日はその洗礼の礼典がしるしとして指し示しているいわば本体にあたる教えを考えることになるわけですが、ローマ書6章を読んでいきますと、ここで「キリスト・イエスにつく」、「キリストにあずかる」といった表現が繰り返されていることが分かります。そしてその極めつけのようにして語られるのが、今日の5節に出て来る「キリストにつぎ合わされる」という表現なのです。パウロはこのように「接ぎ木」のイメージを用いながら、そこに主イエス・キリストとの私たちとの間に生まれるいのちの交わりを生き生きと描き出しているのです。
 しかしこのことはパウロが独自に生み出した教えではなく、むしろ主イエス・キリスト御自身が語っておられたことでもありました。ヨハネ福音書15章4節、5節。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」。さらに、このキリスト御自身との結びつきは、父・子・聖霊の三位一体の神の内側における分かちがたい愛の結びつきをその基礎としているものです。9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と語られているとおりです。父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の御存在において示された愛の中に、私たちもまた罪赦され、義とされ、子とされ、聖とされた者として結び合わされているのです。

(2)キリストとの結合の恵み
キリストと結び合わされることの恵みをことのほか重視し、これが私たちの救いと救われた者の生の基礎であり、また目当てであることを強調してやまなかったのは、宗教改革者カルヴァンです。カルヴァンはその主著であるキリスト教綱要の第三篇、これは聖霊論、救済論を扱う篇ですが、その冒頭で次のように記しました。「先ず第一に確定しておかねばならないのは、キリストが我々の外に立ち、我々が彼から離れている限り、彼が人類のために苦しみを受けて果たされたどんなことも、我々にとって無益であり、何の意味もないという点である。それ故、彼は我々を御父から受けたものに与らせるために、我々の一人となり、我々の内に住まねばならなかった」。教会の教えの歴史においては、「キリストとの結合」の教理は時として神秘主義や体験主義に流れていく傾向がありました。それでその反動として、救いの教えを法的な概念で整理し、精緻な論理によって説明する傾向が強まっていったこともまた事実です。しかしそのような中でカルヴァンは、神秘主義や体験主義に流れることなく、しかし法的な概念では包み切ることのできない重要な教えとして、この「キリストとの結合」の教理を重視したのです。
 カルヴァンは聖霊なる神のお働きに注目し、この聖霊によって「我々の外」なるキリストが「我々の内」に来てくださり、私をキリスト御自身に継ぎ合わせ、結び合わせ、ますますその結びつきを固く確かなものとしてくださることを明らかにしたのでした。それでカルヴァンはこうも言っています。「そういうわけで、彼は我々の首(エペソ4:15)、多くの兄弟の内の長子(ローマ8:29)と呼ばれ、我々はその逆に、彼に接ぎ木され(ローマ11:17)、彼を着る(ガラテヤ3:27)と言われている。これは、およそ彼の持つものは、彼と一体となるまでは我々に達しないからである」。これらのカルヴァンが引用している御言葉をみても、キリストとの結合の教えが、私たちの救いの全体にいかに深くあまねく関わっているかが分かるでしょう。

(3)キリストとの結合を固くするもの
 私の友人で、神学校以来ずっとこの「キリストとの結合」のテーマを追求し、今はオランダで学んでおられる石原という先生が、ある論文の中で次のような大切な指摘をしておられます。「『キリストとひとつになる』ということが、まさに一つの神秘(奥義)であるということが忘れられてはならないであろう。それは神秘であるゆえに、信仰者には、それを説明することよりも、まずはそれを自ら味わうことが求められている。カルヴァンも『わたしは、この奥義の理解をこえた卓越さに対する驚きに、心を奪われている』と語り、それを説明することよりも、『むしろわれわれのうちにキリストが生きておられることを感得するようにしようではないか』と勧めている。言葉を尽くして語りつつ、何よりもそれによって生かされることを願った神秘こそ、カルヴァンの救済論の中心なのである」。
 私たちににとって、今、キリストと結び合わされていることは信仰による事実であり、それを私たちは日ごとのキリストとの交わりの中で覚えていくことができるのですが、しかし大切なことはこれを私たちが教会の交わりの中で、兄弟姉妹たちとともにキリストを礼拝し、キリストの御言葉に聞き、キリストにつぎ合わされる洗礼を受け、キリストとの結びつきをますます深く、固く、確かにしていく主の晩餐に繰り返しあずかり続けていくことです。さらにキリストとの結合は、私たちが信仰の試練の中で神を遠くに感じたり、苦難の中で神に見捨てられたかのように思える時に、実はそれらを通していっそう緊密にされるものでもあるのです。苦難の中で、試練の中で、キリストとの関係が純化され、固くされていく。それがキリストに結び合わされた者の歩みなのです。



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.