シリーズ福音に生きる24 2009/10/11
『あなたがたは聖霊の宮』

Iコリント6:19-20

 今晩は、御子イエス・キリストの贖いによって神の御前に義と認められ、神の子どもとされた私たちが、神の聖さにあずかり、聖なる者とされていく「聖化」ということについて、御言葉から教えられてまいりたいと思います。

(1)わたしが聖であるから
キリストにあって義と認められた私たちは、今度はこの義とされたものにふさわしく聖なる歩みをしていく。これを教理の言葉で「聖化」と呼びます。聖化とは、言い換えるなら神にあって生きることそのものと言ってよいでしょう。ウェストミンスター小教理問答の第35問では次のように教えられています。「問:聖化とは、何ですか。答:聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです」。ここで小教理問答が「人間全体にわたり」と教えているように、聖化とは私たちの日常の事柄であり、生活のこと、仕事のこと、学びのこと、遊びのこと、趣味のこと、お金のこと、健康のこと、これらすべてに関わってくる事柄であり、しかもまたそれはこの地上において一瞬のうちになしとげられるということでなく、一生涯かけての、まさに私の人生の全体に及ぶ事柄なのです。さらにまた小教理問答が「神のかたちにしたがって」と教えるように、聖化の歩みは、私たちがが自分とは違う何者かに変わっていくということではなく、むしろ創造のはじめに与えられた神のかたちに似せられていく歩み、創造本来の人間の姿を取り戻していく回復の歩みであるとさえ言うことができるのです。
 私たちが「聖化」ということを考えるにあたって、まず覚えておかなければならない御言葉が旧約聖書のレビ記19章2節です。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」。旧約聖書における「聖」とは、切り分けられること、取り分けられること、という意味があります。人が神にあって取り分けられる。神の子どもとされた私たちは神のために取り分けられ、神のものとして生きていく。「聖」の規準は神ご自身であって、私たちは自らのうちに自分を聖なる者とすることのできるようなものは一切持ち合わせていないのですが、「あなたがたも聖なる者とならなければならない」と命じられる主ご自身が、私たちを取り分け、ご自身の聖さにあずかる者としてくださる。これが私たちが聖なる者とされていく道筋なのです。

(2)あなたがたは聖霊の宮
 では私たちが聖なる者とされていくために、神が与えてくださったものはなにか。このことを教えるのが今日のIコリント6章の御言葉です。19節を読みましょう。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか」。私たちが聖なる者とされていくために父なる神が、御子イエス・キリストの贖いを通して成し遂げてくださったこと、それは私たちのもとに聖霊を送り、その聖霊の神が今、私たちのうちに住んでいてくださるということなのです。私たちはすでに聖霊のお働きについて、私たちにキリストを証しし、キリストを信じる信仰を与えてくださると学びました。これに加えて、聖霊の神は、私たちを聖化に導くお方として、今、私たちのうちに住んで、神の御心を教え、その御心に生きるようにと私たちを励まし、促しておられるのです。
 さらにそこから進んで、聖書は大胆にもこう語ります。「あなたがたのからだは聖霊の宮である」、「あなたがたはもはや自分自身のものではない」。聖化の問題は、私たちの生活の問題に直結します。そして生活の問題とは、まさに生身の人間である私たち自身の存在の問題と切り離すことができません。とりわけ今日の御言葉が「あかたがたのからだ」を強調することが重要です。この手紙が書き送られた当時のコリントでは様々な不道徳、不品行、放縦な生活がはびこっており、その影響は教会にも及んでいました。それは今日の私たちにも共通する時代の課題です。性犯罪や様々な性的な不品行、薬物の汚染、アルコール依存をはじめ自分や他者の体を傷つける悪しき習慣が横行しています。そこでは自分の体を自分でどうしようと自分の勝手だという言葉がまことしやかに語られ、それを留める言葉としてもせいぜい「親にもらった大切な体を粗末にしてはいけない」ということでしょう。しかし御言葉は、あなたがたのからだはあなたがたのものではない、それは聖霊の住まわれるところだというのです。だから内に住たもう聖霊を悲しませることをしてはならない。自らや他者の体を卑しめたり、傷つけたり、その尊厳を踏みにじることがあってはならないのです。

(3)自分のからだをもって神の栄光を
 このように教えられてくると、私たちはともすると聖化の歩みを、あれはしてはいけない、これはしてはいけないという禁欲的な生き方、やたらなことをするといけないから、じっとしておこうというような消極的な生き方ととらえてしまうかもしれません。しかし御言葉の教える聖化の道筋は、より前向きで積極的なものです。20節。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」。このように御言葉は自分のからだをもって、神の栄光を現すようにと教えます。それは私たちの日ごとの歩み、生きる営みそのものを通して、ということであり、この後の10章31節で語られるように「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すために」ということに繋がるものです。霊と肉とを分ける二元論的な考え方の支配的であった当時の時代にあって、またストア派のような禁欲思想がはびこる中で、御言葉が「からだをもって神の栄光を」と教えたことの意味深さを思います。罪と律法の奴隷の状態から解き放たれ、キリストの十字架という代価を払っていただいて、神のもとに買い戻され、自由をいただき、神の子どもとされた私たちが、この神を喜び、この世界を喜び、そこで神の栄光を目指して生きていく。これが私たちに与えられていく聖化の道筋なのであって、その道を生きることには、この世の何ものによっても代え難い自由と喜びがあるのです。



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