シリーズ福音に生きる23 2009/10/04
『奴隷でなく、子ども』

ガラテヤ4:1-7

 今晩は、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、神の御前に義と認められた私たちが、今や神の子どもとして受け入れられ、喜びの存在とされている恵みについて、ともに教えられたいと思います。

(1)子とされる恵み
 先週の朝拝では小海キリスト教会の水草先生が「存在の喜び」と題して、ローマ書8章から、私たちが主イエス・キリストによって罪赦されて、今や神の子どもとされているという慰めに満ちた恵みの事実を深く説き明かしてくださいました。今晩もまた同じ主題で説教を語ろうとしていますが、その前に、義認の教えに続いて、「子とされる」ということを扱う意味について一言申し上げておきたいと思います。教理の順序では義認のあとには通常、聖化という教えが論じられるのが普通です。しかし義と認められることに続いて「子とされること」をきちんと位置づけたのは、今、夜の祈祷会で学んでいるウェストミンスター小教理問答です。そこには次のように記されていました。「第34問:子とされることとは、何ですか。答:子とされることも、神の一方的恵みによる決定です。それによって私たちは、神の子らの数に入れられ、神の子らのあらゆる特権に権利を持つものになるのです」。キリストによって義と認められるというのは、ある意味で客観的な神の御業を示す教えですが、「子とされる」ことは、それによって現実に私たちが神に受け入れられ、その特権にあずかる者とされること、さらには何といっても神を父と呼び、神から「子よ」と呼んでいただける喜びの関係、まさに私たちの存在そのもの神の喜びとされ、私もまたこの神を喜ぶことができるという私たちの主観にも働きかける教えです。
 さて、今晩開かれているガラテヤ書の御言葉は、この神の子とされた私たちが神の祝福を受け継ぐ相続人であるということを、パウロが奴隷と子どもという対比を用いながら語るところです。1節から3節を読みましょう。「ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にありました。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました」。律法のもとにあった人間は、父の遺産を相続しながらも、まだその財産を現実に受け取る年齢に達していないために後見人や管理者のもとにある相続人の姿にたとえることができます。彼は父親が残した遺言状によって父親の財産を受け取る権利をすでに約束されているのですが、まだ父親の定めた成人の年齢に達していないために、その財産を自分の手元に置いて使うことができず、父の定めた後見人、管理者に監督下に置かれているのでした。それは神の子とされる祝福の約束を与えられながら、いまだその実行の時が来る前であるために律法のもとに置かれていた旧約時代の人間の姿を示しています。

(2)奴隷でなく、子ども
 しかし、ついにその約束が実行に移され、祝福の相続を受ける時がやって来ました。4節、5節。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」。ここでの「定めの時」とは、神の御子イエス・キリストが来られて、私たちを律法の奴隷の状態から解き放ち、私たちが神の子としての身分を受けるための神の救いの時を指しています。
 こうして私たちは今や律法の重荷から解放され、罪の赦しをいただき、永遠のいのちの祝福に与ると言うすばらしい祝福の遺産を相続する者とさせていただいているのです。私たちがいかなる者であろうとも、父なる神が残してくださった遺産相続の遺言は変わることがなく、その時が来れば必ず実行される。こうして私たちは今や「神の子としての身分」を受ける者とされているのです。この「子としての身分を受ける」と言う言葉は新約聖書の中でも希なパウロの特徴的な言葉で、その意味するところは養子縁組をする、養子として迎えるというものです。父なる神は罪ある私たちを養子として迎え入れるために、実子である御子イエス・キリストを十字架につけてくださったのです。

(3)御子の御霊によって
 しかもそれだけではありません。6節、7節。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなくて、子です。子ならば、神による相続人です」。私たちが今や奴隷でなく、神の子であるを確かに証ししてくださるのは聖霊の神ご自身であられます。神の子とされたはいいが、今までの自分とのギャップがありすぎて、どう振る舞っていいか分からない。クリスチャンとしての作法も、立ち居振る舞いも、言葉遣いも、何から何まで分からないことだらけ。こんなことで自分は本当にクリスチャンでいいのだろうか、そんな風に悩むことがあります。けれども神は私たちに聖霊を送ってくださって、そういう私たちでいいのだ、聖霊があなたが神の子であることをいつも証ししてくださるといい、それだけでなく、最初は恐る恐る、遠慮がちでありながらも神様を「お父さん」と呼んでいいのだと言って「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊を私たちの心にお遣わしくださったのです。
 主の祈りについて学んだ時にも申し上げたことですが、ガラテヤ書も、ローマ書もここで「アバ、父」と敢えて「アバ」と言う言葉をそのまま使っていることを心に留めたいと思います。「アバ」という呼びかけは赤ちゃんや小さい幼子がお父さんを呼ぶ言葉、「おとうちゃん、パパ」と言う言葉です。小さい子どもとはいえ、養子として受け入れられた子が初めてこうやって呼ぶことにはいろいろな緊張がともなうことでしょう。それでもそうやって呼んでいいんだよ、と促してくださるというのです。祈りの中で「父なる神様」と呼ぶとき、私たちはその度ごとに、今や奴隷でなく子どもとされていることを確かめることができる。これは本当に幸いなことだと思います。だからこそ父なる神の御心を知り、その心に生きることを私の喜びとしたいと思います。

 



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