シリーズ福音に生きる22 2009/09/13
『神の無罪宣告』

ローマ3:23-24

  今晩は、与えられている御言葉を通して、神の御前に生まれながらにして罪人であった私たちが、イエス・キリストを私の救い主と信じる、ただその信仰によって義と認められるという救いの核心的な教えについてともに教えられたいと思います。

(1)すべての人は罪人
これまで聖書、そして聖書が示す父、御子、聖霊の三位一体なる神とはいかなるお方であられるのかを学んできました。今日からは、この神が私たちに与えてくださる救いについての教え、これを教理の言葉で「救済論」と言いますが、このことを考えていきます。しかしその場合にまず避けて通ることができないのが、なぜ人間に救いが必要なのかという問いです。聖書が教える人間観そのものについては改めて学びたいと思いますが、今日の御言葉がその答えを端的に示しています。すなわち23節で「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と語られているところです。
 聖書が教える人間の姿をまとめて言えば、神によって創造された人間は、当初、神のかたちに造られたがゆえに、神の御前にあって、神との豊かな交わりの中に生き、その身をもって神の栄光を表す者でした。しかし今や人間は神の御前に背を向け、神との交わりを失い、その身に神の怒りと裁きを招く者となってしまっているのです。しかもそれはある特定の人ということでなく、「すべての人」と言われます。聖書の人間観はそのまま聖書の罪観に繋がるものですが、今日のローマ書の御言葉が「すべての人は、罪を犯した」と言うとき、そこでの「罪」とは、まさにこの生ける神に背を向けて己を神とし、神の御心を離れて自己中心に生きる姿を指しているのです。神を神として求めず、あがめることのない人間、それが私たち罪人の姿なのです。今日のローマ書3章10節、11節でも次のように語られている通りです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」。

(2)義認−神の無罪宣告
 しかしこのような罪ある人間を、神はそのままに捨て置くことをなさいませんでした。ここの聖書の語る福音、よきおとずれのストーリーがあるのです。そしてこの福音のもっとも中心となる響きを短い言葉で言い表すのが続く24節です。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。この神が私たちをご自身の御前に「義と認めてくださる」ということ、これを教理の言葉で「義認」というのです。義認とは罪ある私たちのために主イエスが身代わりとなって十字架の贖いを成し遂げてくださったゆえに、もはや私たちは神の御前に罪を認められず、むしろ正しい者、義なる者と認めていただけるということです。しかもそれは神の恵みによる決定であるというのです。
 もともと「義と認める」とは法廷での裁判をイメージした言葉であると言われます。罪ある人間はみな神の御前という法廷に立たせられています。そこで私たちが受けるべきは自らの罪への報いとしての有罪判決と、その罰としての死と滅びのはずでした。ところが神はその裁きを私に下すことをなさらず、むしろ罪なき神の御子イエス・キリストに有罪を宣告し、その裁きを下されたのです。その結果、私たちはこのキリストの身代わりの死、これを贖いというのですが、このキリストの贖いにより、キリストの義が聖霊なる神によって私たちにもたらされ、贖い主キリストに結びつけられることによって、神の御前にあたかも罪なき者のように無罪の判決を言い渡されたのです。こうして私の罪に対する処罰は下されたので、私はもはやその罪を問われず、キリストの身代わりによって罪赦され義と認められることができたのでした。

(3)キリスト・イエスによる贖いのゆえに
 ここで私たちが特に覚えたいのは、私たちに対する神の無罪宣告が言い渡され、私たちが義と認められるために、その傍らで、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いがあったという事実です。私たちが無償で義と認められるために、父なる神の大いなる愛の決断と、御子イエス・キリストの大いなる犠牲、いのちの代償が支払われたことを決して忘れてはなりません。なる神はご自分の御子イエス・キリストを十字架につけるほどの愛をもって私たちを愛してくださり、御子イエス・キリストも私たちを愛するがゆえに、この父なる神の御心を最後まで全うしてくださったのです。まさにヨハネ福音書3章16節がこう語る通りです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
 つねづね申し上げることですが、このように考えてみますと、義認の教えを単に法的な事柄として捉えるだけでは十分とはいえないということに気付かされます。神の無罪宣告は、単なる言葉だけの宣告でなく、そのために御子キリストのいのちが差し出されたゆえであり、まさに「キリストのおかげで」のことなのです。ですから私たちは「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」との御言葉を聞くとき、神の恵みの大きさ、キリストの贖いの驚くべき出来事、価なしの救いのあり得ないほどの恵みをしっかりと受け取るものでありたいと思いますし、このキリストの十字架の御業を恩義に感じることが必要でしょう。そうでなければ、キリストへの服従も献身も生まれてくる余地はありません。私たちは教理の言葉を学ぶときに、これを単なる救いの論理として味気ない教えの言葉として受け取るのではなく、そこにこめられた神の愛を深く受け取り、キリストのおかげという贖いの御業に深く恩義に感じ、その意気に感じてキリストに従っていくものでありたいと思うのです。
 キリストの義が私たちに信仰をもって受け取られるとき、私たちの生き方が、私のために命を捨ててくださった方のために生きるようになる、そのようなキリストの愛と命に生かされる信仰の歩みを続けてまいりたいと願います。

 



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