シリーズ福音に生きる19 2009/08/23
『主のよみがえりを信じる』

Iコリント15:12-20

 今晩は、十字架とともに主イエス・キリストの復活が、これを信じる私たちにどのような祝福と益をもたらすかについて、御言葉から教えられてまいりたいと思います。

(1)復活の信仰の確かさ
 主イエス・キリストによって救われた者には、天の御国の約束とやがてのよみがえりの希望が与えられている。これが主イエスの十字架と復活の御業によって私たちにもたらされた祝福であり、私たちの信仰の真髄ともいうべきものです。しかしすでに前回までで学んだように、この信仰の真髄が同時に信仰に導かれるにあたっての最大の躓きでもあることは確かです。それで使徒パウロはこのコリント人への手紙において、キリストの復活の確かさと、キリストの復活によって約束されたキリストにある者たちの復活の希望について語るのでした。12節から19節。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」。
 このように御言葉は、もし復活がなかったら、私たちの信じる信仰も、宣べ伝える福音の宣教も、そして罪の赦しすらも実質のないむなしいものとなり、それどころか、「神について偽証をした者ということにな」ってしまうのであって、死の恐れに飲み込まれ、何の希望も慰めもなく生きるほかない者となってしまうと言うのです。しかし聖書ははっきりと御子イエス・キリストの復活の事実を語り、しかもそれが私たちに希望と慰めと益を与えることを示しています。

(2)復活の信仰がもたらす希望
 主イエスの復活を信じる信仰がもたらす希望、それは主イエスを信じる私たちにも死に打ち勝ち、永遠のいのちにあずかることが約束されているという希望です。これがなければキリスト教信仰はもはやキリスト教信仰でなくなってしまう。それこそ何の意味も持たないものになってしまうのです。そこで私たちが今晩しっかりと心に刻みつけておきたいのが20節、21節の御言葉です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです」。
 「今やキリストは死者の中からよみがえられた」。この宣言ともいうべき言葉を、そのまま自らの信仰の告白として言い表すことができることほど幸いなことはありません。パウロは12節からの議論で「もしも復活がなかったら」、「もしもキリストがよみがえらなかったのなら」とくり返し仮定の言葉を綴りました。私たちの「もしも」は「そうでなかったら」という不確かさを含むものですが、聖書の「もしも」は実に確かな事実を際立たせるための反語的な表現です。つまりパウロが最初から最も確かなこととして力を込めて言いたかった言葉こそが、この「今やキリストは死者の中からよみがえられた」、今や、確かに、事実として、現実として、主はよみがえられた、という高らかな宣言です。

(3)復活のもたらす益
 いつもご紹介するハイデルベルク信仰問答地上の第45問では「キリストのよみがえりは、私たちにどのような益をもたらしますか」と問います。「益」を問うというのはこの信仰問答の重要な特色ですが、ここでは復活の益を三つにまとめて説明しています。「第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によって私たちのために獲得された義に私たちを与らせて下さる、ということ。第二に、その御力によって私たちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。第三に、私たちにとって、キリストのよみがえりは私たちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです」。
 ここでは復活がもたらす益が「すでになされたこと」、すなわち過去のこと、次に「今なされていること」、すなわち現在のこと、そして「これからなされること」、すなわち未来のことという三つの局面で説明されています。第一の「すでになされたこと」とは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが決定的かつ一回的に義と認められているということです。第二の「今なされていること」とは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストの獲得してくださった永遠の命の祝福の中に生かされているということです。そして第三の「これからなされること」とはキリストの復活がやがての時に迎える私たちの復活の保証であり、初穂であるということです。ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となるのであって、この希望が確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力となって私たちに及んでくるのです。この希望の力に生きることができるところに、復活の信仰の最大の益があるといえるのです。これは何と深い慰めに満ちた言葉でしょうか。主イエスのよみがえりは私たちの復活の初穂である。やがて時が来れば主イエスにあるすべての穂が実りを迎え、復活の朝を迎えることができる。そしてこのやがての時にはすべての聖徒たちとともに復活の主の御前にともにあることが許される。この希望こそが私たちの信仰の真髄なのです



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