シリーズ福音に生きる18 2009/08/09
『復活のキリスト』

ルカ24:1-12

 今晩は、十字架とともに主イエス・キリストの御業の中心である、復活の意味について、御言葉から教えられてまいりたいと思います。

(1)復活の意味するもの
福音の教えの中で、十字架と並んでもっとも中心的なものでありながら、しかし歴史の中でもっとも挑戦を受けてきたものが、復活の信仰です。主イエスが十字架に死なれたことは歴史上の事実として、今日多くの人が受け入れているところですが、これが主イエスの復活となると、様子は一変します。特に近代の人々にとっては死人のよみがえりなど到底受け入れることはできないとされ、復活の出来事は真っ向から打ち消されるか、そうでなくてもせいぜい弟子たちの中で拡がっていった端なる復活伝説に置き換えられてしまっているのが現実です。しかし、実際に主イエスがよみがえられた時の人々も、この出来事を当たり前のように受け入れたわけではありませんでした。むしろそこには驚き、戸惑い、疑い、恐れといった、私たちが今日抱くのとさして変わらない反応があったのです。そして聖書はそういう人々の反応をそのまま包み隠さず、ありのままに示す。そこにかえって聖書が証しする復活の出来事の真実味があるともいえるのではないでしょうか。
 今日開かれているルカ福音書24章は、十字架から三日目の朝、墓を訪れた女たちの姿を描くところです。墓がからっぽで主イエスの亡骸が見あたらないのをみて途方に暮れる女たちに、御使いが近づいてこう語ったというのです。5節。「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう』」。ここで御使いは「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」と語りかけます。十字架で死なれた主イエスがここにはおられない。なぜなら主イエスはよみがえられたからだと。「誰かに盗まれた」とか「墓を間違えた」などと人間が想像するような可能性には一切触れられず、さも当然のことであるかのように、すでに定まっていたこととして「よみがえられたのだから」と答えられるのです。この人間にとってはあり得ない驚くべき出来事が、しかし神にとっては当然の出来事として現実に起こったところにキリスト教信仰の拠って立つ土台が固く据えられたのです。

(2)見つかる幸い、見つからない幸い
 ここで私たちは「見つからなかった」と、「捜す」という言葉の意味するところを考えておきたいと思うのです。これまで幾度か申し上げてきたように、ルカ福音書が好んで用いるテーマの一つに「捜す、見つかる」という形式がありました。15章や19章がその代表例です。そしてそれと同じテーマがここにも現れているのです。しかしこれまでのテーマが「捜す」「見つかる」であったのに対して、今日の箇所では「捜す」けれども「見つからない」、そして「ここにはおられない」となるのでした。これまでの箇所では捜して見つからないことはなかったのに、肝心のこの復活物語では捜すけれども見つからない、となってしまうのです。
 しかしここに大切な真理が隠されていることに注目したいのです。すなわち、これまでの15章や19章、その他の「捜す、見つかる」形式では、捜すのは神であり、捜されるのは失われた人間です。そしてやがてついに人は神によって発見され、見出され、そこには天における大いなる喜びが湧き上がるのでした。発見の喜びの物語です。ところが、今日の箇所では捜すのは人であり、捜されるのは主イエス・キリストです。けれども彼らはイエスを見つけることができない。なぜなら彼はよみがえられたからだ、というのです。つまり、神が人を捜すことにおいては見つかることが喜びなのですが、人が神を捜すことにおいては見つからないことが喜びなのだと言うのです。なぜなら、私たちの神は死せる者の神ではなく生きている者の神であり、私たちを生かすための永遠の命を賜る真の神であられるからであって、そのお方を死人の中に捜しても見出すことは出来ない。主イエスは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と仰せになるお方なのです。

(3)私たちのための十字架のキリスト
これらの出来事の後、弟子たちの反応が次のように記されます。11節、12節。「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った」。弟子たちの中にはこの女性たちの証言を信用できない人々がありました。ペテロが墓へと走ったのも、女性たちの証言を確認する意図があったのかもしれません。ともかくルカは冒頭に申し上げたように、主イエスの復活の朝に、主イエスの弟子たちの中に動揺や戸惑い、混乱があったことを率直に記すのです。この混乱ぶりは、そのままルカが福音書を記した当時の初代教会における復活信仰への人々の反応、そしてまた今日の私たちの復活信仰への戸惑いの反応をそのまま映し出していると言えるのではないでしょうか。「主イエスの教えは分かる。その愛の姿にも共感する。十字架も受け入れよう。しかし復活を信じることは・・・」。このような反応はしばしば起こり得るものです。
 では主イエスの復活がキリスト教信仰への障害となっているのならば、いっそのことその教えを省いてしまえば良いのか。決してそうではありません。それでは使徒パウロがIコリント15章で語ったように、「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになる」のであり、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」。今日、復活を否定して、主イエスを単なる理想の人間像として生き方のモデルとするようなヒューマニズム化されたキリスト教が多くあります。それは一見すると人々の耳には聞こえよく、受け入れやすいものかもしれません。しかしそれでは、私たちにとっての一番の問題である罪の解決、死に対する勝利はなんらもたらされないままです。主イエス・キリストの復活にこそ、私たちの罪の赦しの確かさと永遠のいのちの希望がかかっているのであって、復活抜きの信仰はありえないのです。

 



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