シリーズ福音に生きる15 2009/07/05
『捜し出し、救い出す方』

ルカ15:1-10

 今晩は、私たちを罪の深い闇の中から捜し出し、救い出してくださるまことの救い主イエス・キリストのお姿の愛と熱意に満ちたお姿について、御言葉から教えられてまいりたいと思います。

(1)イエスはキリスト
これまで、神の御子イエス・キリストのご人格とその御業について教えられ続けていますが、ここであらためて「イエス・キリスト」という名前について考えておきたいと思います。よく求道者の方との学びの席でこのお名前の意味を尋ねられることがありますが、これは姓名ではありませんというと驚かれる方が少なくありません。イエスがファーストネームでキリストがファミリーネームと思っておられる方が多いようですが、そうではないのです。むしろこのお名前の意味するところに沿って言えば、これは「イエスはキリストである」ということです。「イエス」が固有名詞であることは、マタイ福音書にあるように、主イエスの御降誕の時に御使いがヨセフに「その名をイエスとつけなさい」と告げたことからも明らかですが、「キリスト」というのはこのイエスに冠せられた称号ということになります。ちょうどエジプトの王をパロと呼び、ローマ帝国の皇帝をカイザルと呼ぶのと同じようなことと言えるでしょう。
 そこで大切なのはそのお名前が持つ意味です。「イエス」というのはヘブライ語の「イエホシュア」のギリシャ語読みで、旧約聖書で言えばヨシュアとかホセアなどと言われる言葉であり、その意味は「ヤハウェは救い」、すなわち「主は救い」となります。また「キリスト」というのは旧約聖書の「メシヤ」すなわち油注がれた者、救い主ということです。つまりイエス・キリストは、旧約聖書において主なる神が約束してくださった油注がれた救い主メシヤであり、その名を「主は救い」と呼ばれるお方ということになるのです。さらに言えば、油注がれた者、メシヤというのは、主なる神が特別の務めに任職し、その職務のために遣わされた者という意味をも含んでいます。ですから主イエス・キリストは私たちの主なる神から遣わされて来られた救い主ということなのです。

(2)捜し出し、救い出す方
 このイエス・キリストは、その名の通りに私たちを救ってくださるただ一人の救い主であられます。しかしその時に、主イエスは決してご自身が不動の存在として私たちにご自身を尋ね求めさせ、捜し求めさせ、見つけ出させるまでじっとして動かないお方ではありません。むしろその逆に、主イエスの方から私たちを捜し出し、見つけ出し、救い出してくださるお方なのです。今日開かれているルカ福音書15章は、この捜し出し、救い出すお方であられるイエス・キリストのお姿が、大変印象深いたとえ話を通して描き出されるところです。まず一つ目の譬えを見ておきましょう。3節。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」。ここには失われた一匹の羊を捜す羊飼いの愛に溢れた姿が描かれています。旧約以来、愛の神様の姿はしばしば羊飼いに例えられました。イザヤ40章11節に「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」とある通りです。そしてこの羊飼いは失われた羊を一刻も早く見つけ出し、捜し出し、取り戻すためには、他のあらゆる危険や犠牲も省みずに飛び出して行くのです。ここで私たちが覚えたいのは、この一匹の羊が特別なのではなく、失われてしまっている現実が特別なのだと言うことです。それがたとえどの羊であっても、自分の羊が失われたのならば、彼はその羊を捜し出すためにどんな犠牲も厭わない。それが羊飼いの羊に対する愛なのです。
 続いて二つ目に譬えを見ましょう。8節。「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」。今度はなくした10枚の銀貨を捜す女性の譬えです。先の羊飼いの譬えが捜し求める愛に力点が置かれたのに対して、今度は捜し求める熱心さに力点が置かれます。彼女は一枚の銀貨を捜し出すために「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに」捜すのでした。そしてついにそれを発見した際には、先の羊飼い同様、その喜びを近所の人々とともに喜ぶのでした。
ここに描き出される失われた羊を捜し出して救い出す羊飼い、そして銀貨を捜し出し、見つけ出す女の姿、それこそが私たちを捜し出し、救い出す主イエス・キリストのお姿にほかならないのです。

(3)天にある喜び
 ここに語られた二つの譬え話。百匹のうちの一匹、十枚のうちの一枚と違いはありますが、共通しているのはその失われたものを捜し出した持ち主が「いなくなった羊を、なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んで下さい」と人々をその喜びの中に巻き込んでいることにあります。それほどの喜びがここにある。失われた者が見出され、捜し出される喜びが、ほとんど損得勘定を抜きにした発見の喜びがここにはある。失われた者が捜し出され、発見された喜びとはそのようなものだと聖書は一生懸命伝えているのです。
 そして主イエスの結論。7節。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」。そして10節。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」。主イエス・キリストは私を見つけ出し、捜し出そうと、あらゆる犠牲を惜しまず、あらゆる熱心さを傾けていてくださるお方であられ、そのようにして私の姿が主イエスによって発見された時には、天において大いなる喜びの歓声がわき起こるのです。あなたが主の前にあることが、主の大いなる喜びである。あなたが主の前に見出されることが、天における大いなる喜びである。主なる神がそのように私の存在を求め、捜し、見出し、喜んで下さるのであります。羊一匹と見捨てはしない、銀貨一枚と諦めはしない。このあなたを捜し求めてやまない神の愛の中にこの身を置く幸いをぜひこの朝受け取っていただきたいと切に願います

 



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