シリーズ福音に生きる13  2009/06/14
『まことの神、まことの人』

ルカ1:35

 今晩は、神の愛の語りかけの言葉が人となられた御子の地上のお姿を通して、私たちのためのまことの救い主イエス・キリストをさらに深く知っていきたいと思います。

(1)神への驚き、神への問い
私たちの信じる福音には、いくつもの驚きに満ちたメッセージが込められていますが、その中の最も大きな驚きの一つが、神の御子が人となって私たちのもとに来られたという出来事でしょう。ちょうど数週前に朝の礼拝でピリピ書2章が開かれたときにもご一緒に学んだことです。神の御子がその神の姿と特権を惜しむことなく捨て去って、この地上に、しかもその最も低い所に来てくださった。それはクリスマスの出来事において最も鮮やかに示されたことでもあります。神の御子が若く貧しい大工ヨセフとマリヤのもとに、最も弱く無防備な幼児の姿を通って来られ、馬小屋の飼い葉桶に生まれてくださった。そこには人間が担う様々な苦しみや貧しさ、虐げられたものの痛みや悩みのすべてをその身をもって味わってくださる神の子のお姿が表れていました。
 まさに神の愛は口先の言葉だけのものでなく、まことに実行力のともなった具体的な愛であること、その愛の実行に伴う神の決意の強さ、大きさ、凄まじさのようなものを感じるほどのことなのです。しかし改めて今晩、一つの問いを考えたいと思います。それはこの驚きの中で長い間、人々が問うてきたことでもありました。すなわちその問いとは、なぜ神が人とならなければならなかったのか、という問いです。全知全能の創造者なる神が私たち人間を愛してくださったその愛についてはひとまず了解するとしても、その愛のゆえに私たちのためにご自身の御子をお遣わしになるのはなぜなのか、そしてそのためにわざわざ御子を人間の姿を取ってお遣わしになるのはなぜなのか、ということです。

(2)人となられた神
 今晩開かれているルカ福音書1章35節は、処女マリヤのもとに御子の宿りを知らせた御使いの言葉が記されるところです。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」。若き処女マリヤはヨセフと一緒になる前に聖霊によってその身に子どもを宿します。しかもその子どもは「聖なる者、神の子と呼ばれる」お方であられる。それは神の側からすればまさに神が人となって来られるにもっともふさわしい方法であったと言えるでしょうが、しかし同時に私たちの側からすれば、大変な驚きに満ちた出来事であるのです。
 そこであらためて、なぜ神が人となられたのか、という問いを考えるにあたって、十六世紀のドイツで作られたハイデルベルク信仰問答を手がかりに考えたいと思います。その第16問から18問をお読みします。「第16問:なぜその方は、まことの、ただしい人間でなければならないのですか。答:なぜなら、神の義は、罪を犯した人間自身がその罪を償うことを求めていますが、自ら罪人であるような人が他の人の償いをすることなどできないからです。第17問:なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。答:その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、わたしたちのために義と命とを獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくださるためです。第18問:それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったいどなたですか。答:わたしたちの主イエス・キリストです。この方は、完全な贖いと義のために、わたしたちに与えられているお方なのです」。ここにはなぜ神が人とならなければならないのか、しかしそれでいてなお神の御性質を持ったままでなければならなかったのか、その理由が端的に記されています。つまりそこでは人間の罪ということが一番の問題となっているのです。この問題についてはあらためてキチンと取り上げたいと思いますが、結論を先に申し上げるならば、神の御前に罪ある私たち人間が救われるためには、一方でまず神の御前に罪人は裁きを受けなければならならず、その罪が赦されるためには誰かがその罪の償いをしなければならない。そして他方では、その人間の罪を赦すためには、神の求める義といのちの要求を完全に満たし、神の御前に正しいとされる存在が必要であり、そのお方であってはじめてその赦しは完全なものとされ、私たちがこの方にあって神の御前に罪赦され、義なる者とされることができるのです。

(3)ただ一人の仲保者キリスト
 ではそのような条件を満たすことができるのは一体誰なのか。ただの人間では自分の罪の償いすらすることはできず、すべての人の身代わりになることはできません。神なるお方でなければ神の義の要求を満たすことはできないのです。しかし罪が裁かれるためにはその方は人間の代表でなければならない。人間として神の裁きをその身に引き受け、私たち人間の身代わりとなって裁きに服されなければならない。この謂わば壮絶とも言える神と人間の要求を満たすために、まことの神でありつつまことの人として私たちのもとに来てくださったお方、それが神の御子、私たちの救い主、ただお一人の仲保者であられるイエス・キリストです。
そしてこの神であり、また人であられる御子イエス・キリストのお姿にこそ、主なる神の私たちに対する愛がこれ以上ない仕方ではっきりと示されているのです。先週私たちはヨハネ福音書1章18節の「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた」との御言葉を読みました。御子イエス・キリストが説き明かされた神の愛、それは繰り返して申し上げるように決して抽象的な愛、きれい事の口先だけの愛ではありません。そのために犠牲を伴う愛です。子なる神が人となって、その身に人間のすべての罪を引き受けて父なる神の御前に裁きに服すほどの愛です。父が子を見捨てるほどの愛です。それによって死んでいた私たちを再び生かす愛です。そのような愛が御子イエス・キリストによって示された。この愛をもって私たちは愛され、この愛の中へと招かれている。この恵みの事実を心に留めて、心動かされて、この神の愛の中へと進んでいく私たちでありたいと願います。

 



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