シリーズ福音に生きる8 2009/05/03
『創造の神』

ローマ1:20

 前回から、聖書の証しする神の存在と、そのお働きについて学んでいこうとしています。教理の言葉で通常「神論」と呼ばれるものです。私たちは前回、「神の名」ということを学びました。「わたしはありてあるもの」と名乗られる神は、それゆえにまた「あらゆる被造物をあらしめるお方」でもあられます。そこで今晩は、この万物の創造者なる神ということについて、御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)被造物によって知られる神
 私たちの神は「わたしはある」という名を持つお方であると、聖書は語ります。これを教理の言葉で「自己自存の神」と言います。しかもこの自己自存の神は、御自身の存在には何ら他のものを必要としない、完全な意味で自己完結したお方であられ、それゆえにまた御自身は完全に満ち足りたお方であられます。しかしその神は、決して自己満足のお方ではなく、そこからすべてのものをお造りになる創造の神であり、すべての存在をあらしめ、それによってすべての存在に意味を与えるお方でいらっしゃる。これは聖書の初め、創世記から一貫して記される、極めて重要な聖書の神観であると言えるでしょう。
 ローマ1章20節をもう一度お読みします。「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」。ここで語られていることをもう少し噛み砕いてみると、こう言い直すことができるでしょう。すなわち「創造主なる神がいかなるお方であり、どのような力をお持ちであるのかは、世界の始まって以来、この造られた世界によってはっきりと知られているのであって、人間が、そのような神がおられることなど知らなかったといって弁解することはできないということです。これを聞いて違和感を感じる方が多いのではないでしょうか。この世界が神を知らせているなどとどうして言うことができるのか。確かにこの御言葉は、この世界をじっと見ておれば、それで創造主なる神が分かるということを教えているのではありません。そうではなく、神に背を向けて神から離れてしまった人間が、後になってから神がいるなら知らせてくれればよかったのに、という言い訳ができないように、すでに神が創造の初めからこの世界を通してもご自身を知らせていてくださったと語っているのです。マタイ福音書5章45節に「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」とあるように、創造の神の恵みはすべての人の上に分け隔てなく、それを人間が知ると知らざるとに関わらず、今も絶え間なく注がれ続けています。しかし、それでも神を知ろうとしない人間の罪がここに明らかにされているのです。

(2)創造の神、存在させ、意味を与える神
 しかしこの神を信じるか否か、認めるか否かに関わらず、創造の神は今も私たちに対して生きて働きかけておられ、ご自身の造られた世界を存在させ、そして意味を与え続けていてくださるお方です。ですから私たちが創造の神を信じるかどうかは、実は単に宗教の事柄ということにとどまらず、実は私たちがこの世界をどう見るのか、この世界とそこに生きる私という存在そのものをどう見るのかに関わってくる、極めて重大な問いであるということなのです。
 この世界をどう見るのか、それによって見られる世界の在り様を指して「世界観」という言葉を使います。この世界観を形づくる一番の基盤は、この世界を意味ある世界と見るのか、意味なき世界と見るかということでしょう。そしてそれは言い換えれば「神あり」の世界か、それとも「神なし」の世界かということです。創造の神によって存在させられ、意味を与えられた世界としてこの世界を見、そして私という存在を見るのか、それとも、神なき世界、単なる偶然の産物としてこの世界を見、そして私という存在を見るのか、これはまさにこの世界の存在の意味、そしてそこに生きる私自身の存在の目的や意味に関わってくる問いなのです。今の時代、人々は自分の生きる意味や価値を見出せずにいます。そしてそのことに耐えられず、何とかその意味を見出そうと必死になっています。しかし当座の意味づけでは私たちの存在を根底から支えてくれる力とはなり得ないことに、私たちはどこかですでに感づいているのではないでしょうか。私という存在そのものに意味を与えてくださるお方、私が存在し、生きること自体を肯定してくださるお方、そういうお方が必要なのであり、まさにそのようなお方こそが、この世界を創造し、そして造られた世界、そこに生きる私たちに意味を与えてくださるお方、創造の神ご自身でいらっしゃるのです。旧約聖書イザヤ書43章7節。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」。こう語られているとおりです。

(3)創造の神を信じる
 創造の神を信じること、この世界とそこに生きるすべてのもの、そしてこの私の存在の意味を見出すことに繋がることです。神がこの世界を造られたと信じることは、ただこの世界の成り立ちを云々するということにとどまらず、この世界を造られたお方がおられることを信じることであり、この世界を今日も存在せしめ、そこに意味を与えるお方がおられる。すべてのことには意味があり、今日私が生きることにも意味があると、この生を意味ある者としてくださるお方がおられることを信じ、認めて生きることです。このことはまことに意味のあることであって、実際にはそのような意味づけを与えられることなしには私たちは一歩たりとも前に進むことができず、一日たりとも生きることのできないものなのではないでしょうか。創造の神を神とするとき、被造物である世界はまさに神によって造られた意味ある世界としてその輝きを放ち、そこに生かされている私たちも、そして私自身もまことにかけがえなく意味ある存在として生きることができる。神を神としてはじめて世界は世界としてあり、人は人として生きることができるのです。

 



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