シリーズ福音に生きる2 2009/03/08
『良き知らせとしての福音』

ローマ10:13-15

 先週から夕拝では新しく、「福音に生きる」というシリーズで御言葉を学びはじめました。先週は主イエス・キリストこそが福音のはじめ、源であるということを教えられたのですが、今晩は続いて、この福音というものについて更に深く教えられていきたいと願っています。

(1)良き知らせとしての福音
 「キリスト教とはイエス・キリストです」。先週私たちは、このような言葉を聞きました。キリスト教とは単なる宗教、思想ではなく、まさに生けるまことの救い主イエス・キリストというお方との出会いによって始まっていくのです。このイエス・キリストとの出会いをもたらす知らせを「福音」というのです。「福音」とは新約聖書のことばで「エウアンゲリオン」、すなわち「良い知らせ」という意味です。イエス・キリストとは如何なるお方であり、如何なることをなさったのか。それは私たちにとって良き知らせであるというのです。
毎日新聞やテレビのニュースを見ると、良い知らせを聞くことが本当に少ないと感じます。むしろ心痛むような、怒りを覚えるような、やり切れなさを感じるような悲しい知らせ、辛い知らせ、腹立たしい知らせがこの世界に満ち溢れています。そういう中で私たちはいつの間にか心がからからに渇いてひび割れをはじめ、そういう心がより傷つくことを恐れて自分の回りに高く厚い壁を築きはじめ、なるべく他人と関わらないように、他人の心に近づかないように、そうやって自分の心を守るために閉じこもり、その壁を越えて入り込んでこようとする侵入者を撃退しようと躍起になっています。けれどもその心の中ではどうしようもないほどの孤独やさみしさを感じ、誰かと繋がっていたい、誰かに分かってほしい、誰かと共感しあいたいという切なる思いを抱いているのではないでしょうか。

(2)良き知らせは届いている
 しかしそのように孤独と苦しみに喘ぐ私たちのもとに、福音の良き知らせは届けられていると聖書の御言葉は語ります。今日開かれているローマ書10章13節からをもう一度お読みします。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」。特にここでまず注目したいのは最後の「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」という言葉です。これは旧約聖書イザヤ書52章7節の引用ですが、そこには次にように記されています。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は」。
 これは当時、前線で戦いに勝った勝利の知らせを王のもとに伝えに走る伝令の姿を歌った言葉といわれていますが、そのように福音の良き知らせ、罪と死の力に対する完全な勝利をもたらす良き知らせである福音の言葉は、今晩私たちのもとにも確かに届けられているのです。多くの宗教は、救いを得るために様々に難行修行を積んだり、善行を重ねたり、犠牲を払ったり、お布施を積んだり、そうやって自分の努力の末にようやく救いを獲得すると教えます。しかし聖書が語る福音は、むしろ神が私たちに向かって語りかけ、そのすべてを明らかにし、求める者はこれをただで受けよと差し出していてくださるのであって、それは主なる神の全く主権的で自由で無償な愛のあらわれなのです。ですから私たちはこの福音の言葉を聞いたなら、それを受け取るだけでよい。そこにこそ、福音が良き知らせであることの一つのしるしがあるのです。

(3)福音を届ける教会
 この福音の知らせは、しかしある日突然、天から降ってくるというものではありません。もう一度先ほどのローマ書の御言葉に聞きましょう。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう」。ここには、福音の言葉が直接天からの声としてでなく、宣べ伝える人を通して語られ、聞かれていくという道筋が明らかにされています。福音の言葉はこの歴史の中で、福音の喜びを知った人々を通して語られ、伝えられていきました。その一人一人が福音の言葉を聞いた時、確かに「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」ことを確信し、その喜びをまた誰かへと伝えていったのです。この御言葉を記したパウロもまさにその一人でした。彼にもまた福音を明らかにしてくれたアナニヤという人がおり、またその信仰の成熟のために助けてくれたバルナバがおり、アンテオケ教会の交わりがあったのです。
 それと同じく、私たちのもとにも、この良き知らせとしての福音の言葉は主が用いられた多くの人々を通してもたらされています。ある人は家族、ある人は友人、ある人は同僚、ある人は思いがけない人を通して、ということであるかもしれない。けれども、それらの人々を主は用いて、私たちに良き知らせを届けてくださっています。そして何よりも福音の言葉は教会に委ねられています。先週ご紹介した永井春子先生の教理入門にはこうありました。「問:そのキリストを知るには、どうすればよいですか。教会に来て、礼拝しながら、聖書のみことばを聞くとき、御霊の働きによって、キリストを知ることができるのです。ただ知るだけでなく、キリストにお会いできるのです」。良き知らせとしての福音の言葉を、私たちは教会において聞く。礼拝しながら、聖書の御言葉を通して聞く。それこそが主なる神の福音の言葉の語り方なのであり、この教会、この礼拝の場において、聖書の御言葉を通して、私たちは良き知らせとしての福音を聞くのです。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.