エステル記講解その10  2011/10/30
『歴史を導く神』

エステル記10:1-3

 毎週一章ずつ、約三ヶ月にわたって読み続けてきたエステル書を今晩で読み終えることとなります。異国ペルシャの地で生き延びて来たユダヤ民族を絶滅させようとする大きな権力に対して、命を賭して行動したエステルそしてモルデカイの姿を描きながら、その背後におられる神の見えざる確かな御手のお働きを私たちもつぶさに見てまいりました。
 今晩は本書を読み終えるにあたり、あらためて歴史の中にあって御自身の確かな良き御心に従って万事を導き、益としてくださる主なる神様のお姿をともに仰がせていただきたいと願います。

(1)アハシュエロス王とモルデカイの功績の記録
 エステル記の締めくくりには、アハシュエロス王とモルデカイの功績を記録する言葉が短く記されています。1節から3節。「後に、アハシュエロス王は、本土と海の島々に苦役を課した。彼の権威と勇気によるすべての功績と、王に重んじられたモルデカイの偉大さについての詳細とは、メディヤとペルシヤの王の年代記の書に記されているではないか。それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである」。この短い言葉の中に書かれていること、そして書かれていないことに込められたメッセージを今晩受け取っておきたいと思います。
 まず書かれていることに目を留めましょう。王たちの在任中の業績が記録されるという習慣は旧約の列王記や歴代誌にもなどにも見られるものですが、エステル記が伝えるところによれば、メディヤとペルシャという異国の王の年代記に王に並んでユダヤ人モルデカイの業績までもが記されているという訳で、これは当時の習慣に照らしても異例のことと言えるでしょう。しかも目に留まるのは、3節に「それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである」とあるように、エステル記の記者は明らかにモルデカイの功績をアハシュエロス王以上のものとして評価している点です。モルデカイの業績はペルシャにあって存亡の危機に立たされたユダヤ人を救い出した点にありますが、それが彼の大きな功績として外国の王の年代記に記される。決して当たり前でないモルデカイについての特別の取り計らいがあることを知るのです。
 
(2)エステルの名はどこに
 次に、書かれていないことにも注意を払いたいと思いますが、それは何と言ってもここに「エステル」の名がないということでしょう。本書の講解説教のスタートの際に本書の特色を挙げましたが、その一つがルツ記と並んで女性の名が冠せられる珍しい書物であることでした。そして実際にハマンによるユダヤ人絶滅計画を阻止するために、アハシュエロス王のもとに死を覚悟してまで進み出たのも、ハマンの悪業を暴くために忍耐強く綿密に計画を練り、実行したのもエステルでした。もちろんその背後にモルデカイの知恵と具体的なアドバイスがあったのは事実ですが、それにしても彼女の功績もまた覚えられてよいのではないか、と思うのは当然のことではないでしょうか。それでも当時の社会における女性の位置付けなど考えればこのような扱いに終わるのもやむを得ぬこととなるのかも知れません。
 しかし私たちはここにエステルの名が記されないことの積極的な意味を受け取りたいと思うのです。本書の中でのモルデカイもエステルも、それぞれが自分の置かれたところで与えられたポジションの中でなし得る最善のことをした。しかもそれが決して当たり前のことでなく、大きなリスクを背負いながら、自分の命さえ差し出すようにしてことを為した人々であった。それは決して自分の立場を守ったり、より高い地位や評価、名声を得るためでもなかったということです。そういうものから自由でなければなし得ない働きを彼らはしたのです。だからそれによって功績が記録されるモルデカイがいれば、あえてその功績が記されないエステルがいてもよい。そもそもモルデカイは王宮の外の人だったからこそ敢えてその名が記されたのであり、王妃エステルの名はそうでなくても王の年代記には記されていたのかも知れません。「名を残す」ことが目的となるときに、自分の為すべきこと、為してならないことの分別が付かなくなることの多い私たちに、彼らの有り様は大切な視点を与えているのではないでしょうか。

(3)歴史を導く神
 最後に、もう一つ書かれていないことに目を留めて終わりたいと思います。アハシュエロス王とモルデカイの名があってエステルの名がないのはなぜかと言いましたが、それを言うならば一番登場すべき方の名が一度も出て来ていないことにこそ目を留めるべきかもしれません。それは本書の第二の特色としてこれまで幾度も確かめてきたことでしたが、すなわち本書の中に一度も主なる神のお名前が登場してこないということでした。けれども、それでは本書の中に神はおられないのか、エステル記は神不在のままの書物であったか、すべては人間たちの営みによって始まり、事が進み、そして終結したのか。それらを支配していたのはすべて人間の知恵と機転なのか、それとも偶然の為せる業だったのか。
 私たちが本書を通して学んできたのは、むしろ歴史の中に生きて働かれる見えざる神の確かな御手の業でした。この歴史の中に生きて働いていてくださる神がおられる。平和と正義を行ってくださる神がおられる。この確信は私たちだけが抱いているものではない、むしろ当のユダヤ人たちがそのことを確かに信じ、認めていたのではなかったでしょうか。本書の第三の特色は、過越、仮庵、五旬節に並ぶユダヤの祝祭としてのプリムの祭りが定められたことでした。9章にあったように、まさにユダヤ人たちはこの一連の出来事を神による救いの記念として覚え、代々に渡ってこれを語り伝えようとしたのです。
 歴史を導く神は、それらを通して一つの目的を果たされるお方です。神の導かれる歴史は一つの焦点に向かっています。それが後に来られた御子イエス・キリストによって成し遂げられた救いであり、さらに聖霊によって今も推し進められ、やがて終わりの時に完成する神の国の成就です。私たちは時に主なる神の御手が見えないことで、神がおられないかのように狼狽え、惑いがちですが、今、聖霊が御言葉により、御子イエス・キリストを通して父なる神の御心を教えてくださっていることに目を留めて、その御言葉によって示される神の導きに従って行きたいと思います。歴史を導かれる神を信じて。

 

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.