エステル記講解その6   2011/08/28
『王の栄誉』

エステル記6:1-14

 今晩はエステル記の物語の折り返し点となる6章を通して、人間の浅はかな栄誉心と、主なる神の織りなされる時の美しさをともに味わっていきたいと思います。

(1)ある夜の出来事
 ユダヤ人絶滅計画を何とか阻止するためのエステルの尽力と、モルデカイを何とか亡き者にしようと躍起になるハマンの策略が行き交う中に、一つの転機となる出来事が起こります。1節から3節。「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。その中に、入口を守っていた王の二人の宦官ビクタナとテレシュが、アハシュエロス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれてあるのが見つかった。そこで王は尋ねた。『このために、栄誉とか昇進とか、何かモルデカイにしたか。』王に仕える若い者たちは答えた。『彼には何もしていません』」。
 この絶妙のタイミングで、王はあの2章の終わりに起こった事件について思い起こすことになるのです。人は偶然と呼ぶようなこの出来事の背後に、しかし私たちは生きて働いておられる主なる神の御手を見たいと思います。主のなさることはすべて時にかなって美しい。まさにそのように主の御手は絶妙の時と配剤の中で、私たちの人生の中に介入してくださいます。人は自分の人生の中にも、他者の人生の中にも入り込んでこれを自在に操ることなどできません。それが時に私たちには耐え難く思えたり、理不尽に思えたりするのですが、しかしそのように人間の手の及ばない限界を私たちが内に抱え持っているということは、それだけにそこに主なる神が関わってくださる、生きて働いてくださる領域があることを表していると言えるのです。その神への信頼こそが、私たちの信仰を支える根本なのです。

(2)ハマンの勘違い
 神の時の妙味さは続く場面でも鮮やかに示されていきます。このタイミングでハマンもまた登場してくるのです。4節。「王は言った。『庭にいるのはだれか。』ちょうど、ハマンが、モルデカイのために準備した柱に彼をかけることを王に上奏しようと、王宮の外庭にはいって来たところであった」。さらにこのあたりからエステル記の物語はシフトアップして次なる段階に進んでいきます。モルデカイのかつての功績を知り、それへの報いをまだ与えていないことを知った王は、まさかハマンがこのモルデカイに怒りを燃やしていることなど知らずに、ハマンの意見を求めます。6節。「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう」。ところがハマンはこの王の意図をまったく取り違え、大きな勘違いに陥ります。このあたりは御言葉そのもので味わっておきましょう。6節から9節。「そのとき、ハマンは心のうちで思った。『王が栄誉を与えたいと思われる者は、私以外にだれがあろう。・・・王が栄誉を与えたいと思われる人のためには、王が着ておられた王服を持って来させ、また、王の乗られた馬を、その頭に王冠をつけて引いて来させてください。その王服と馬を、貴族である王の首長のひとりに渡し、王が栄誉を与えたいと思われる人に王服を着させ、その人を馬に乗せて、町の広場に導かせ、その前で「王が栄誉を与えたいと思われる人はこの通りである。」とふれさせてください』」。ここには読み手のこちらが恥ずかしくなるくらいに、王の栄誉を受けるのが自分だと信じて疑わないハマンの姿があります。しかし彼の本音は、王の栄誉を受けるというよりも、王の栄誉を己れの栄誉にしようとする欲望の姿です。王服を着て、王の冠を着けた馬に乗って登場したい。それはまさに自分が実質上の王だということを人々の見せつけたいという彼の権力欲の現れなのです。
 しかしそれが全くのハマンの勘違いであったことが明らかにされます。10節。「すると、王はハマンに言った。『あなたが言ったとおりに、すぐ王服と馬を取って来て、王の門のところに座っているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを一つもたがえてはならない』」。この時の彼の驚きと落胆ぶり、そして今まで以上に激しさを増すモルデカイへの怨嗟は想像に難くありません。王の手前、彼は自分の提案したままをモルデカイに施すのですが、それは彼にとってどれほど屈辱的なことだったでしょう。12節に「ハマンは嘆いて、頭をおおい、急いで家に帰った」とある描写の中にハマンの心中が示されています。

(3)神の御手の確かさ
 しかしそんなハマンに追い打ちをかけるように、妻や友人たちは決定的な言葉を彼に向けて発するのです。13節。「あなたはモルデカイに負けておいでですが、このモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、あなたはもう彼に勝つことはできません。きっと、あなたは彼に負けるでしょう」。モルデカイを木に吊すようにけしかけた彼らが、今度はハマンの敗北を予告する。なかなか理解の難しいくだりですが、私たちはやはりここにも主なる神の御手を見ることができるのではないでしょうか。まさかこのタイミングで王がモルデカイをこれほどに賞賛するとは。このような事態の推移の中に、神を認めないハマンの妻たちも何かしらの空気の流れ、事の動きの潮目の変化を感じ取ったのではないか。
 そもそもがモルデカイを殺し、ユダヤ民族を絶滅させる計画自体が、これといった正当な理由を持たないまったくハマンの個人的な怒りに端を発していたことでした。それがそのまま進んでいくはずがない。人間の策略で大きな歴史を動かそうとする傲慢さに、歴史がストップをかけてくる。神を信じない者たちでさえ感じ取るであろうそのような感覚を、しかし神の民はむしろ生ける神の御手の業として信じ、待ち望む。御自身を知らず、信じない民の中にさえ、時に神が生きておられる御手の業を感じ取らせる。この時のハマンの妻や友人たちは、事の推移の中にそのような神の御手を感じたのではないか。神の民にいたずらに手出しはできないと感じ取ったのではないでしょうか。
 しかも神の御手はさらに次なる手を打ってこられます。14節。「彼らがまだハマンと話しているうちに、王の宦官たちがやって来て、ハマンを急がせ、エステルの設けた宴会に連れて行った」。ハマンが自分で操っているつもりであったこの一連の出来事はもはやハマンの手を離れて、神の主導権の中に導かれはじめている。栄誉に目をくらませ、おごり高ぶった人間が見過ごしてしまう神の御手は、まさにすべてを統べ治めるまことの王なる御手として働きます。私たちはこのまことの王なるお方の栄誉を求め、その御手の業を待ち望んで生きる者でありたいと思うのです。


 



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