エステル記講解その4    2011/07/31
『たとい法令にそむいても』

エステル記4:1-17

 今晩は、エステル記3章を通して、人の悪しき企てが続く中にあってなおご自身の民に対するお取り計らいを続けてくださる生ける神の御手の確かさについて教えられてまいりたいと思います。

(1)荒布をまとって
 モルデカイが自分に服従の姿勢を取らないという、まったく個人的な怒りに端を発したハマンの怒りは、アハシュエロス王の発する法令という形でユダヤ民族を絶滅させる恐ろしい計画となっていきました。小さな怒りの感情が、一つの民族を滅ぼすまでに燃え上がっていく。人間の罪深さをまざまざと見せつけられるような思いがします。この知らせはモルデカイの耳に届きます。1節。「モルデカイは、なされたすべてのことを知った。すると、モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら町の真中に出て行き、王の門の前まで来た」。さらにこの法令が引き起こした大きな恐怖と悲しみは、やがてペルシャ全土に散らばって生活していたユダヤ人たちにも及びます。3節。「王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人のうちに大きな悲しみと、断食と、泣き声と、嘆きとが起こり、多くの者は荒布を着て灰の上にすわった」。
 バビロン捕囚以来、すでに彼らはこの異教の地で、民族的な苦難をいやというほど味わってきました。もうこれ以上の苦難はないという経験を十分にしてきた彼らに、なおも追い打ちをかけ、とどめを刺すかのような苦しみが加えられなければならないのか。まさに神の救いの御手はいったいどこにあるのか、と叫ばずにおれないような状況がここにはあるのです。まさに絶体絶命の危機の時です。しかしこの時のモルデカイにとってほんの微かな希望があのアハシュエロス王に見初められて王宮に入ったエステルの存在でした。モルデカイはエステルに恐るべき計画が進行していることを知らせます。8節。「モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ」。知らずにおれば、もしかするとそのまま事は進んで行ったかも知れません。しかし知った以上はそれに何らかの決断をしなければならない。知らずにいる罪もあれば、知って知らぬふりをする罪もある。しかしそこでエステルは一つの決断へと導かれていくのです。

(2)もしかすると、この時のため
 そんなエステルの前に立ちはだかったのは王の法令というこの世の力でした。11節。「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、渡しはこの三十日間、まだ、王のところに行くようにと召されていません」。いくら王妃とはいえ王の特別の許しなしには近づくことができない。もし近づけばそれは死を意味する振る舞いでした。
しかしそんな躊躇を見せるエステルに、モルデカイは間髪入れずにこう迫ります。13節、14節。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」。今晩、私たちが目を留めたい大切な言葉がここにあります。「もしかすると、この時のため」。自分の人生の意味、存在の意味を、私たちは漠然と考えながら日々を生きています。しかしある特別な究極の事態の中で、その存在の意味が深く問われる時がある。自分の人生の意味、目的というものが非常のはっきりと明確に問われる時がある。自分はこのためにこの時、この場に生かされ、この目的を遂げるためにここに存在しているのではないか。そういうここ一番の存在の意味が露わにあれる時がある。これを見過ごしにしたり、わざわざ見ないふりをしたりすることはできません。神の御前に生きるということは、そのような存在をかけた時を捕らえて生きる感覚を日々養いながら、「いざ」と言うときのために「いつも」を誠実に生きる生き方に他ならないのです。

(3)たとい法令にそむいても
 エステルは、このモルデカイを通して示された神の御前での自らの存在の意味、目的を真正面から受け取りました。しかもそれは単に彼女一人の英雄的なヒロイズムに支えられたものでなく、神の民、礼拝の民としてのイスラエルが長年培ってきた信仰の蓄積の中で、その集大成のようにして彼女に負わされた決断でありました。それで彼女はこう言うのです。16節。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。わたしも、わたしの侍女たちも、同じように断食しましょう。たとい法令にそむいても私は王のところにまいります。私は死ななければならないのでしたら、死にます」。
 王の圧倒的な権力。自分のいのちを心一つで左右することのできる生殺与奪の権を持つ王の力の前で、しかし彼女はその権力を超えるところに自分の人生を据えていました。王の法令に従って生きることは、この国で生きる人間の常識です。それはある意味で神が許された秩序として、皆が重んじるべきものです。しかし時にはたとい王の法令にそむいてでも神に従わなければならない時がある。そういう時を見極める賢さ、その時に神に従うことのできる信仰、その信仰に生きることのできる決断。そういうものを私たちは日頃の生活の中で養っていかなければならないのだと思います。キリスト教信仰は決して死を美化するものではありません。特にプロテスタント信仰は、信仰のゆえの死を最高の徳と見なすような殉教の神学には立ちません。けれども、主への信仰の告白を貫くためには王にさえ抵抗し、それゆえに死が待ち受けているならばそれすらも甘んじて受けるという抵抗の神学を持つことが求められているでしょう。「体を殺しても、魂を滅ぼすことのできない者を恐れるな」と言われた主イエスの言葉は、信仰の弱い私たちを死へと強制する脅迫の言葉ではなく、死に至るまで私たちに忠実な信仰を与えてくださる聖霊の約束を伴った励ましの言葉です。神の国に生きる者は、この世では旅人、寄留者であり、神の国のおきてに従って生きることが貫かれるところには、時に王の法令に背いてでも歩むべき道がある。その道を私たちにも行かせてくださいと、ひたすら主に願い求めたいと思うのです。

 

 



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